前回、火薬を使った革命は「4つの軍事革命」でも最新のものであり、また革命が起きてからそれを反映した帝国の急激な規模拡大が起きるまでに300~400年の時間が必要であることを紹介した。そして、ワッティニーの戦いはそうした移行期がほぼ終わろうとしている時期に起きたもの、と位置付けることができる。
要塞がここまで重要視されていたのはなぜか。火薬の登場により欧州ではそれ以前より大きな政治体でないと生き残れない時代がやって来たが、日本とは異なり彼らは近代初期を通じて大きな政治体が他を飲み込んで統一へと至るという道筋は歩まなかった。その原因として
Kenneth Chaseが挙げているのが要塞だ。当時においては圧倒的な力を持っていた列強軍による攻撃を数ヶ月にわたって吸収できるルネサンス要塞のために、軍の前進は止められ、1つの軍が圧倒的な勝利を収めることが妨害された。逆に要塞を押さえればそれだけ自国の保全に役立つわけで、欧州の軍が要塞の取り合いに異様に執着していたのはそうした過去の実績があったからだろう。
またジェフリー・パーカーがマイケル・ロバーツの説を修正して唱えた
「軍事革命」においても、要塞の位置づけは重要だ。ルネサンス要塞という多額のコストを必要とする設備が軍事において重要な役割を果たすようになり、さらにその効力のために大規模な歩兵を投入する必要が生じたことが、各国に効果的な行政と課税を採用することを強い、それが欧州諸国のヘゲモニー獲得につながったというのが
パーカーの説。要塞は同時代人にとって重要だっただけでなく、歴史家が見ても後の歴史に大きな影響を与えたカギの1つと見られている。
ただし、フルーリュス以降に要塞が全面的に無意味になったわけではない点には注意が必要だろう。10万人を軽く超えるような兵力が投入された戦場では、要塞の周りに封鎖部隊を残して主力は敵野戦軍に差し向けるという流れも珍しくなくなったが、そこまで大軍が投入できない地域では引き続き要塞は重要な意味を持った。分かりやすいのが
カスティリオーネや
バッサノ、
アルコレ、
リヴォリといった、ナポレオンの第一次イタリア遠征中に行なわれた戦い。いずれもマントヴァを囲むフランス軍に対して連合軍がその救出軍を送り込んだことで始まったものだ。
ナポレオン戦争末期になっても、要塞には一定の機能があることまでは否定されていなかった。de Witも
指摘しているが、1815年戦役においても要塞(places fortes)に対する配慮はナポレオン、ウェリントンとも欠かさなかった。もちろんかつてほどの重要性はなく、例えばナポレオンは要塞の守備隊として国民衛兵隊を送り込み、浮いた正規兵を野戦軍に組み込もうとしていたのは確かだ。それでも要塞の位置づけは、この時期までの欧州においては特別なものだったように見える。
要塞の位置づけが変わった理由が産業革命による技術の発展に由来すると考えるのは難しいだろう。確かに19世紀も半ばを過ぎるとルネサンス要塞は次第に時代遅れになっていった。でも分厚い土の壁によって身を守るという手段は、別に有効性を失ったわけではない。南北戦争でも第一次大戦でも
塹壕戦は有効な戦闘手段として広く採用されていたし、21世紀に入ってからも
ウクライナで行われている。むしろ要塞は稜堡で囲まれた狭い範囲から抜け出し、広い戦線の全域にわたるところまで広まったと見てもいいくらいだ。
要塞を時代遅れにしたのは、やはり革命政府が行った大量動員とそれによる「要塞スルー」戦術の普及にあると考える方がいいんだろう。より正確には大量動員を支える経済力と国力を国家が身に着けたこと、つまり財政=軍事国家の誕生を背景に有り余るほど大量の兵士をかき集め、それらを使って要塞を迂回させてしまえばOK、という作戦だ。いくらヴォーバンでも国境沿いを全て要塞で埋め尽くすことはできなかったし、連合軍側にしても条件は同じ。だから
30万人動員や総動員の兵が本格的に使えるようになった1794年以降、フランス軍は連合軍が立てこもる要塞を迂回し、野戦軍をどんどん押し進めることが可能になった。
Turchinは軍事革命に関する議論の中で、実際に軍事の分野で革命が発生したところから、それが
具体的な政治体の拡大に至るまでには300~400年のタイムラグがあると主張している。彼が事例として紹介しているのは鉄器と騎兵が登場した時の事例だが、同じ傾向は帆船と火器による革命が起きた時にも見られると指摘している。まさに近代初期のルネサンス式要塞が栄えた時代の話だ。
パーカーの言う通り軍事革命が社会政治的な変革と、またTurchinのいう通り政治体の巨大化複雑化をもたらすのだとしたら、ルネサンス式要塞はそうした変革の途上にある時期にのみ通用する「一時的な」防衛手段として発展したものかもしれない。確かに火薬兵器を相手には無類の強さを発揮する防御施設だが、火薬兵器を通じて巨大化した国家が大量動員をするようになると、その時点でほぼ役に立たなくなり、後は
世界遺産的な観光地としての意義づけしか残らなくなる。実際に戦争に役立つのは、何もない
地べたに掘られた溝の方だ。
帆船と火器の革命はほぼ一巡し、その成果や社会政治的な影響が既に一巡した段階で完成を見たこの「塹壕戦」は、もしかしたら次の軍事革命が訪れるまで戦争の「定番メニュー」となるのかもしれない。少なくともウクライナでも塹壕を巡る争いが生まれていると伝えられるのを見る限り、ちょっとでも通常戦らしい戦争が行われれば、そこでは有効な手段としての塹壕使用が見られるようになる可能性はある。
だとするとワッティニーの兵士たちは、他のフランス革命やナポレオン戦争時代の兵士同様、ルネサンス式要塞という個別の要塞システムの終焉を見ていたのであって、ルネサンス式要塞の根本的な「土で身を守る」という考えや、そこから派生する塹壕という概念の終わりまで見ていたわけではない。彼らが過ごしたのは「始まりの終わり」にすぎなかった、という結論になるんだろう。
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