ただしより大きな規模の組織は改善しておらず、旅団や師団単位では新たな指揮官が任命され、なおかつ部隊が絶えず再編されていた。ダンケルク解囲に向かった指揮官たちは、たった1人を除いてすべて姿を消した。ウシャール、バルトルミー、ゲイ=ヴェルノン、エドゥーヴィユ、ドマール、ランドラン、デュメニーは解雇されるか投獄され、コロー、ヴァンダンム、ルクレールは別の場所で任務に就いていた。新たにやって来たフロマンタン、ソラン、グラティアン、コルドリエ、バラン、デュケノワ、ボールガールはいずれも指揮官としての能力は未解明の状態だった。
ただ1人、司令官ジュールダンの名前のみが過去の勝利と結びつき、兵や政府が信頼を向ける対象となっていた。公安委員会やブーショットは、革命精神を持つ新たな指揮官を投入することで軍の再生が成し遂げられると心から信じていたという。だがジュールダンが本当に革命に殉じるつもりがあったのか、あったとしても選挙で選ばれた士官たちがプロフェッショナルな士官より間違いなく優れていたのか、それは疑わしいとDupuisは述べている。経験や努力を通じて才能を発展させたことのないものに、ただの布告が軍事的才能を与えることができないのを証明しているのが、ワッティニーの戦いだった。
ワッティニーの戦いは、
オスコット あるいは
フルーリュス と同様、攻囲された要塞に対する救援軍の到来によって引き起こされた。いずれも攻囲側は要塞を取り囲む部隊と、救援軍に対処するための監視軍とで構成されており、この監視軍と救援に来た部隊とがぶつかり合って勝敗が決まった。要塞を巡る攻囲戦に由来する会戦という意味で、Dupuisはこの3つの戦いについて「三十年戦争を思い起こさせる戦略がもたらした戦術的結果」と評している。
コーブルクの監視軍2万1000人は、アヴェーヌからモブージュへ至る街道と垂直に交わるように強力な地形を占めていた。以下では
Topographic map of France (1836) を参照のこと。共和国軍がエルプ左岸にいることは数日前から知られており、この街道を通じて攻めてくるとにらんだ連合軍は、戦線中央部、ドゥルレからフルルシーに至る地域にクレルフェ指揮下の9000人を集め、逆に両翼には5000人から6000人を展開するにとどめた。
一方、ドゥルレからフルルシーまでの敵は固いと見たジュールダンは、フロマンタン師団とコルドリエ師団を15日午前6時にモンショー(モンソー)とサン=ヴァーストへ、それからマルメゾンとオピタルへと移動させ、サン=トーバンの森を奪う方針を立てた。ただし彼らは、その右翼で攻撃が始まるまでラ=エイ=ダヴェーヌから出撃しないよう命じられていた。セーヌ=エ=トワーズ第10大隊はノイエルからサセーニュ間を偵察し、第6騎兵連隊と歩兵2個大隊及びランドルシーから送られた歩兵800人はマロイユ(ノイエル南西)にとどまり、アシェットの橋を通って右岸から来る敵を食い止めることになった。フロマンタンには12ポンド砲2門、8ポンド砲1門、曲射砲1門が増援された。ソランが同師団の騎兵を指揮した。
5時に集結したデュケノワ師団は6時にワッティニーへ向けて出発する。彼らはワッティニー西方のプランス森とクラルジュまで奪い、また状況に応じてボールガール師団に対し彼らの右翼を守るよう命令を出す。14日には12ポンド砲2門、8ポンド砲1門、曲射砲1門が彼らに増援として与えられていた。ボールガール師団は7時にソルル=ル=シャトーに到達し、エクレ(ソルル北方)を通りすぎ、エクレとエストリュ間の森、及びフォリー(エクレ南)とリュモン(ディムショー東)の間にある森を奪う。彼らは東西に散兵を展開して側面をカバーしていたが、西側には午前7時頃にデュケノワが出撃してくると知らされていた。
バラン師団はラ=エイ=ダヴェーヌの出口に当たるモブージュ街道に1個半旅団及び騎兵50騎を送って、その地にいたフロマンタン師団と交代する。師団の残りはアヴェーヌ郊外のモブージュ街道上に午前6時に集結し、砲兵がその後に続くことになっていた。司令官はこの主要街道上、スムージー近くにいた。共和国軍は1万4000人が帝国軍右翼と、1万6000人が左翼と対峙し、重砲兵に支援された1万3000人が敵中央を攻撃するよう布陣。ジュールダンは右翼と左翼が成功し、クレルフェの部隊のモラルが下がったところで中央師団にモン=ドゥルレの高地を攻撃させるつもりだった。
ジュールダンはモブージュからの出撃を期待していたかもしれないが、解囲軍の接近は守備隊には知らされておらず、そうした動きはなかった。フルーリュスの時もコーブルクの来援を知らせる手段がなかったが、その時シャルルロワの守備隊は戦いが始まる前に降伏しており、それよりはワッティニーのフランス軍は幸運だったのだろう。またヨーク公の軍勢が16日午後にアングルフォンテーヌに到着していたことを考えるなら、ジュールダンの攻撃が1日遅れていれば、連合軍側はこの増援も戦闘に投入できていた可能性がある。
かくして敵の倍の兵力を投入できたジュールダンは「輝かしく決定的な勝利」を収めるためのあらゆる手段を手にしていた。だが実際の会戦結果はより穏当な(フランス側から見れば期待外れの)ものとなった。以下では具体的な経過を、戦場別に見ていく。
フランス軍左翼では夜明けからフロマンタン師団がサン=レミ=ショーゼー、モンソー、サン=トーバン方面へ、コルドリエ師団がサン=ヴァーストとルヴァル方面へと移動した。一方ベレガルデが率いた連合軍右翼は標高184メートルの丘からポアン=デュ=ジュール、170メートルの丘へと至る地域に位置していたが、ロンビーズ農場(モンソー北方)から西へと伸びる稜線がフランス軍の動きを隠していた。
それに対し、サン=トーバンの西にある森の端からサンブル河畔までは遮るものがなく、少しばかり丘が連なってはいたがポ=ド=ヴァン近くからサンブル河畔とロンビーズ農場までは視線が届いた。オーストリア騎兵がこの地域で戦闘に参加できたのはこの地形が理由である。一方でタルシー峡谷は植物が密生しており、ロンビーズの稜線からフォリー南斜面に展開していたベレガルデの前哨戦はフランス軍縦隊によって容易に奇襲を受けた。
哨戒線からの報告を受けたベレガルデは主力に警告を発した。午前9時には連合軍砲兵がロンビーズからフォリー付近まで進んできたフランス軍を砲撃。フランス軍側の砲兵を相手にしたこの砲撃戦は午後4時まで続き、フロマンタンの部隊はベレガルデがサン=トーバンの森に派出した4個中隊、及びサン=トーバン村を守るヴァラスディン大隊と戦闘を繰り広げた。コーブルクによると多くの砲兵が戦闘不能になり、少ない数の大砲が破壊された。ベレガルデは午後4時にホーエンローエの歩兵連隊に反撃を命じ、右翼に位置していたオーストリア騎兵はこれに乗じてフランス軍歩兵の左側面に突撃した。バルコ・ユサールとキンスキー軽騎兵がフランス軍歩兵を切り裂いてタルシー左岸へ後退させ、大砲8門を奪った。
15日夕、コルドリエ師団とフロマンタン師団はタルシー左岸へと戻り、彼らの攻撃は失敗に終わった。ジュールダンは回想録の中で、フロマンタンが自身の指示に従わずに敵騎兵に有利な地形まで進出し、そのために反撃を受けたと指摘。将軍の才能とは兵の先頭に立って敵に突撃することにあるという国民公会やジャコバンクラブの言い分を固く信じていたフロマンタンは戦争技術について無知であったと批判している。
ただしDupuisはフロマンタンを擁護し、ジュールダンの命令の中に開けた土地を避けよという文言はないとしている。実際にジュールダンが求めたのは、サン=トーバンの森にいる敵を、マルメゾン及びオピタル経由で迂回し、そのうえでオルノワやバシャン方面からの移動に対抗できる最も有利な陣地を占めよという内容だった。確かに、これを見る限り、比較的開けた土地を移動することを想定したような命令に読める。
むしろジュールダンは、中央が進むモブージュ街道の近くにあるサン=トーバン村からの敵の排除を左翼に期待していたのかもしれない。それだけベレガルデらの軍勢は簡単に排除できるという想定だったのだろう。実際、数で言えばフランス軍の方がずっと多かったのだから、そのような想定をしてもおかしくないようにも思えるが、一方この時期のフランス軍の戦いぶりを見る限り、そうした想定は見通して甘すぎたとの批判も成り立つように見える。いずれにせよ、15日のフランス軍左翼の戦いは、両軍の数を見る限りかなり期待外れだったのは確かだろう。
スポンサーサイト
コメント