ワッティニーの戦い 9

 10月15日の戦いについて、次はフランス軍中央にいたバラン師団の動きをDupuisのLa campagne de 1793 à l'armée du Nord et des Ardennesを基に見ていこう。この地域はクレルフェ直率の帝国軍が布陣していたが、その陣地は容易には接近できなかった。谷底にあるドゥルレ、モン=ドゥルレ、フルルシーの村は南方からの攻撃に対する抵抗拠点となっており、その点はp163に載っている地形断面図からも分かる、とDupuisは記している。断面図の右側はフランス軍が布陣したトロワ=パヴェ(モブージュ街道とソルル=ル=シャトー街道の分岐点)で、左側には193メートル地点がある。
 15日朝、クレルフェの部隊は193メートルの丘に歩兵5個大隊と騎兵の大半を集めていた。ヴァラスディン大隊は前回も書いたようにサン=トーバン村に、ボヘミア擲弾兵5個大隊はドゥルレ、モン=ドゥルレ、フルルシー村と、これらの村が並ぶ峡谷の南側にあるデュ=モンソーと呼ばれるくぼんだ道(断面図C)に布陣していた。フルルシーとブニー村の間にあるルロワの森はスラブ兵3個中隊とブルボン軍団が守っていた。平面図についてはいつものようにTopographic map of France (1836)を参照。
 一方、ジュールダンの作戦によれば、バラン師団は両翼の攻撃が進んで師団の前進が容易になるまで、彼らは重砲兵を中心とした強力な砲撃をするにとどめることになっていた。彼はカルノー、派遣議員デュケノワ(将軍の兄弟)とともに午前7時にはトロワ=パヴェに到着し、師団も9時にはラ=エイ=ダヴェーヌからそこまでやって来た。砲兵は一部が西方のグラン=トリー(エピネット南)に、一部は街道近くに布陣し、ドゥルレ村及び敵砲兵が布陣するその北の斜面(断面図E)に向けて砲撃を始めた。軽歩兵の一部はサン=トーバンやフルルシーへ進み、主力は2列に並んで攻撃開始を待った。
 やがて左翼がサン=ヴァーストを、右翼のデュケノワがディムショーを奪ったという情報が入ると、カルノーはこれで勝ったと思いドゥルレへの行軍を提案した。ジュールダンは左翼がもっと進むまで待った方がいいと意見を述べたが、カルノーは自らの見解に固執し、慎重すぎると勝利を逃すと主張した。ジュールダンは結局折れ、自らバラン師団の先頭に立って前進を始めた。
 ドゥルレ前面の峡谷に到着した彼は、砲撃を受けながらそれを渡ろうと努力したが無駄だった。最初に飛び出した大隊は大砲の散弾とマスケットの射撃に圧倒され、同行していた軽砲は砲撃を始める前に破壊されて砲兵や馬匹も倒れた。ジュールダンは兵たちを鼓舞しようと自らを危険に晒していたが、その際に彼はサン=トーバンの左側の高地に敵部隊が現れ、攻撃準備をしているのを見たという。結果、派遣議員が退却に同意して師団は退却し、夜になって戦闘も終わった。フランス軍中央は1200人から1500人の損害を出したという。
 もしコーブルクがこの尚早なフランス軍の攻撃を利用し、中央部隊とともにバラン師団へと襲い掛かっていれば、容易に彼らを撃破できただろうし、そこからさらに右翼のフロマンタン師団へと転じれば完全な勝利を得られただろう、というのがフランス側の記録だ。一方Dupuisによれば、オーストリア側の公式記録、及び住民たちの証言を集めた記録も踏まえ、矛盾のない結果を推定するなら以下のようになるそうだ。
 トウヒの樹木、そして断面図AからA'に至る場所に配置された味方の砲兵に支援されたフランス軍は、スムージー村とマルケット峡谷にある敵の哨戒線を容易に排除し、また敵の射線から隠れてる断面図A'とBの斜面も簡単に登った。だが断面図Bからはフランス軍が身を隠す場所はなくなり、防御側の方が一方的に敵を叩くようになった。サン=トーバンからフルルシーまでの防衛線を守っていた帝国軍には、ルロワの森からシュタインの1個大隊及びミヒャエル・ヴァリスの数個中隊も増援として送られてきた。
 ボヘミア擲弾兵はデュ=モンソーのくぼんだ道で待ち構えていた。断面図Bの稜線からこのくぼんだ道(断面図C)まではおよそ400メートルの斜面となっており、障害物は全くなかった。バラン師団の兵がBを超えてドゥルレへと進むと、彼らは激しい火線に迎撃されて稜線Bの歯後にあるマルケット峡谷までの後退を強いられた。トロワ=パヴェに配置された重砲兵は歩兵の前進に追随できず、稜線Bが邪魔になってドゥルレなどの村々(断面図D)を砲撃できなかったし、歩兵についてきた軽砲兵は稜線Bから砲撃を浴びせようとしたがフランス軍側の記録にあるように準備が整う前に敵の射撃で大損害を被った。
 おそらく2回撃退されたバラン師団は、その後になってようやくデュ=モンソーからボヘミア擲弾兵を追い出すのに成功し、戦闘はドゥルレ村南端や、南西角にある城の付近に移動した。ようやくドゥルレに接近してきたフランス軍砲兵による支援もあり、執拗に抵抗していた帝国軍は最後にはこの拠点を撤収した。街道の東側の抵抗はより弱く、モン=ドゥルレ村はもっと手早く陥落した。
 しかしこれら敵の最前線を征服しても事態は終わらなかった。帝国軍主力はワッティニー西方の223メートルの丘からルロワ森北東と193メートルの丘を経てサン=トーバン北西にある標高182メートル(地図には183とある)の丘に至る稜線上に布陣していた。彼らを攻撃するには味方の砲兵がドゥルレ村などがある峡谷北側の稜線上(Dupuisは185メートルの丘と呼んでいる、断面図E)に到着するのを待つ必要があったが、歩兵はそれを待つことなく、息を切らせてバクニエール峡谷(断面図F)まで突進した。
 かくして砲兵の支援もなく連合軍主力から300~400メートルのところに混乱しながら到着したフランス兵は、彼らの精力的な反撃を食らった。クレルフェはまず峡谷の底に集まった共和国軍に砲弾を浴びせ、騎兵がその左側面に突撃。フランス軍は踵を返してドゥルレ方面へと逃げ出した。ジュールダンは183メートルの丘に敵の集団が現れ、ドゥルレへの反撃準備をしているのを確認し、さらにフロマンタンの失敗も知らされた。夜の接近もあって戦闘は終わり、バラン師団はドゥルレ周辺で野営をした。

 フランス軍右翼ではデュケノワとボールガールが、テルツィ及びハディックの率いる連合軍左翼と戦っていた。後者はクレベックの2個大隊がワッティニー村を保持し、シュタイン1個大隊と騎兵12個大隊(コーブルク竜騎兵8個大隊とブランケンシュタイン・ユサール4個大隊)が予備として223メートルの丘に布陣した。ハディック大佐は歩兵2個大隊、騎兵4個大隊でオブルシーを確保した。
 午前6時にフローモン(アヴェーヌ東)を出発したデュケノワ師団はブニー、ディモン、ディムショーを通ってワッティニーに前進した。それから両軍歩兵の間で戦闘が始まり、砲兵戦力で優位にあったフランス軍は午後にはワッティニー村に突入した。だが彼らが村から223メートルの丘やクラルジュ方面へ出撃したところ、シュタインの大隊及びオーストリア騎兵による逆襲が行われ、クレベック大隊も踵を返してフランス軍を壊走させた。共和国軍はワッティニーを放棄し、ディモンとディムショーの峡谷の底まで戻った。
 ソルル=ル=シャトーを午前7時に出発したボールガール師団は、10時頃にソルリヌとブレルから2つの縦隊でオブルシー方面へと出撃した。ただボールガール師団は平均して戦力が200人を超えない約20もの分遣隊で構成されていたため、彼の歩兵約5000人はうまく戦えなかったとDupuisは記している。コーブルクの報告によればオーストリアの騎兵はフランス軍を2回撃退し、大砲3門と弾薬箱2つを奪った。
 つまり15日の戦闘において、フランス軍の両翼と中央の攻撃は全て失敗した。損害はバラン師団だけで1500ほどに達し、大砲12門が敵の手に落ちた。連合軍の主戦線は手つかずで、モブージュに接近するには改めて最初からやり直す必要があった。
 夕刻、アヴェーヌに戻ったジュールダンは部下たちに新たな命令を出した。フロマンタンに対しては彼自身とコルドリエの師団の位置を連絡し、弾薬を補給するよう命じた。バラン師団に対しては歩兵をラ=エイ=ダヴェーヌの、一部は主要街道近くに、一部はブニーへの街道に野営させ、スムージーからリュティオーの線まで騎兵の防衛線を敷かせた。兵たちには夜明けには武器を取るよう命じ、各大隊は大砲と弾薬の補充を受けた。
 デュケノワは自身とボールガール師団の位置を知らせ、右側面を守り、弾薬が必要かどうかも連絡する。砲兵部隊の指揮官はラ=エイ=ダヴェーヌの背後に物資を集め、要請のある弾薬を歩兵部隊に配布する。主計官は負傷者運搬用の車両を用意し、16日のための食糧などの配布を行なう。マロイユの分遣隊はアヴェーヌ守備隊から1個大隊の増援を受け、この方面における敵の動きを連絡する。
 といってもここまでの内容は翌日に備えて態勢を整えるための命令であり、16日にどのように行動するかについてはこれから決める必要があった。帝政時代のナポレオンならおそらく個人の判断でどうするかを決定して一方的に命令しただろうが、この時期の将軍たちにはそのような行動は無理だった。ジュールダンはカルノーを含む派遣議員たちと、翌日どのように戦うかについて議論を行い、集団で方針を決定する必要があった。
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