左翼のディモンから出発した縦隊は、Dupuis本p179の断面図Bにある稜線に多くの大砲を並べ、ワッティニー村を激しく砲撃した。その間、歩兵はDの峡谷を越えようと試みたが、2回撃退されてトル=コローへと後退した。士気阻喪した彼らをジュールダン、カルノー、派遣議員デュケノワが鼓舞し、隊列を組み直して再び前進させた。ジュールダンらはその先頭に立ったという。
地形の陰に隠れていた指揮官とその周囲に集まった兵を見たカルノーの弟は、彼らに行軍するよう命じたが彼らは反応しなかった。そこで彼は指揮官の襟をつかんで無理やり散弾が飛んでくるところまで引っ張っていった。兵士たちはその後に続き、勇気を取り戻して丘を登り突撃したそうだ。大砲も歩兵に続き、行軍しながら装填すると散弾を敵に浴びせた。そうやってフランス軍の左翼はワッティニー村に接近していった。
一方、デュケノワ指揮下の右翼はワッティニー北東の斜面を登るのに苦労していた。中央はより深刻なトラブルに見舞われており、峡谷を越えようとした散兵たちは敵に圧倒されたとジュールダンは書き残している。デュケノワは再度攻撃を試みたが、さらに大きな損害を出して撃退された。最後に右翼と左翼が目的の場所に到着し、全面攻撃の合図が出て3つの縦隊は同時にワッティニーへと押し寄せたそうだ。実際にそうした合図があったかどうかは怪しいが、左翼縦隊からの砲撃が正午前には味方の優勢をもたらし、左翼縦隊が教会に向けて斜面を登っていた時には、事前の準備は十分に整っていた。
コーブルクの報告によると午後1時にフランス軍歩兵が村に突入した。連合軍はワッティニー北西の橋に隠していたバルコ・ユサールの2個大隊に突撃を敢行させた。テルツィもブレシェンヴィユ大隊、クレベック連隊の2個大隊、シュタインの2個中隊の先頭に立って前進。またルロワの森東端を守っていたブルボン軍団も前進し、フランス軍左側面の散兵を攻撃した。反撃を受けた共和国軍はしばし動揺した。だがジュールダンは兵を立て直した。同時にデュケノワが中央縦隊の先頭に立って姿を現し、それを見た共和国兵は「前進、共和国万歳」と叫んだそうだ。2方向から攻撃された連合軍は白兵戦に持ち込まれ、戦場は混乱した。フランス軍は敵の大砲を奪って敵に砲撃を浴びせ、クロアチア兵は次第に姿を減らし、そして最後にはワッティニーの塔に共和国の旗が翻った。
ワッティニー村の奪取でも戦闘は終わらなかった。コーブルクを退却に追い込めなくても、村の西方にある223メートルの丘やクラルジュを奪う必要があったためだ。フランス軍の目的が左翼にあると気づいたクレルフェは、前にも述べた通りルロワの森の東端に歩兵5個大隊と騎兵6個大隊を送り込んだ。一方、この地域は騎兵に向いた地形をしており、クラルジュへと移動する兵士たちに対するルロワの森方面からの反撃に備える必要があった。
デュケノワはグラティアン将軍の旅団を223メートルの丘に送り出し、主力はクラルジュへと向かった。グラティアンの散兵はヒースの草原を進んだが、連合軍のカヴァナー胸甲騎兵、ブランケンシュタイン・ユサール、バルコ・ユサールによる突撃によりフランス軍歩兵はワッティニーに後退した。この状況を見たカルノーは、動揺しているグラティアンを解任し、兵たちを立て直すと攻撃縦隊を組ませた。そして、兵が落とした銃をつかんだカルノーはそれを装填し、敵に向かって射撃し、兵の手に銃を持たせると彼を隊列に並ばせた。さらに負傷した兵の銃を手にした彼は、縦隊の先頭に立つと「前進、勝利は我らのものだ」と叫んだ。派遣議員の姿に鼓舞された兵たちは突進し、敵を打ち破ったという。
この逸話はかなり有名なようで、
こちらや
こちら、
こちらなど、いろいろな絵画の題材となっている。さらにこの間、カルノーの弟によって大砲12門が高地まで運ばれ、歩兵を支援した。派遣議員デュケノワが率いる右翼は北東斜面を一掃してクラルジュと223メートルの丘の間でカルノーの部隊と合流し、テルツィはルロワの森へと退却した。かくてフランス軍は勝利した。
主戦場はワッティニーだったが、他の場所でも戦闘は行われていた。フランス軍最右翼ではボールガール師団が、歩兵2個大隊と騎兵8個大隊から成るハディックの分遣隊と戦っていた。午前8時頃、イェラチッチ大隊とシュレーダーの3個中隊が占拠しているオブルシー村をボールガールが攻撃。ハディックはすぐ1個中隊を増援に送り、騎兵が支援した6インチ曲射砲2門を192メートルの丘(オブルシー東)に配置した。
戦闘は激化した。テルツィはホーエンローエの5個中隊と、後にブレシェンヴィユ1個大隊をハディックに送り、後者は頑強に陣を守った。だが数時間後にオブルシーで火災が発生し、またショワジーからワッティニーへと行軍したフランス軍が帝国軍の退路を脅かしたため、ハディックは反撃の準備をした。騎兵4個大隊と歩兵4個中隊が、フランス軍の視界から隠れられる219メートルの丘から北西に降る尾根の背後に集まり、別の騎兵2個大隊と歩兵の混合分遣隊がオブルシー北東の森(Dupuisはカルオの森と呼んでいるが、地図ではカルノワの森となっている)を占拠した。
共和国軍が襲撃のため前進し、オブルシーへ突入しようとした時、ハディックはこれらの分遣隊を使って反撃した。3方向からの攻撃におびえたフランス軍はソルリエヌに後退し、敵に大砲5門と弾薬箱3つを奪われた。幸運にもこの敗北はワッティニーの戦場から遠い場所で起きたため、デュケノワ師団には気づかれなかった。彼らは右翼での失敗に気づかぬままワッティニーでの攻撃を継続したことになる。
主戦場から東に離れたボーモンでも戦闘はあった。ジュールダンは14日、フィリップヴィユに集まっている部隊を指揮しているエリー将軍に対し、ボーモンへの陽動を行なうよう命じた。あくまで自軍を危険に晒さない範囲でだが、もし連合軍がボーモンを放棄した場合はそこを占拠するよう求めている。エリーは15日、3500人の兵の先頭に立ってフィリップヴィユを出立。ボーモンへの途上にあるシランリューで渡河する際に敵騎兵の偵察隊と遭遇し、誤って味方内で撃ち合った。そして夜9時にはボシュ=レ=ワルクールに到着した。エリーはボーモン方面に護衛を配置し、大砲2門をそこに置いた。
ボーモンの指揮を執る連合軍のベニョフスキーは、歩兵3個大隊と3個中隊、騎兵11個大隊を持っていた。敵の接近を知った彼はすぐ攻撃を決断。夜10時にベフラー少佐が指揮する歩兵2個中隊と騎兵1個大隊がボーモンを発し、真夜中にはフランス軍が配置した護衛部隊を奇襲してその大砲2門を奪った。その後でベフラーはバルバンソンへと戻り、作戦の成功をベニョフスキーに伝えた。後者はすぐ4個中隊と3門の砲を増援として送り、ベフラーに対しボシュへ行軍するよう命じた。
この奇襲について、エリー将軍は新たに動員された大隊の問題点を指摘している。弾丸の音を聞いたことがなかった彼らは連合軍の射撃を受けて恐怖に捕らわれ、隊列を崩して「負けた」と叫んだ。彼らは味方の砲撃にすら驚き、踏みこたえていた味方を巻き込みながら逃げ出したという。エリーは彼らの再編を試みたが混乱はやまず、仕方なく彼はドラムを鳴らし突撃の合図を出した。敵はその音を聞いて攻撃をやめ、まだ戦う勇気があった味方の攻撃によって60人の損害を出したという。
彼はその後も苦労して逃亡兵をかき集めると、ボシュ前面の平野と村のあるところに2列の防衛線を敷いた。これに対し増援を受けたベフラーの部隊は夜明けにバルバンソンを出発し、ボシュ方面の台地へと前進してきた。濃い霧によってその接近に気づかなかったフランス軍を彼らは正面から歩兵で、側面から騎兵で突然に攻撃し、共和国軍をパニックに陥れた。第2線に配置された総動員の兵たちは砲弾が届いたのを見て再び混乱し、第1線の味方を背後から撃った。さらに彼らは逃げろと叫び、武器を投げ出して壊走した。大砲を輸送する業者は綱を切って馬とともに逃げ、冷静な兵たちも巻き込まれた。
状況が絶望的なのを見たエリーは、退却をカバーするためフィリップヴィユに残る擲弾兵3個大隊と4ポンド砲2門を送るよう命令を伝えた。どうにかこの町まで逃げた彼らだったが、エリーは部下たちの助言を受け、さらにジヴェまで後退する決断をした。共和国軍はこの戦いで捕虜400人、大砲11門と曲射砲1門、いくつかの弾薬箱を奪われ、帝国軍の死傷者と行方不明者は計138人にとどまった。ワッティニーの勝利の背後では、色々と残念な結果もあったことが分かる。
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