ワッティニーの戦い 7

 ワッティニーの戦い当時、フランス軍の補給状況はどうだったのだろうか。DupuisのLa campagne de 1793 à l'armée du Nord et des Ardennesには食糧、秣、靴や衣服といった物資の補給状況についてもまとめられている。当時の革命軍は通常、派遣議員が地方政府に必要な物資をいつまでに出すようにと命令を出し、それを受けて地方政府が特別委員を任命。実際に集める手配は彼らが行うことになっていた。物資の買取金額は、最高価格法あるいは派遣議員の決めた金額で行われたそうだ。
 細かく言うと食糧は2つの方法で手に入れていたという。直接購入と地方政府からの徴発だ。後者の方法が好まれていたが、地方政府の能力不足などで要求した物資のうち3分の1しか手に入らなかったため、9月21日の布告で物資を集めるため軍事的手段を使うことが定められた。食糧だけでなく秣などについても同じ方法が使われていた。衣服についても状況はあまりよくなかったようで、パリや近隣地域からかき集めようとしたものの供給には時間がかかり、また質もよくなかったため半年もすると交換しなければならなかった。デルブレルは軍のこの部門について「数えきれないほどの悪徳と不正があった」と記している。
 1793年の作況は豊作だったが、ワッティニーの戦い前における兵の状況はかなり悪かったようだし、革命期における補給システムも批判に値するものだったと、Dupuisは記している。ジュールダンは指揮権を握った直後に、陸軍大臣に対して「秣と特にオート麦の欠乏で馬匹が疲れ果てている」と訴えている。リールでは食糧は15日分、秣は8日分しかなく、派遣議員らは武力も使って周辺地域から必要物資をかき集める必要に迫られた。結果、軍のための食糧補給は、文官組織に頼ることなく軍事的手段を使って集められるようになった。
 地方政府や物資の持ち主だけでなく、供給業者たちも補給に対しては非協力的だった。最高価格法などで支払額を抑制されていたのが理由だ。派遣議員がその態度に怒り狂っていた様子をDupuisは紹介しており、逮捕された者もいるし、個別の業者名を挙げて非難している例もある。補給を扱う関係者の中には反革命派しかいないと考えた派遣議員の中には、革命裁判所を設置し、有罪と判決されれば24時間以内に処刑すべきだと述べている者もいた。
 調達の問題だけでなく、その分配も上手くいかなかった。原因は軍の参謀組織にもあり、部隊の移動について地方政府への連絡があまりにも遅かったという不満が述べられている。また物資を運ぶ輸送業者の質も悪く、解囲軍の状況はカルノーによれば、4分の3の兵は裸足で、新しい大隊は衣服はきれいだが手に棒きれ一本持たず、戦いを経験している兵はぼろをまとっていたという。「可能なら靴、衣服、そして何より銃剣と火打石を送ってほしい」と彼は同僚に訴えている。
 手早く必要な物資を手に入れるため、将軍たちや派遣議員が頼ったのは各要塞の物資であり、当然ながら要塞の指揮官たちはそれに不満を抱いた。Dupuisもまた、この方法は不可避だったが危険でもあったと指摘している。各要塞の防衛力がそれだけ落ちることは間違いないし、それどころかこの方法は味方に対する裏切り行為とも捉えられかねない。実際にキュスティーヌは同じ理由で断頭台送りになっており、それだけでなくジュールダンとカルノーも既に裏切り者として非難を浴びていたそうだ。もしワッティニーで負けていれば、彼らの運命も大きく変わっていた可能性がある。

 ジュールダンはギーズに兵を集めた結果として生じた空白を、8月23日の総動員令で動員された部隊で穴埋めするつもりだった。ただし10月半ばのこの時期においては、布告の効果はまだ現実的な結果にまでつながってはおらず、新たな徴集兵に期待できることはほとんどないのが実情だったそうだ。彼らは県都に集められ、そこで訓練を受けたうえで派遣議員が彼らを装備のある拠点に移動させ、そこで部隊が編成されることになっていた。ただし数週間でただの人を戦える組織にまで鍛え上げるのは、布告で想定したほど簡単な作業ではなかった。
 サン=カンタンの徴集兵たちは9月29日にギーズへと送られたが、彼らのうちきちんと衣服を与えられ武装をしていたのは1割しかいなかったという。ラオンとヴェルヴァンの徴集兵たちは、その大半が脱走してしまい、一部しか残らなかった。ある派遣議員は、脱走によって兵力が半数に減った徴集兵の大隊に頼ることはできないと記している。
 ギーズの指揮官だったボールガールは、武器の扱いについて訓練されておらず武装もない徴集兵たちに訓練を施すための宿営地をこの町の近くに設置した。宿営地の周辺には簡単な防衛施設が構築されたが、ル=カトー方面からの敵の攻撃を恐れたエーヌ県政府はブレア将軍にこの宿営地の指揮を執るよう要請した。だが彼はボールガールのアイデアに賛同せず、むしろ後者から200騎の騎兵を引き抜いてしまった。またフェラン将軍はギーズからアヴェーヌへと大砲3門を移した。食糧事情も酷いものだった。ボールガールを支援したのは派遣議員のブーショットで、彼は2回にわたってブレアに対しギーズの宿営地に赴くよう命令し、ブレアはようやく10月11日にそこに到着した。
 上にも述べたように脱走問題も深刻だった。ペロンヌとモンディディエはそれぞれ1個大隊を編成してランドルシーに送ったが、これらの部隊は防衛の役に立たず、食糧を消費するだけだという理由で指揮官からギーズの宿営地に向かうよう命令を受けた。10月1日に出発した最初の大隊は無事にギーズに到着したが、20日に出発した部隊はランドルシー南方で連合軍騎兵の攻撃を受け、14人の捕虜を敵の手に残したうえで散り散りに逃げてしまった。彼らのうち少数はランドルシーに戻ってきたが大多数は家に帰ってしまったそうで、当局は騎兵の偵察隊を街道の両側に送り、脱走した兵たちを捕らえて彼らをサン=カンタンに戻そうと試みた。ランドルシーの指揮官は彼らに護衛をつけなかったとして非難された。
 エリー将軍はこうした脱走の原因について、選挙で選ばれた士官たちによる経験のなさが理由だと推測している。彼は16日、2000人の徴集兵たちをボーモンへの陽動攻撃に際して射撃戦に投入しようとしたが、兵たちはパニックに陥ってしまった。軍務経験のない士官たちは兵を勇気づけるどころか、肩章をポケットに隠して逃げ出した。アルデンヌ方面軍の派遣議員は、こうした選挙で選ばれた士官たちを裁判にかけたほどだし、その1ヶ月後には別の派遣議員が同じ対応を求めた。
 こうした事態は政府も予想しており、国民公会は彼らを原則的に野戦で使わないよう指示していたし、公安委員会も彼らを守備隊と交代させるよう布告を出していた。ところが驚いたことに、ジュールダンなどは10月半ばに、これらの徴集兵を攻勢に使おうとした。ブレアは11日に解囲軍の背後をこれらの徴集兵で守るよう求められ、さらに14日にはその兵をギーズとランドルシーの中間にあるエトルーまで進め、可能ならアルエーズの森を奪うよう命じられていた。これらの場所についてはTopographic map of France (1836)を参照のこと。
 それでもこうした乱暴な徴集兵の使い方は、革命政府の方針変更をもたらした。11月22日、彼らは1794年初頭までに徴集兵たちを既存の部隊の中に組み込むよう布告を出した。アマルガムだ。Dupuisは、こうした失敗をくり返していたフランス軍がなおかつ兵力を実際に拡大させるのに成功したのは、連合軍の将軍たちが積極性の欠如ゆえに敵に時間を与えてしまったためだとしている。
 規律の問題もあった。部隊がガヴレル宿営地付近にいた時には、軍は兵たちが住民の近くにいるのが問題だと考え、兵や士官たちが勝手に村を訪れることや、狩猟をすることを禁止。移動時には田畑を横切らないよう命じ、訓練や武器の手入れについても細かい命令を出していた。ただし、彼らがギーズへ移動している時には、そうした規律はきちんと守られていなかったようで、ギーズ到着後の11日と12日には行軍開始時に部隊の先頭に立っていない士官を解任するとか、主計官は物資の分配に携わるようにといった布告を出している。どうやら兵も士官も勝手に持ち場を離れることが多かったようで、1日に2回は点呼を取れとの命令もあった。
 彼らにとって幸運だったのはワッティニーの戦い前にリヨン陥落を兵たちに伝え、その士気を挙げられたことだ。公安委員会の宣言が兵たちにこの新たな成功を知らせ、ジュールダンも自分の言葉を付け加えた。「我々に残された任務は1つ。北方で敵を打ち破ることだ」と14日から15日にかけての、つまりワッティニーの戦い直前の命令で、彼はそう兵士を鼓舞している。
 Dupuisが色々と紹介しているこの時期のフランス軍を巡る状況はざっと以上の通り。それらを踏まえてDupuisがどのように評価しているかについては、長くなったので次回に回そう。
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