いやあ見事に騙されていた。これ"http://slashdot.jp/~yasuoka/journal/280542"を読んで知ったのだが、QWERTY配列が「タイプバーがからまないよう」に「キーの配列を変え、続けて打たれるようなキーがキーボード上に離れてあるよう配列し直した」ものであり、「その結果、キーを叩くスピードは遅くなった」という話は、実はただの与太話だったらしい。
同じサイトの他の記事を読むと、この話はそもそもQWERTY配列に対抗する別の配列を支持している人物がでっち上げ、それをある経済学者が「ロックイン」とか「経路依存性」という経済学上の概念を説明するのに絶好の事例だとして紹介したのが広まった要因らしい。私がこの話を読んだのは多分ジャレド・ダイアモンド。彼はこちら"http://www.geocities.com/malibu_malv/curse_qwerty.html"のサイトなどでもQWERTY批判をしているようだ。経済学者の間ではよく使われる話だそうである。
でも事実は違う、というのが最初に紹介したサイトの主張。QWERTY配列が初登場した1880年代のタイプライターは、タイプバーを正面から打ち込むfrontstrike方式ではなくupstrike方式"http://www.typewritermuseum.org/collection/index.php3?cat=ku"という全然違う仕組みだったらしい。この方式だとタイプバーが絡むトラブルは構造的に起こらないのだとか。起きてもいないトラブルに対処するために考え出されたのがQWERTY配列だ、というのは確かに筋が通らない。QWERTYに関する話は史実ではなく伝説だった、という訳だ。
真面目にタイプライターの歴史を調べれば(つまり一次史料に当たれば)この程度のことは誰にでも分かるのだろう。でも、世の中で一次史料にきちんと当たることができる能力と暇を持つ人間はそう多くない。そうした能力と暇を持っていたとしても、キーボード配列に関してわざわざ労力を払いたくないと考える人もいるだろう。もちろん学者と呼ばれる人間がそこの部分をサボったのであれば批判を浴びるのは当然だが、普通の人間にとってはそこまでついて行くのは難しい。となると、どこかで見かけた話をそのまま信じてしまう私のような人間も出てくる。信じていても生存に不利になる訳ではないから、余計にこうした間違いは広まりやすい。インターネットのお蔭で調べる労力が随分減ったとはいえ、こうした問題は永遠に残るだろう。
この議論を読んで思ったのは、学者と呼ばれる人の中にも2種類あるのではないかということ。David Chandlerがどっかの随筆で書いていたが、彼は歴史学者と社会学者との間にその差を見出していた。つまり、理論重視の社会学者と、事実に論拠を求める歴史学者の差である。QWERTYについてはこれが経済学者と技術史学者の間で展開されている。
理論としての整合性とかオッカムの剃刀とかを考える人にとっては、ロックインとか経路依存性といった概念の方こそが大切で、QWERTYは単にその理論を説明する一例に過ぎないということになる。それに対して事実を重視する立場の人は、それは誤った事実認識に基づく説明だから理論の例として用いるのは適切でないと反論。すると理論重視の人の中にはなぜそれが理論に対する反論になるのか分からないと首を傾げる人物が出てくる。事実派は「例として不適切」と言っているのだが、理論の整合性こそが大切な理論派にとってはそれが瑣末な問題に見えるのだろう。
歴史好きな立場からすれば事実派の指摘は極めて重要だ。事実の裏付けがない理論は「幽霊が実在する」というオカルト的な主張と何も変わらない。でも、理論派にしてみれば理論がもたらす予測可能性の方がより生産性に優れており、重箱の隅ばかり突ついている事実派の作業はただのトリヴィア、ディレッタンティズムに見えてしまうのかもしれない。QWERTYを巡る議論を見ていると、そうした齟齬があちこちで生じているように思える。
理論と事実のバランスが取れる議論こそが最も望ましいのは間違いないが、そうした理想的な議論を見かけることは滅多にない。学問について訓練を受けている学者の間ですらそうなのだから、ただの素人同士の議論になると完全な時間と労力とサーバー資源の無駄遣いとしか思えないものが大半。前向きで生産性に富んだ議論を展開できるよう、私自身を含めて地道に努力していくしかないのだろう。
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2007/08/12 URL 編集
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2007/08/13 URL 編集