ワッティニーの戦い 4

 モブージュに閉じ込められたフランス軍は非常に消極的だったそうだ。DupuisはLa campagne de 1793 à l'armée du Nord et des Ardennesの中で、その原因が将軍と兵の双方にあったと指摘している。派遣議員のドルーエも10月1日、救出の希望を失った軍が恐怖に捕らわれていたと記している。彼はさらに、兵たちに希望を持たせるため竜騎兵たった100騎でモブージュから出撃し、運よく敵から逃げられたならパリに向かってモブージュの情勢を国民公会と陸軍大臣に伝える計画を発案した。
 この逸話についてもデジャルダンの回想録に記されている。それによるとある士官が、連合軍の戦線を突破して派遣議員の命令とフェラン将軍の手紙を北方軍司令官に伝えることをドルーエに申し出たそうだ。ドルーエはこの申し出を歓迎し、自らこの役を担うことを表明した。彼を守るために同行しようと申し出た兵士たちの中から、ドルーエは50人の竜騎兵とユサールを選び、夜11時にモブージュを出発した。敵の射撃を受けながらその戦線を突破した彼らだったが、暗闇の中で谷間に転がり落ちてしまい、ドルーエを含む大半は馬から放り出されて捕虜となった。数騎は宿営地に戻り、たったの7~8人だけが戦線を突破してフィリップヴィユにたどり着くことができたという。
 捕虜になったドルーエはモラヴィアのシュピールベルク城に投獄された。1794年に一度、この城からの脱出を試みたが失敗したという。彼がフランスに戻ることができたのは1795年12月。皮肉なことにルイ16世の娘であるアングレーム公夫人との交換によるものだった。彼女にしてみれば、よりによって自分たち一家を捕らえた人間との交換で自由を得られたというのは皮肉以外の何物でもなかっただろう。
 もう少し真っ当な結果をもたらした出撃もあった。10月6日と7日にルヴロワル近くにあるルー堡塁付近に向けて行われたものがそうだ。地名については引き続きTopographic map of France (1836)参照のこと。フランス軍はこの堡塁正面の小さな森が敵に利用されないよう、それを切り倒そうとしたという。
 この付近にはイヴの城と呼ばれる農場があり、オーストリア軍が森に隠れながら周辺に塹壕を構築していた。その事態を懸念したシャンセル将軍は、マイエ将軍に対してこの拠点を奪い、森や生け垣を切り倒すよう命じた。10月6日、歩兵6個大隊の先頭に立ったマイエはオーストリア軍をこの拠点から追い払い、オーモン方面まで追撃したうえでモブージュへと戻って来たのだが、この時は問題になっていた森やし茂みを切り倒すことはできなかった。
 翌7日、今度はデジャルダンが戦列歩兵5個大隊、軽歩兵4個大隊、騎兵2個大隊と軽歩兵1個中隊を率いて作戦を再開した。彼はこの部隊をルー堡塁とサンブル堡塁の間に集め、午前6時に軽歩兵4個大隊で形成される中央部隊を出発させた。戦列歩兵2個大隊は右翼、同2個大隊は左翼から前方へと動き、残る戦列歩兵1個大隊は予備として中央の支援に回った。軽砲兵と騎兵もまた予備となった。
 敵は農場前方にある生け垣で待ち伏せしていたが、フランス軍の前進を止められずイヴの城まで逃げた。フランス軍はこの農場に火をつけ、両翼からこの拠点を回り込んだ。包囲されそうになったオーストリア軍はそこから逃げ出し、その後でフランス軍の中央が前進して再び彼らは一列に陣を敷いた。彼らの背後で作業員が生け垣や納屋を破壊するのをカバーすべく、この兵たちは1時間近くにわたってオーストリア軍の砲撃を支えた。最終的に持ちこたえられなくなったフランス軍だったが、デジャルダンは必要な作業は終わったと判断して宿営地へと戻った。
 以後、防御側は小競り合い以外で城壁から出撃しようとはしなくなった。10月8日にはティルールの森東端を占拠したオランダ軍に対し、右岸との連絡のためティルール堡塁に配置していた舟橋をフランス軍が撤収した。9日、フランス軍はルー堡塁とサンブル堡塁をつなぐ城壁を建造しようとした。14日、守備隊がティルールの森を攻撃して2つの堡塁を奪った。15日、宿営地内の砦の柵が建造され始めた。
 この日は救援にやって来た北方軍が連合軍の監視軍と戦闘を交えた初日だった。デジャルダンの回想録には砲声が聞こえ、遠方で多くの煙と光が見えたと記されている。Dupuisは最終的に、モブージュで包囲された2万2000人の部隊は、敵をほとんど邪魔できなかったと評価している。

 ジュールダンが連合軍の攻勢について知らされたのは9月30日夜だった。アヴェーヌの指揮官が、フェリエ―ルからボーモンまでのサンブル河畔の哨戒線が突破され、敵はモブージュ、ランドルシーあるいはアヴェーヌを包囲しようとしていると知らせてきたのだ。これらの拠点の抵抗力を信用していなかったジュールダンは、すぐ救援に向かうことを決断した。また彼は、サンブルを越えたのはボーリューの部隊のみであり、コーブルク自身はバヴェにとどまってブシャンとカンブレー(いずれもヴァランシエンヌ南西)に襲い掛かるつもりだと考えていた。
 この攻撃に備えるため、ガヴレル宿営地には少なくとも1万人を残す必要があった。ジュールダンが使える兵力は残る2万人にとどまったため、彼はマドレーヌ宿営地から1万2000人を、またバイユールからダンケルクの間にいる兵から1万人をそれぞれ救出軍に差し出すよう命じた。ベリュとダヴェーヌに対してはその穴埋めとして、総動員で集めた大隊を可能な限り多く送り込むことにし、政府もこれらの大隊の編成を急がせた。幸運にもジュールダンは1日、敵の目標がモブージュのみであると知り、すぐにこの地の解囲に向けた計画を立てた。
 Dupuisによるとオスコットの戦いにおけるウシャールの計画と、ワッティニーのジュールダンの計画は驚くほど類似しているという。ウシャールはダンケルク解囲のためカッセルに4万人を集めたのに対し、ジュールダンはモブージュ解囲のためギーズに同じく4万人を集めた。両翼による敵への凝った機動は諦め、兵の半数は国境でコルドンを敷き、残り半数はその南端に集まることになった(ウシャールの時は集まったのは北端だった)。解囲軍を集める際の困難は、1ヶ月前にウシャールが経験したのと同じだったとDupuisは記している。
 ギーズへの兵力集結は10月6日から10日にかけて行われた。ジュールダンは他の増援を待つことなく、ガヴレル宿営地の一部兵力で1個師団を編成し、指揮をフロマンタン将軍に任せた。10月3日午前5時に出発した彼らは同日のうちにバポーム、4日にペロンヌ、5日にサン=カンタン、そして6日にギーズに到着し、翌日にはギーズとアヴェーヌ間まで移動して両拠点の連絡を確保するとともに集まってくる軍をカバーした。
 ガヴレルの宿営地、及び近くのルー宿営地から集められた別の1万3424人の師団はバラン将軍が指揮を執った。10月5日にジュールダンが出した命令に従い、この師団は6日夜明けにガヴレルを出発。同日にアラス経由でバポーム、7日にペロンヌ、8日にサン=カンタン、9日にギーズに到着した彼らは、そこで新たな命令を待った。
 兵の拠出を命じられたマドレーヌ宿営地のベリュは熱意をもってこの仕事に取り組み、10月2日には急いで部隊をガヴレルへと送り出していた。グラティアン准将が率いるモン=エン=ペヴェルにいた歩兵6個大隊と騎兵2個連隊は3日にカルヴァン(リール南方)、4日にアラスに到着。また3日にマドレーヌ宿営地を発した軽歩兵3個半旅団と騎兵2個連隊も4日夕方にはアラスに到着した。これらの兵はデュケノワ将軍の指揮下に入り、即座にギーズへと向けて出発し、8日にはそこに到着した。
 しかし海岸付近に展開する部隊を指揮していたダヴェーヌはさほど熱心にジュールダンの命令には応じなかった。ジュールダンは10月1日以降、即座にユサール第2連隊、騎兵第7連隊、軽歩兵を含む1万人の部隊を編成し、これをベテューヌ、ランス経由でアラスへ送るよう命じたのだが、ダヴェーヌはすぐに準備を進める代わりに、まずその説明を要求した。ジュールダンはモブージュが包囲されたことを知らせ、「司令官の作戦がこれ以上邪魔されてはならない」と強い口調で迫った。
 これでようやくダヴェーヌは命令に従う必要があると理解し、10月4日付の手紙でカッセル師団からの1万人が10日にはギーズに到着すると伝えた。Dupuisはこの師団について、おそらく6日にアラス、7日にバポーム、8日にペロンヌ、9日にサン=カンタン、10日にギーズに到着したと推測している。9012人のこの部隊の指揮はキャリオン将軍が執った。
 さらに10月2日には公安委員会の布告により、アルデンヌ方面軍がジュールダンの指揮下に入った。司令官はこの軍から少なくとも5000人を解囲軍に引き抜く考えで、彼らをフィリップヴィユに向かわせるよう命じた。ジュールダンの文章を見ると、彼は12日か遅くとも13日に攻撃を想定していたようで、アルデンヌ方面軍の増援には11日にフィリップヴィユに到着するよう求めている。アルデンヌ方面軍の名目上の司令官はフェランだったが、彼はモブージュに取り残されていたため、この命令はスダンにいたウィシュ将軍に送られた。
 スダン、モンメディ、カリニャンなどに散らばっていたアルデンヌ方面軍からかき集められたこの増援は、ボールガールが指揮し、10月11日にはアヴェーヌ南東のフルミーに到着していた。さらにジュールダンの命令に従った彼らは、オスコットで戦った部隊やカッセルから送られてきた部隊などと合流し、12日にはアヴェーヌ東方のリエシーまで到着。その戦力は騎兵970騎を含む6000人に達していた。
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