ワッティニーの戦い 6

 ギーズからアヴェーヌへのフランス軍の移動は、連合軍に敵の攻撃意図を推測させるだけの動きだった。DupuisのLa campagne de 1793 à l'armée du Nord et des Ardennesによれば、12日には監視軍の中央(クレルフェ)が主攻撃の対象になると推測したコーブルクが、他の場所から部隊をかき集めてその戦力を2万人にまで増やそうとしていた。いつものように地図はTopographic map of France (1836)を参照。
 彼にとっての悩みは、前にも述べた通りオランダ軍の非協力的な態度にあった。サンブル右岸にある塹壕を掘った宿営地を攻撃したくても、左岸にとどまって一歩も動こうとしないオランダ軍の協力は得られず、「過去8日間にわたってモブージュに対する計画はほぼ完全に停滞していた」。そのため包囲されたフランス軍に対する攻撃には監視軍の一部も使う必要があったそうだが、もちろんギーズからアヴェーヌへとジュールダンが接近している段階で監視軍をそちらへ回すのは不可能。ジュールダンの解囲軍を追い散らしてからでなければ、モブージュ攻囲を本格的に進めるのは困難だった。
 このため連合軍の幕僚たちは接近してくるジュールダンに関心を集中した。クレルフェの監視軍中央がモブージュに近すぎると判断したコーブルクは、彼らをより南方へと移動させた。サン=レミ=マルバティやボーフォール、オブルシーはモブージュから7キロしかなく、攻囲軍からの距離はたった4キロにとどまっていた。ジュールダンが攻撃を仕掛けた瞬間にモブージュ守備隊が南方へと出撃すれば、帝国軍は極めて狭い範囲で挟み撃ちにされる恐れがあった。
 そのため連合軍司令部はタルシー川(ルヴァル近辺でサンブルに流れ込んでいる右岸の支流)の右岸に並ぶ高地の線を監視軍中央に占拠させた。連合軍側にはこの地形が騎兵にとって不便で、またフランス軍の接近を容易にすると指摘する者もいたようだが、一般的には防御に向いた地形と判断される戦線だ。結果、クレルフェの監視軍中央は、15日朝にはDupuis本のp111-112のように展開していた。つまりベレガルデ少将の5000人が右翼のベルレモンとマルメゾン間に、クレルフェ自身が率いる9200人は中央のポ=ド=ヴァン、ドゥルレ、モン=ドゥルレ、フルルシー、そしてプランスの森(フルルシーとボーフォールの間)に、テルツィ率いる4000人の左翼はワッティニー村とその周辺に布陣し、最左翼にはオブルシーにハディック大佐率いる2100人がいた。
 10月14日以降、両軍の哨戒線はサン=レミ=ショーゼーからフルルシーまでのタルシー左岸で接触し、コーブルクは翌日にはエルプ川(アヴェーヌからノイエルを経てサンブルに流れる右岸の支流)の背後にいるフランス軍が攻撃してくると予想した。この時点で両軍は互いの位置も意図もよく把握しており、戦闘において奇襲効果は存在しなかった。戦力的にはフランス軍が4万5000人に対して連合軍が2万1000人と前者が有利であり、加えてもしモブージュの守備隊が積極的に打って出れば連合軍はかなりの窮地に陥っただろうとDupuisは述べている。

 続いてDupuisは、ワッティニーの戦いの記述を始める前に、当時のフランス軍を巡る背景について説明している。まずジュールダン率いる北方軍に中央政府から送られてきていた代理人に関する説明だ。当時のフランス軍は、特に将軍たちと幕僚たちが革命政府の厳重な監視下に置かれており、そしてしばしば彼らは軍からパージされたり、時にはこの世におさらばする羽目に陥っていた。
 彼らを見張る役目の人物は何種類か存在していた。一つは陸軍省が送ってきた者(9月11日の布告で認められていた)で、また臨時行政会議も10月4日には何人かの代理人を北方軍及びアルデンヌ方面軍に送る人物として任命していた。それに加えて派遣議員もいたのはよく知られているし、彼らの数も増やされていた。ワッティニーの戦いにはカルノーが参加していたことが有名だが、彼は10月6日夜、家族にあいさつする暇もないままパリを出立し、7日にはペロンヌで同僚のデュケノワ議員、そしてジュールダンと合流している。そして公安委員会までもが、前線での出来事を早く知ろうと欲し、10月13日の布告で委員会と各軍との間で継続的な伝令のやり取りを行なうよう命じていた。
 彼らはワッティニーの勝利に一定の貢献をした。特に組織管理的な仕事については派遣議員たちが情熱的に取り組んだそうで、それは軍への支援になったようだ。またカルノーは戦略や戦術面でジュールダンを助ける役目も演じた。臨時行政会議の代理人たちは兵士たちの士気を鼓舞したが、一方で将軍たちへの非難を受け付けていたり、あるいは派遣議員が指揮権を邪魔していると疑いをかけたりしていた。ワッティニーではこれらの代理人たちが、ジュールダンと派遣議員が相互に馴れ合っていると中傷する手紙をかいている。
 この時期に北方軍で指揮を執っていた将軍たちのうち、ダヴェーヌは最左翼(海側)のアルマンティエールとダンケルク間の指揮を執っていた。ジュールダンに積極的に増援を送ったベリュは、元貴族であることを理由に10月9日に解任された。彼自身も辞任をこの瞬間に申し出ており、スーアンが後任としてマドレーヌ宿営地の指揮官となり、ダンケルク総督はヴァンダンムになった。
 キャリオンは9月13日にランドラン師団の指揮官に任命されたが、その2日後には派遣議員から元貴族として非難され、21日には陸軍大臣に辞任を申し出た。これまで述べた通り、彼はジュールダンへの増援師団を率いていたが、この辞任が受け入れられたために10月11日にはルメールが、そしてワッティニーの直前である14日にはコルドリエが、相次いでこの師団の指揮権を引き継いだ。またジュールダンが求めた騎兵将軍は送られてこなかったため、13日にカルノーとデュケノワがソラン中佐を一時的に准将に任命した。
 歩兵大隊の戦力は定員(約1000人)を大きく下回っていた。陸軍大臣ブールノンヴィユが動員した兵を上手く配分できなかったためだと言われており、各大隊の戦力は、2月に可決された30万人の動員で集められた徴集兵が配分された後も450人をほとんど上回らなかった。実際、解囲に駆け付けた部隊のうち、例えばフロマンタン師団の大隊平均はようやく400人に達する水準でしかなかった。8月の総動員令でさらに徴集兵が増えることになっていたが、それらの兵が配備されるには数ヶ月を要した。このためワッティニーの時点でのフランス歩兵は、オスコットの時と質的にはほとんど変わらなかったとDupuisは述べている。
 解囲軍の騎兵は歩兵の6分の1ほどの水準であり、連合軍の騎兵に比べ弱体だった。ジュールダンの前任者であるウシャールが要求した騎兵部隊がペロンヌに到着したのはようやく10月20日以降だったし、ヴェルサイユを10月6日に発した猟騎兵連隊は19日前後にラオンに到着したものの、装備を運ぶ馬車が後方に遅れていたためすぐに戦える状態にはなかったという。
 砲兵の状況も厳しかった。ガヴレル宿営地の近くにいた砲兵部隊は、輸送にあたる800頭の馬匹が不足しており、派遣議員たちは御者たちを必要なら反革命の容疑で軍法会議に送るよう指示を出していた。一方、アルデンヌ方面軍は少し余裕があったようで、10月3日に彼らは200頭の輓馬を北方軍へと送っている。ただしこれらの馬には首環がなかったようで、カルノーは「いつも何かが不足している」と嘆く文章を残している。
 砲兵用の装備も常に補給困難だった。9月下旬にかけて北方軍の各地には大砲や弾薬箱が相次いで到着し、状況は少しだが改善していたものの、それでも解囲軍に提供できる物資は潤沢とは言えなかった。国境にある各拠点都市でも砲兵用の各種装備が不足しており、例えばカンブレーでは火薬と砲弾が必要な量の4分の1しかなかったそうだし、ドゥーエイからは公安委員会に対して自身の防衛に必要な量の6分の1しか弾薬がないと報告が上がっていた。
 物資を運ぶ車両の状態も悪く、マドレーヌ宿営地の砲兵指揮官だったエブレは、半数の車両が2日間の行軍にも耐えないと述べている。それでも砲兵部隊は9日にはギーズに到着したのだが、10日にはその指揮官が「機能を果たさなかった」との理由で解任されている。デュケノワは彼をギロチンにかけたいと記しているし、カルノーはダンケルクにまで弾薬を送れと要望しているほどだ。
 それでも彼らの努力はある程度の成果を上げた。10月14日付のある報告書によると、その前日にサン=トメール、リール、ドゥーエイからギーズへと火薬を運ぶ3つの輸送隊が到着し、車両で渋滞が起きたそうだ。いずれにせよ、すぐに使える弾薬が集まらなかったことは、解囲軍の攻撃開始を2日間遅らせる原因となった。Dupuisはこの点について、1793年のフランス軍には実行速度においても敵を奇襲する能力においても、十分に組織されていなかったのだと解釈している。足りなかったのは弾薬だけではない。カルノーは10月9日、少なくとも1万5000個の銃剣を送るよう要請している。革命フランス軍といえば銃剣という話は前にも少し紹介したが、実はそれすらまともに揃えられなかったのが1793年のフランス軍だった。
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