ワッティニーの戦い 5

 前回は連合軍によるモブージュ包囲に対し、北方軍司令官ジュールダンが命じた解囲軍の編成について述べた。DupuisのLa campagne de 1793 à l'armée du Nord et des Ardennesによると、彼の最初の命令に合わせ、10月10日までにはギーズ周辺にフロマンタン、デュケノワ、バラン、キャリオンの各師団が集まり、11日にフルミーに到着したアルデンヌ方面軍のボールガール師団もこれに加わった。この集結をカバーする役割を担ったのはフロマンタン師団だった。コルドリエ将軍が指揮する第6騎兵、第34憲兵部隊、ムルト第3大隊で構成される分遣隊が、ギーズとアヴェーヌの間になるヌヴィオンの森を8日から占拠。9日は主力もエトランまで前進した。
 10月11日から13日にかけ、ジュールダンは解囲軍をゆっくりとギーズからアヴェーヌへと移動させた。引き続きTopographic map of France (1836)を参照。彼らの移動はDupuis本のp98にまとめられている。フロマンタン師団は11日にはアヴェーヌに到達し、12日にはアヴェーヌ北方を東西に延びるラ=エイ=ダヴェーヌの森に布陣。13日にはドンピエールとサン=レミ=ショーゼー間、そしてラ=エイ=ダヴェーヌ森の北端に野営した。デュケノワ師団は11日にエトラン、12日にアヴェーヌとフローモン(アヴェーヌ東)に到達し、13日にはいくつかの大隊がモブージュ街道の東側とソルル=ル=シャトーへ至る道筋上にも展開した。
 バラン師団は11日にギーズ、12日にエトラン、13日にはアヴェーヌ南東とその近くに布陣。11日にルメールが引き継いだ元キャリオン師団は同日ギーズ、12日にラ=カペル、13日にはアヴェーヌ南西とその近くに達し、14日にはさらにコルドリエが指揮を執ることになった。ボールガール師団は11日にフルミー、12日にはリエシーとラムジー間に到達し、13日も同じ場所にいた。そして司令部は11日にギーズ、12日にアヴェーヌに配置された。
 Dupuisはギーズからアヴェーヌまでの距離(約45キロ)から考えて、解囲軍は12日か、遅くとも13日には攻撃を始められたと記している。実際の攻撃が10月15日まで遅れたのは砲兵の弾薬不足が理由だそうだ。
 フロマンタンはジュールダンから、ラ=エイ=ダヴェーヌ森の北端に強力な防衛線を敷くよう推奨されていた。ボールガールはソルル=ル=シャトーへの道を調べ、またフィリップヴィユの兵にも行軍の準備をするよう命令が出された。一方、いくつかの部隊はブレア将軍の指揮下でギーズに残され、軍の後方をソレムとル=カトー方面からの敵攻撃から守り、オワーズ河畔とヌヴィオンの森を保持し、もし解囲軍が敗北したならその退却をカバーするよう命じられた。
 ボールガール師団と合流するよう命じられていたオスコットで戦った部隊は、13日にリエシーで合流を果たした。デュケノワ師団には8ポンド砲2門、12ポンド砲1門、6プース曲射砲1門が属した。また騎兵の配分も変更され、14日夕の時点で解囲軍はDupuis本のp100-103のような戦闘序列になっていた。フロマンタン師団が7357人、バラン師団は1万3294人、デュケノワ師団は1万906人、コルドリエ師団は6866人、ボールガール師団は5853人で、総兵力は4万4376人だった。
 コルドリエ師団は14日午後にラ=カペルからドンピエールへ移動し、そこでフロマンタンの指揮下に入った。そのフロマンタン師団はモブージュ街道西側のラ=エイ=ダヴェーヌ森の北端を保持。バラン師団はアヴェーヌの西側とその近く、デュケノワ師団はフローモン付近に布陣した。ボールガールはリエシーの周囲にとどまっていた。司令部はアヴェーヌにあった。
 日中には哨戒線で多少の射撃戦があった。フロマンタンは偵察として第4ユサールの1個大隊をノイエル(アヴェーヌ西方)経由でル=パルクとサソーニュの両農場に送り出した。第12猟騎兵の1個大隊も主要街道上をモブージュ方面に向かった。同日、フランス軍が大規模な分遣隊をル=ヴァル、モンショー(モンソー)、ドゥルレに向けて押し出したとコーブルクが報告しており、おそらくこれらもフロマンタンの部隊によるものだろう。ジュールダンと派遣議員カルノーも偵察を行ない、その後でジュールダンは15日の命令を各師団長に伝えた。

 フランス側が着々と準備を整えていた一方、連合軍の対応は引き続き外交的な条件に従わされていた。英国はモブージュを落とした直後にはダンケルク攻撃を実行するよう求めており、そうしなければフランスと有利な単独講和を行なうとほのめかせていた。コーブルクの見立てではモブージュ陥落は11月末以降となり、従ってダンケルク攻囲はどんなに早くても戦争には向かない12月初旬になりそうだった。それにヨーク公に属している帝国軍のうち、8月時点で4000人が病気になっていた点も重要だった。これらの理由から司令官(コーブルク)は英国に反対し、1794年戦役が始まるまでダンケルク攻撃は遅らせる方が賢明だと主張していた。
 オランダも自分たちの直接的な利害を気にかけていた。彼らは領土の拡大を条件にモブージュ封鎖に参加しようとしており、コーブルクは自分の権限は軍事に関することだけだと主張していた。オランダの総督政府がこれに不満を抱き、サンブル河を越えないと宣言していた点は既に紹介している。10月6日に攻囲軍の指揮を執ったオラニエ公だが、コーブルクの切迫した要請にもかかわらず、サンブル右岸で使う帝国軍2個大隊をヴァランシエンヌから引き抜く代わりにこの町にオランダ軍3個大隊を送ることを拒否していた。彼は手元に弱体な2個大隊の予備しかないと言い訳している。
 一方、英国の司令官であったヨーク公はより協力的だった。ガヴレルに集まっているフランス軍への対処を考え、オルシーとマルシエンヌからドゥナンへと分遣隊を引き戻さざるを得なかったコーブルクは、これらの分遣隊の代わりにヨーク公の兵を送るよう要請した。彼はこの望みに熱心に応え、結果として5000人の帝国兵が10月10日にはオルシーとマルシエンヌからポン=シュール=サンブルへと向かうことができるようになった。
 この時点で解囲軍はギーズに集まっており、彼らがサンブル右岸と左岸のどちらを攻撃するかは分からなかった。だがこの部隊がアヴェーヌまで進んだところでコーブルクは上記の帝国兵分遣隊を右岸のサン=レミ=マルバティへ進め、ヨーク公に対しては7000人から8000人をモルマルの森に送り、さらにヴェンクハイム指揮下の帝国軍(モルマルからアングルフォンテーヌに展開する約1万人)の指揮も執るよう懇請した。
 ヨークはこの要請に応じた。シソワン(リール南東)の宿営地に残した兵の大半の指揮をアルヴィンツィ中将に委ね、彼は14日、英及びハノーファーの歩兵9個大隊、英騎兵7個連隊の、およそ5500人とともに出発。10月16日夕方にはアングルフォンテーヌに到着し、ヴェンクハイムとともに翌日の攻撃計画を立てたとコーブルクに連絡している。だがこれらの兵をワッティニーの戦場に参加させるには遅すぎ、ヨーク公は行軍速度が遅すぎたと批判を受けた。ヴィッツレーベンによればシソワンとモブージュの距離は8マイル半であり、彼は15日夕方とは言わないにせよ遅くとも16日朝にはモブージュに到着できたという。
 10月8日、ジュールダンがおよそ2万人の兵とともにペロンヌに到着したという情報がコーブルクの下に届いた。いずれこの兵力は3万人まで増え、モブージュ解囲に当たるであろうと予想したオーストリア軍司令官は、ヨークのおかげでオルシーとマルシエンヌから動けるようになった5000人の兵を使って監視軍を増援した。クライ将軍が指揮したこの分遣隊は歩兵4個大隊(ブレシェンヴィユ2個大隊とホーエンローエ2個大隊)及びユサール1個連隊で構成され、12日にはサン=レミ=マルバティに到着した。
 10月10日、解囲軍がペロンヌからギーズに動いたと知った帝国軍幕僚たちは、敵の意図が分かるまで砲撃をせず、モブージュの封鎖を単純に維持することを決めた。ポン=シュール=サンブルの連合軍司令部ではジュールダンの選択肢について、ランドルシーあるいはアヴェーヌ経由で攻撃してくるか、あるいは中間地点に来てモブージュ砲撃が始まってから動き出すことも考えていた。前者の場合、帝国軍は現状の陣地で共和国軍と戦い、後者なら解囲軍へ向かって攻撃をするつもりだった。
 この時点で連合軍は以下のように配置されていた。監視軍右翼はヴェンクハイムの1万人にヨーク公の5000人が増援され、もし敵がサンブル左岸をランドルシーに進んできてもこれと対峙できる。クレルフェの中央部隊1万3000人は、5日時点でベレガルデが哨戒線に歩兵2個大隊半、4個中隊、騎兵14個大隊、デゲンシルトの部隊がサン=レミ=マルバティからボーフォールの森にかけて歩兵5個大隊と騎兵8個大隊、テルツィの部隊がボーフォールの森からオブルシーまで歩兵4個大隊、騎兵6個大隊を展開する。これに12日にはクライの5000人がサン=レミ=マルバティに到着し、戦力はおよそ1万8000人に達した。監視軍左翼はベニョフスキー指揮下の歩兵3個大隊、3個中隊、騎兵12個大隊で、計4000人がボーモンを占拠してアルデンヌ方面軍と対峙していた。
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