ジュールダンは軍の右翼と中央に示威行動を行わせ、予め増援したフロマンタンの兵を使って連合軍右翼を圧倒する計画を提案した。一方カルノーはワッティニーこそがカギだと考え、フロマンタンとバランに連合軍右翼と中央への陽動を行なわせ、数千人の兵を追加したデュケノワの兵を使ってワッティニーに主攻撃を差し向けることを考えていた。
ジュールダンによれば、カルノーの意見を取り入れるなら彼が責任を負うことになるとの指摘に対し、派遣議員は必要なら自ら実行も担うと叫んだらしい。彼の熱意が会議を引っ張り、ジュールダン自身もそれに応じるようにカルノーの意見を支持した。この流れがどこまでカルノーの役割を正確に表しているかは分からないが、いずれにせよ翌日の戦いに向けた命令は夜の間に発せられた。以下、いつものように
Topographic map of France (1836) を参照。
まずフロマンタンはコルドリエとともに16日朝、兵をラ=エイ=ダヴェーヌの前方に並べ、ルヴァルとムーラン=デュ=ヴァル(場所不明)を本格的な攻撃をしないようにしながら奪取する。12ポンド砲1門、8ポンド砲1門、歩兵の弾薬箱4つがこの部隊に所属する。コルドリエは16日早朝、バラン将軍に歩兵3個大隊とユサール1個連隊(第2)を送る。そのバラン師団は午前4時にソルル=ル=シャトー街道上に戦列歩兵9個大隊、第6猟騎兵と170騎の騎兵を配置。コルドリエからの増援を含めた師団の残りをラ=エイ=ダヴェーヌ前面に配置して敵の森への侵入を妨げる。軽兵はフルルシーとスムージー間の森を奪う。砲兵指揮官は各部隊に送る大砲や弾薬の準備を午前4時からしておく。ギーズのブレア将軍は解囲軍の背後を守る。
命令を見る限り左翼と中央には純粋に防衛任務だけが与えられていた。コルドリエ師団とバラン師団は兵力を差し出し、攻撃的な機動を行なう役目は増援を受け取る右翼のものとなった。バラン師団から送りだされる増援には12ポンド砲2門、8ポンド砲2門、曲射砲1門と弾薬箱10個が追加され、ジュールダン自身が指揮を執る。敵にこの部隊の動きが察知されないよう、ジュールダンは兵の目的地を示した文章を残さないよう注意した。彼らは午前4時にトロワ=パヴェに集まり、そこで口頭で命令を受けることになった。
これら様々な指示を出した伝令が司令部を発したのは真夜中頃だったという。ドンピエールに司令部を置くフロマンタンがこの命令を部下に伝えたのは2時半。ジュールダンは15日の戦闘が終わった後に夕方から会議に加わり、命令を出したうえで16日午前4時にはロンジュ(トロワ=パヴェ近くの農場)にいて、そのまま夜まで戦闘に参加していたと考えられる。
一方、連合軍のコーブルクの下には、解囲軍が10万人に及ぶとの情報が届いていた。もちろんこの数は誤りだが、16日にも攻撃は続くと予想した彼は新たな準備をした。アングルフォンテーヌからサンブル右岸に歩兵5個大隊を送ったほか、右翼または中央から歩兵4個大隊と騎兵2個大隊を左翼に増援した。結果として監視軍の配置は前日から大きく変化した。テルツィの左翼は歩兵3個大隊が増え、逆にクレルフェの中央は3個大隊減った。ベレガルデの右翼は歩兵7個大隊と騎兵14大隊で構成された。
Dupuisは歩兵大隊750人、中隊100人、騎兵大隊150人で推計すれば、ワッティニーの戦場にいた連合軍は歩兵1万6400人、騎兵6000騎まで増えたと指摘している。15日にデュケノワが一時的とはいえワッティニー村の奪取に成功したのはコーブルクにとって懸念材料であり、そのためテルツィの戦力は倍に増やされた。一方、3倍もの戦力を持つ軍の攻撃に対して同じ戦場で2度目の戦いを受けようと考えた点において、彼はそれだけ大胆であった、もしくは相手を軽視していたとも考えられる。彼の向こう見ずな判断は最終的には失敗につながった。
実際の16日の戦闘は、フランス軍が示威行動にとどめたため、その左翼と中央では地味な動きにとどまった。ベレガルデが反撃を行なわず、主力を主要陣地にとどめたままにしていたため、フロマンタンの2個師団はサン=トーバン、サン=レミ=ショーゼー、モンソー、ルヴァルといった峡谷沿いの村々を容易に奪取した。中央ではバランがクレルフェの砲兵と砲撃戦を行ない、午後にはオーストリア軍1個大隊でしか守られていなかったドゥルレに入った。後にベレガルデはルロワの森の東端にいるブルボン軍団支援のため歩兵9個大隊、騎兵6個大隊を送り込んでおり、バランの攻撃がそれほど激しくなかったことを示している。
最も重要だった共和国軍右翼の動きについてDupuisは詳細に記している。この兵は3つの縦隊に分かれ、それぞれショワジー、ディムショー、ディモンから出撃してワッティニーへと向かった。前衛分遣隊と呼ばれ、前日はラ=サヴァトの森(ブニー北方1000メートル地点)にいた部隊は、ブニーの森の東端から出てくるかもしれない敵を妨げるよう配置された。
ワッティニーに向かった3個縦隊にはそれぞれ困難があった。ワッティニー村はポアン=デュ=ジュールにまで至る稜線の東端突出部にあり、この稜線は223メートル、193メートル、183メートル、そして184メートルの丘(マルメゾン北東500メートル)を通っていた。ワッティニーの北東にはル=キャンプとポン=デ=ベートの間に低い尾根が伸びており、ここは登るのが困難だった。また1793年当時、この場所はヒースに覆われていた(このあたりはTopographic map of FranceよりDupuis本付属の地図を参照した方がいいかもしれない)。
一方ワッティニーの東側はソルル川までゆっくりと下る斜面となっていたが、農地や放牧地の柵によって分断されていた。ディモンからワッティニーの教会まで、159メートルの丘を経て通っている道は僅かながら起伏のある地域を通っており、歩兵の接近を大いに容易にしていた。Dupuis本のp179にはこの道の断面図が載っており、左側のディモンから右端にあるワッティニーの塔に至るまでの土地の起伏が描かれている。
左翼の縦隊はトル=コローと呼ばれる地点(断面図A)までは敵に見られることなく移動でき、AB間の斜面に隠れながら攻撃隊形を取り、秩序を持ってBCの高地に姿を見せられる。Cの稜線からはBとCの間に配置された砲兵(ワッティニーの塔からは900メートルの距離)の支援を受けながら歩兵が行軍を続けることが可能。このためDの峡谷は、事前の砲撃がきちんと行われていれば、比較的容易に越えられた。砲兵と歩兵の相互連携が容易であった点において、左翼からの攻撃は残る2つの縦隊によるものより、共和国軍にとって地理的に有利だった。
Dupuisによれば、彼の時代の戦術は全戦線で精力的に戦うことで敵が予備を投入できる場所を判断できなくするというものだったそうだ。従って彼はディモン、ディムショー、ショワジーから来る3つの縦隊が同時に積極的にワッティニーを攻める方が望ましかったと指摘。さらに左翼を重砲兵とデュケノワ師団の歩兵の一部で増援すれば、より早く決定的な勝利が得られただろうとしている。後に大損害を出しながら膠着状態に陥る羽目になった第一次大戦の直前に書かれた書物の指摘だけに、これをどこまで信用していいのかは判断に困るが、20世紀初頭における軍人たちの考えを知るうえでは興味深い言及だ。
Dupuisはこの当時の知識を使い、ジュールダンが採用した作戦について「共和国における間に合わせの将軍たちの未経験さ」を示していると指摘。さらに4万5000人の共和国軍が2万2000人の帝国軍と2日間にわたって戦い、かろうじて退却に追い込んだ理由もそこにあると記している。確かに大規模な部隊を率いた経験は共和国側が乏しく、帝国側が充実していたのは間違いない。
それでも1793年のジュールダンは、20世紀初頭のフランスの軍人たちよりははるかに実地の軍事経験は豊富だった可能性がある。少なくとも彼はアメリカ独立戦争で同じ欧州列強との戦争に加わっていた。一方、20世紀初頭のフランスで本格的な列強間の戦争を経験した軍人たちを探すと、1870年頃まで遡らなけばならなくなる。Dupuisによるこのくだり、何となく素人が玄人を評している印象があって面白い。
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