戦国時代と軍事革命 上

 1995年に書かれたものだが、Guns and Government: A Comparative Study of Europe and Japanがなかなか面白かった。Parkerの軍事革命論に対する反論として日本の歴史を取り上げるという内容。今でこそ軍事革命論に対する異論は(これまでも紹介してきたように)珍しくもない存在となっているが、この文章が書かれた1990年代半ばはまだParkerの初版が出た1988年からそれほど時間も経過しておらず、それだけに議論が盛り上がっていたのだろう。
 特に指摘されているのが、軍事革命論の「技術決定主義」的な面だ。この文章のまとめによれば、軍事革命とは以下のようなものである。戦術革命によって歩兵集団が戦場を支配するようになり、それが要塞や攻囲戦を変えてさらに歩兵の重要性が増した。これに伴って軍の規模は拡大し、欧州での紛争は激しくなって欧州外にまで広まった。戦争の規模と強度拡大によって社会の側も多大な労力を戦争に投じる必要があり、それが集権的で効率的な国家につながっていった。
 問題はこうした流れをもたらした要因だ。2つの説明があるそうで、そのうちの1つが技術決定論。火薬兵器の導入こそが変化の主要な原因になったという考えである。もう1つはより複雑で多様な要因を取り上げる議論。Parkerはまさに前者の立場で議論をしており、火薬の登場からルネサンス要塞が生まれ、大規模で長い戦争を強いられた国家は補給や財政を支えるためより効率的になっていったという。さらにこうした変化は欧州による世界各地の軍事的支配までもたらした。
 ではそれに対する異論はどんなものか。例えば歩兵の重要性が増したといっても、当時の歩兵には銃兵だけでなくパイク兵もいた。攻囲の難しさという点では、別にルネサンス要塞だけでなくエドワード1世時代のウェールズの城も同様に厄介な防衛拠点であった。また軍の規模拡大は決して単調に進んだわけではなく、停滞の時期と急速に増えた時期とがあった。何よりこうした技術の効果は必ずしも一様ではなく、例えばアメリカ大陸の支配に関しては武器より病気の方が影響が大きかった。そしてもちろんAndradeなどが言うように、軍事技術は割と容易に欧州以外の地域で模倣されていた
 この文章では、欧州が本当に世界を征服できるだけの力を手に入れたのは産業革命後、19世紀になってからだと指摘している(p79)。こちらでも触れたことがあるが、近代以降における欧州の覇権の淵源をいつに求めるかという点では、1500年前後と1800年前後という2つの説をよく見かける。Parkerの軍事革命論は前者に近く、この文章やポメランツなどは後者に力点を置いている。おそらくこの手の議論は昔からずっと存在していたのだろう。
 続いて筆者は軍事革命論の根っこにある「戦場での有効性」について自分の考えを述べている。特に歩兵と騎兵との有効性が何に由来しているかがテーマだ。歩兵にとっては規模、団結力、機動性が重要になるが、これらを全て達成するのは簡単ではない。規模は簡単に増やせても、歩兵の防御力を増すためには団結力が必要だし、さらに勝利のために攻撃力を高めたければ機動性も伴う必要がある。
 団結力をもたらすためには兵たちの間の信頼が必要だ。誰もその隊列から逃げ出さないと互いを信じているからこそ、歩兵は騎兵の突撃を前にしても踏みとどまれる。そのためには彼らが同じ社会、同じ政治体出身の同質的な人々である必要があるし、加えて訓練や経験も欠かせない。そうした訓練を施すためには十分な兵を集めて金を投じ訓練させられるだけの集権的で豊かな政府が必要になる。「強い歩兵は強い政府にかかっている」(p80)わけだ。
 騎兵は違う。騎兵の最大の優位性は機動性にあり、彼らは攻撃、追撃、そして不利な場合の逃走でその強みを示す。また歩兵より少ない数で有効性を発揮するため、大きなグループを訓練する必要性は乏しい。一方、騎兵そのものを作り上げるには歩兵より若い時からの多くの個人訓練が必要だし、彼らのコストは歩兵よりずっと高い。そのため騎兵はエリート階級で構成されるようになり、そしてエリートは強力な中央政府に対しては時に対立する。強い政府は別に必要ないわけだ。
 以上の議論から分かる通り、筆者は強力な政府こそが有効な歩兵を生み出したという立場に立っている。火薬技術は、既に中央政府の刺激によって歩兵集団が動員され、逆に乗馬したエリート戦士の影響が減っていた時代の軍隊に導入された、というのがその主張だ。強力な政府は軍事革命の結果として生まれたのではなく、むしろ強力な政府こそが軍事革命の原因になったという。
 ただしこのあたりの因果関係を欧州だけ見て説明するのは難しい。そこで筆者が利用するのが日本の戦国時代。この事例を「コントロール群」として調べれば、因果の矢印の向きを定められる、というのが彼の主張だ。もし日本に鉄砲が伝来した1543年より後に「強力な政府」が生まれていれば、Parkerらの唱える技術決定論が正しい。だが1543年よりも強力な政府が先行していたのなら、自分の見方が正解となる。さて結論は。

 分析を始める前にまず筆者は日本の戦国時代について簡単に説明している。15世紀の足利幕府は守護大名たちのバランスの上に成り立っていた。守護たちは領国ではなく京都に住み、将軍たちは彼らの影響力を使って自らの立場を保持していた。だが応仁の乱以降、守護も将軍も力を失い、権力はむしろ地方の「軍事一族」に移行した。実質的な権力基盤である土地、村々、地方の戦士階級(国人)とのコネクションを持った「[戦国]大名」たちが、中央政府の遠心化に対応し、小さいが安全な地方領地を作り上げていった、というのが彼の戦国観だ。
 この時代の日本について筆者は「政治的には独立国家によって分断されていた」と見なしている。文化的に同一であっても機能的には、特に戦争においては単一国家ではなかった。また個々の大名にとってこの時代は「生きるか死ぬか」の時代であり、独立領の数は時とともに減っていった。ただ統一の最終段階では征服されるのではなく「連邦制」に参加して生き残った大名もあり、これらの「潜在的独立領」が明治維新の際にカギとなる役割を果たした。
 こうした視点を持っている理由の1つは、欧州を日本と比べやすくなるから。日本同様に欧州も分断されており、戦国時代のように欧州も互いに相争っていた。またどちらも16世紀は経済成長期であり、どちらも軍事エリートが支配層を占めていた。日欧には「封建制」という共通の歴史用語もあるが、筆者はこの言葉に対して批判的だ。日本の戦国時代を欧州諸国の封建的無秩序と並べ、より大きな政治単位内での分断と捉えることで、大名領での政治的団結の発展に対する理解をむしろ阻害するという。大名領を国として捉え、日本を例えばフランスと比較するのではなく、欧州と対比した方がいい、と彼は主張する。
 同様に天皇(英語でEmperor)についても、これを神聖ローマ皇帝と対比するのは、機能的に違う役割を果たしていたものを並べている。むしろ日本の天皇の役割はローマ教皇に近く、いずれも文化と宗教的結束の象徴であり、正統性の淵源にして時には政治的な主体になることもあった存在だとしている。「封建制」といった間違った比較を取り外し、形式より機能に注目した方が、政治的軍事的変化についてより明白な説明ができる、と筆者は見ている。
 このあたりについて異論を持つ人もいるだろう。当時の人々がどう考えていたかは分からないが、機能面だけ見たとしても、本当にそこまで「独立国家に分断されていた」と言っていいのかどうかは不透明だ。例えば上杉謙信が関東管領になるためにわざわざ鎌倉に赴いたという話などは、独立国家に分断されていた状態だとすれば意味不明な行動となる。この文章内では軍事革命論に引き付けるため、欧州との比較しやすさを重視しすぎている可能性はある。
 加えて筆者が日本の戦国時代説明に際して利用している文献は基本的に英語のものだ。日本人が書いているものもあるため情報として問題がありすぎる、というつもりはないが、偏りがないとも言えない。加えて私はこの時代に詳しいわけではなく、以下で紹介する筆者の説明がどこまで正しいかについては評価する能力がない。そのことを踏まえたうえで、筆者の議論をさらに紹介する。

 彼が戦国時代の政治的軍事的変化の証拠として注目する分野は3つある。1つは戦国大名による地域的な政府の構築だ。これは変化のためのトップダウンの力に基づいている。2つ目は社会構造の変化と、その変化が生み出した村々及び地元戦士階級の間での争い、つまりボトムアップであるが戦国大名が自らの利益のために利用できた力だ。そして3つ目の分野が、戦国時代における実際の軍事的変化である。これらの分野で変化がいつ生じたかを調べれば、軍事革命をもたらした原因がどこにあるか分かるというわけだ。具体的には長くなったので以下次回。
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