冒頭で紹介されているのはノルウェーの映画
The Worst Person In the World のワンシーンだ。映画の中に、1990年代風のアングラ・ポップカルチャーで有名になった中年のコミック作家がインタビューを受ける場面が出てくるという。だがこのインタビューはやがて異端審問と化していく。無礼で下品、卑猥で辛辣な作品で有名になった彼は、当初は知識人や左派にもてはやされた一方で、宗教的な保守派からは悪魔のごとく忌み嫌われていた、はずだった。ところが中年になったこの作家は、今度は左派から女性に関する性的な描写や男性の特権を利用しているといった点を非難されるようになる。作家は戸惑い、うんざりし、最後はブチ切れる。自分は昔から変わっていないのに、彼の周囲は大きく変わってしまったことに。
映画のコミック作家を取り巻く状況の通り、現代社会ではかつての文化的左派と右派がその立場を入れ替えてしまっている。品位や公序良俗を理由に他者を非難する役割はキリスト教右派ではなくリベラルの役目になり、逆にそういった価値観を攻撃しているのがオルトライトになった、というのが米国の実情なんだろう。このあたりは日本でも似たような流れになっているので同感する人も多いんじゃなかろうか。
なぜこうなってしまったのか。エントリーの筆者は、専門の政治活動家が生み出した利益が有権者とは関係のないところで肥大し、それがハリウッドからワシントンに至るほぼすべての産業のインセンティブをゆがめている、と指摘する。政治活動家たちの目的は、有権者の代弁者として彼らの利益を実現することにある、わけではない。政治活動家たちは、実は「自分たちの仕事を続ける」ことに一番の力点を置いている。カリフォルニア州にはホームレスの利益代弁者を名乗る政治活動家が大勢おり、州政府もホームレスのために多額の予算を割いているが、ホームレスは一向に減らない。
減ってしまうとホームレス救済のために仕事をしている団体は役目を失ってしまうからだ 。
ではなぜ政治活動家たちがそこまで力を持つようになったのか。その背景として筆者が持ち出すのがエリート過剰生産である。過去25年にわたって米国では大卒資格者が増え、その結果としての問題が生じている。大卒であれば一般的にはそれ以下よりも所得は増えるが、個々の事例を見ればそうでない人もいる。労働需給に至っては2018年に逆転が生じ、今や大卒の失業率が全体の失業率を上回るようになっている。大卒の増加と、一方で公的資金の枯渇により、大学は出たが望んだ仕事にありつけない人が次第に増えてきている。
もちろんIT関連のように需要の旺盛な分野もあるが、大卒者のうちSTEM系が占めているのは3分の1未満。大多数は文化資本や大学で培われた道徳資本を持っている一方で、資本主義社会で求められる仕事の能力は必ずしも持ち合わせていない。そうした人々を吸収してきた各産業も次第に目覚め(woke)る傾向があるが、最もそうした人々が集まり、最も「お目覚め」した存在になっているのがNGOだ、というのが筆者の指摘。彼らは「あらゆるものの中にある人種差別の構造」を見分ける大卒者を雇い入れ、さらには「解決すべき新しい社会問題を発明」し、「何もないところから消費市場を」作り出している。
そうやって社会問題を創造したNGOは、今度はコンサルティングと称してその解決法を企業へと売り込み始めた。多様性、公平性、包括性といった枕詞を使って彼らは従業員を訓練し始めており、実はそれを企業側も歓迎している。もちろん彼らに金は払わねばならないが、一方で「社会正義」という名の従業員に対する新たな規律と統制の手段が手に入るわけで、マネジメント層にしてみればむしろ都合のいい取り組みだからだ。余ったエリート志願者たちが政情不安を引き起こさないよう、ルンペンブルジョワジー(NGOなどの政治活動家)と資本家が手を組んで米企業に「小さな税」を課しているのと同じ、というのが筆者の結論となっている。
エリート過剰生産がイコール社会政治的不安定化、ではないという指摘がこのエントリーの面白いところだろう。実は過剰エリートのために新たな仕事が作り上げられ、というかでっち上げられ、その仕事が過剰なエリートを吸収し、彼らの不満増大を抑制している。もちろんこれらの仕事はそれ自体が付加価値を生み出すわけではない「寄生的」なものでしかないし、そういう意味ではこれも
ブルシット・ジョブ の一種と言えるだろう(グレーバーはそうとは認めないだろうが)。こういった「お目覚め」系の仕事は、社会の不満分子を大人しくさせることで安定度を増すという機能は果たしていると思うが、成長をもたらすとは思えない。
で、こういった対応は割と歴史的にもよくあるものではないか、というのが私の感想だ。代表例は
かつてイングランドで起きた修道院ブーム 。12世紀に次々と設立された修道院は、貴族の子弟らを大勢吸収し、彼らが不満分子として社会不安を引き起こす事態を先延ばしするのに寄与した。修道院自体はほとんど成長を生み出すことはないが、それなりの権威を持つ組織であり、しかもそこに入った者たちは原則独身を通すので鼠算式にエリートが増えるのを抑制する効果もある。まさに社会の安定装置として役に立つものだった、と考えられる。
こうした動きは成長より安定が求められる社会情勢下では有効なのだろう。そして現在の社会は、
こちらで紹介した分析 からも分かる通り、成長が鈍る中でどう安定を手に入れるかが関心の対象になりつつある、かもしれない社会だ。イデオロギー分析では安定を高める方法として古い手法であるキリスト教イデオロギーに頼る流れが強まっているのではないか、という分析結果が出ていたが、足元の「お目覚め」運動はそれと異なる手法の存在を示している可能性がある。
つまり世俗的啓蒙を枢軸宗教的に使う、という方法だ。個人的には世俗的啓蒙の方が今の産業社会では
高い包括適応度を示している から、そちらの方が影響力を増していると見ている。ただし枢軸宗教にしても国家が大きくなる中でそちらの方が包括適応度が高いので広まったと考えるなら、世俗的啓蒙が「成長」よりも「安定」をもたらすために使われる場面だって想定しておくべきなんだろう。
こちらで紹介した事例 などは、まさに世俗的啓蒙を看板にしながらやっていることは公序良俗の押し付けという点で、権威と化した後の枢軸宗教と極めて似た機能を果たしているように見える。
そう考えると、世俗的啓蒙を掲げながら堅苦しい道徳を押し付けたがる今の運動を時にGreat Awokeningと呼んでいるのは、実に正しい呼称と言えるかもしれない。18世紀以降から繰り返されたキリスト教信仰のリバイバルを意味する
大覚醒 という言葉になぞらえられているのも、「お目覚め」と宗教との類似性を考えるなら不思議はない。現代のNGOや政治運動家たちは、かつての宗教家たちと似たような存在かもしれない。なお、足元でwokeという言葉をやたらとよく使うのは保守メディアである
フォックス であり、今は「お目覚め」は完全に相手を揶揄あるいは批判する目的で使われるようになっている。
とはいえ、「お目覚め」系向けのこうした新たな仕事がいつまで過剰な大卒者を吸収し続けられるかは分からない。付加価値を生み出す能力がない仕事が永遠に増え続けることはあり得ず、必ずどこかの段階で限界が来る。中世イングランドの過剰エリートが修道院で吸収しきれなくなり、最終的にはエリート内紛争につながっていったように、現代の修道院もやがてエリート志願者を吸収しきれなくなるだろう。エントリーの筆者は今の状況を、全世界がおかしくなっているのを除けばエリートにとって良い取引としているが、いずれはエリートにとってもダメな取引になる時期が来る。問題はそれがいつ、どのような形でやってくるか、なんだろう。
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コメント
2022/10/22 URL 編集
ま、仕事に人を充てるのではなく、人のために仕事を作るのは割とよくある話なんでしょうが。
2022/10/23 URL 編集