戦国時代と軍事革命 中

 日本を題材に軍事革命論について検討しているGuns and Government: A Comparative Study of Europe and Japanの続き。筆者が政治的軍事的変化の証拠として注目している3分野のうち、まずはローカルな戦国大名の政府の実情だ。応仁の乱によって全国的な政府が存在しなくなったのを受け、戦国大名は「より効果的な地域政府」を作り上げる必要に迫られたが、その動きは鉄砲伝来のずっと前から見られたというのが筆者の主張である。
 まず鎌倉時代だが、朝廷と幕府のそれぞれが地域に自分の手下を送り込んだ格好になっており、支配機構の独占ができていなかったという。加えて幕府は守護をあちこちの国に異動させ、彼らが地域に根差した権力を作り上げる余裕を与えなかった。また鎌倉時代の主君と御家人の関係は「家族的な関係に基づく道徳的なもの」だったため、時間とともに薄れていくのが通常だった。室町幕府の守護もローカルな権力の確立という点では効果に乏しく、守護たちが地元ではなく京都に住んでいたこともその傾向を強めた。将軍自身も守護が地方で権力を築き上げるのを妨げようとしたそうで、つまり全国的な政府の存在が地方での効果的政府設立を邪魔していたことになる。
 筆者は鎌倉幕府も室町幕府も「ずっと遠くまで届いているが社会に深く根差していない」政府だとしている。これを加速したのが荘園制度。複雑で重層的な支配関係を持つ荘園制度のために政府の公的な権力というコンセプトが定着せず、加えて「職の体系」という、荘園の土地そのものではなくそこからの収入に対する権利が重視された仕組みが存在していたため、まとまったローカルな単位での権力が生まれづらかったとしている。
 このあたりの荘園理解がどのくらい正確なのか、私には判断しかねる。こちらでは「荘園は私的大土地所有ではない」との理解が21世紀に入って進んだことが指摘されているが、20世紀に書かれたこの文献だとまだ荘園を「私的所有地」と認識しているようで、それに対する地方政府のスタンスを「公的権力」と書いているあたり、実は細かい理解としては間違っている可能性がある。ただ重層的な所有関係を持つ荘園の存在が、地域の一円支配をめざす効率的な政府と相性が悪かったという理屈なら、大きな間違いではないとも思える。
 いずれにせよ鎌倉幕府も室町幕府も、各レベルの戦士階級にとっては不安定なシステムであった。それに対し、戦国大名は自らの領土にたいしより効果的な支配を及ぼそうとした。彼らの権力は4つの領域で観測される。リーダーとフォロワーの関係、領地の一体性、政府と法律の有効性、そして課税力だ。

 戦国大名の成功は、フォロワーたちに対する厳しいコントロールにかかっていた。北条早雲がその早い事例として紹介されている。具体的に戦国大名が取り組んだのは、組織作りにおける家族基盤のつながりからより契約的なつながりへの移行、そして重層的な荘園制度の消滅と一元的な土地支配である知行へのシフトだ。wikipediaによると知行へのシフトは室町時代の守護の時代から現れていたそうだが、それが一段と加速したという理屈だろう。
 さらに戦国大名たちは、部下に土地を与えるやり方から、すぐに収入を保証するやり方へと変えていった。早くも1491年には北条早雲がそうした方向に舵を切っているという。部下たちを地元の所領に置いておくのではなく、可能なら城下町に集めるという手法は、こちらでも紹介しているし、実際に見られた傾向なのだろう。
 これについて封建的という表現を使うのに、筆者は反対している。機能的に言うならこれはむしろ封建的な関係のふりをした「プロの傭兵関係」だ、という指摘である。これまた以前に紹介した書物で、足軽を日本版の傭兵と見ていることを紹介した。イングランドでも13~14世紀のindenture契約が封建的な形態を取った傭兵契約だったそうで、機能的にはそれと同じものとみなすべきという主張だ。このようなビジネスライクな契約関係にシフトしていったことで、戦国時代は以前より裏切りや主従関係の破棄を容認する傾向が強まった。戦国大名の方も道徳的な力ではなく、物理的な力や報酬、懲罰といった方法でより効果的な主従関係を築き上げようとしたようだ。
 土地ではなく支払いによってフォロワーを集めるようになった戦国大名にとって、農業をはじめとした産業の生産性向上は自らの利益に直結するものだった。商業から上がる税は領地を極端に広げずとも手に入るものであり、こうした経済振興策を基盤にして戦国時代の軍は急速に規模を膨らませた。初期の戦国大名はそうやって比較的小さなまとまった領地を自らのものとしていった。日本史上で初めて所有と支配が厳密に一致するようになった。
 大名が成功したのは、彼らがきちんと監視するのに可能なくらいの小さな領地から始めた点にある。また全国政府の消滅によって新たに法的な体制整備が必要になり、それを大名が担うことになった。極めて包括的な分国法が作られ、大名は部下となった傭兵たちに行政も任せるようになっていった。強力な大名の支配下では農民や商人もメリットを受けるようになり、彼らの支持も得られた。大名はフォロワーである戦士階級のみならず、全社会と領土の全経済にまで監視の目を行き届かせられるようになった。
 加えて彼らは一種の正統性も手に入れた。領地内の秩序を保全することを名目に税を集めるようになり、さらにはそれを口実に検地が行われるようになった。以上のようなトップダウンでの政治的変化は、全て1543年より前から見られるものであり、つまり火薬兵器が登場する前から地方単位の「強い政府」が生まれていた、というのが筆者の主張だ。

 続いて第2の分野、ボトムアップの部分だ。戦国初期の混乱期に村はそれ以前よりも自衛の姿勢を強めた。特にローカルな戦士階級(国人)たちとの闘争は、大名が村々に対する支配を及ぼすうえで大いに役立った。おそらく惣村の発展と、そこから武士(地侍)になる連中が出てきたことを示しているのだろう。彼らは大名にとっては潜在的な兵力動員の可能性を増す存在になった。
 惣村は国人レベルの戦士階級との闘争において、戦国大名に支援を求めた。武装した村人たちという新たな階級が勃興し、彼らは長柄や弓矢で武装させられる効果的な歩兵集団になり得た。中には地方の行政官になるものもいただろう。また村々と国人との対立は、戦国大名に介入の口実を与え、彼らの地域に対する支配権をさらに強めた。江戸時代になるとこうした権力に組み込まれた村々の自由は結果的にむしろ奪われることになったのだが、少なくとも当初の時点では村側にもメリットがあった。またこうした村レベルでの変革は、大名が傭兵たちを城下町に集住させる動きを支えた。
 このあたりの動向はこちらの図が簡単に流れを示していて分かりやすい。守護の時代ではまだ様々なレベルの勢力が互いに相争っていたのが、戦国大名になって権力が一元化されていった様子が窺える。同時に室町から戦国時代にかけて社会的流動性が高かったことも分かる。身分が画然と分けられるようになったのはもっと後の時代。「不和の時代」は流動性という点では高い時代なのだろう。
 ただし、くり返しになるが、日本の中世に関する筆者のこれらの理解がどの程度きちんとしたものであるかについて、私には判断する能力が乏しい。戦国時代の動きなどは詳しい人が大勢いるし、中世社会の実情は、おそらく今よりずっと自力救済の色彩が強かったのは間違いないとしても、どのような行動原理に従って人々が動いていたのかについては詳しくない。
 1990年代に書かれたものであり、また外国人が記したものである点からも、細かいところを見ればおそらくツッコミどころは多数あるだろう。また筆者がしばしば行っている欧州中世との比較についても、どのくらい妥当なものかは詳しくは分からない。そうした前提のうえで、それでもなお大きな傾向として鉄砲伝来より前に「強い政府」がトップダウン、ボトムアップの双方によって作り出されつつあった可能性は高いと思える。

 閑話休題。第3の分野である軍事的な変化だ。ここでも筆者は、ほぼあらゆる面で軍事的変化が鉄砲伝来より前から始まったと主張している。軍のサイズ、その構成、戦術的な実践のどれを見ても、火薬という技術の前に変化が起きているという主張だ。詳細は長くなったので以下次回。
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