ワッティニーの戦い 3

 連合軍のモブージュ包囲網が完成したのは、DupuisのLa campagne de 1793 à l'armée du Nord et des Ardennesによると10月5日だった。引き続きTopographic map of France (1836)参照を。彼らは攻囲軍と監視軍の2つに分けられた。サンブル右岸でモブージュの包囲に当たったのは、コロレード指揮下の歩兵16個大隊と10個中隊、帝国騎兵8個大隊の計1万4000人。彼らはフォレスト農場(オーモン南東)からボーフォールの森、フェリエール=ラ=プティト、セルフォンテーヌを経てブソワまで布陣した。左岸に展開したオラニエ公指揮下のオランダ軍1万2000人はブソワからグリシュエル、ドゥジーを経てオーモンまでの戦線を担当した。攻囲軍全体の指揮はオラニエ公に任せられ、その数は2万6000人に達した。
 監視軍は歩兵21個大隊、35個中隊と騎兵63個大隊で構成されていた。うち歩兵7個大隊と20個中隊、騎兵28個大隊はヴェンクハイム指揮下にあってソレム(カンブレー東方)からアングルフォンテーヌを経てモルマルの森(ベルレモン西方)まで散らばっていた。攻囲軍のすぐ南方をカバーしていたのはクレルフェが指揮する歩兵11個大隊、8個中隊と、騎兵28個大隊であり、彼らは10月5日時点で以下のように配置されていた。
 1つ目がデゲンシルトの指揮下にある歩兵5個大隊、騎兵8個大隊で、サン=レミ=マルバティとボーフォールの森の間にいた。2つ目はテルツィ指揮の歩兵4個大隊、騎兵6個大隊でボーフォールの森からオブルシーまで、3つ目はベレガルデ指揮の歩兵2個大隊、4個中隊と騎兵14個大隊でオブルシーから(ベルジリーを流れる)テュール河畔まで布陣していた。
 続いてDupuisは4つ目の部隊、歩兵9個大隊と10個中隊、騎兵24個大隊(計1万1000人)がオットー指揮下でオルシー、マルシエンヌ、ドゥナン、ドゥシー(ドゥシー=レ=ミーヌ)、ソルゾワールにいたと記している。だがこれらの地名はヴァランシエンヌの西方にあるもので、つまりヴェンクハイムの部隊よりさらにモブージュから遠い場所にいたことになる。次にホディッツ率いる5つ目の部隊はボーモンとテュアンの間におり、歩兵12個大隊と3個中隊、騎兵25個大隊がアルデンヌ方面軍と向き合っていたという。これらの部隊は連合軍戦線の両端にいた部隊であり、この後の文章を見てもこの2部隊はクレルフェの指揮下にはなかった。にもかかわらず前の3つとこの2つを並べて紹介している理由は不明だ。
 コーブルクの司令部はポン=シュール=サンブルにいた。全体としてヴェンクハイムの部隊は歩兵7250人と騎兵4200騎、クレルフェ指揮下の3部隊が歩兵9600人、騎兵4200騎で、ホディッツの部隊(上記5つ目)は歩兵9300人と騎兵3750騎で、合わせてソレムからテュアンまでに3万7700人の連合軍が展開していたことになる。これにオットーの部隊(上記4つ目)を足せばおよそ4万人となり、この数字はコーブルクが9月26日にオラニエ公に宛てて記した手紙の数字と一致するそうだ。
 また彼ら以外に、フランドルの防衛を任せられスヘルデ河と英仏海峡間に展開しているヨーク公が率いる英軍も4万人に達していた。トゥルネーに中心を置く彼らと、クレルフェが指揮する同数の監視軍、そしてモブージュを包囲しているオラニエ公の2万6000人の、合わせて10万6000人がこの方面を守るフランス軍と対峙していたわけだ。
 そのフランス軍は大きく4つのグループに分かれていた。フェランの指揮下、モブージュで包囲されていたのが2万2000人、ジュールダンの司令部があったガヴレル宿営地(アラス近く)には3万人、リールとマドレーヌ宿営地にはベリュの指揮する2万5000人、そしてカッセルとダンケルクの間にダヴェーヌ指揮の2万5000人がいた。これら4つの集団の間には約1万人がコルドンを形成しており、そしてジュールダンはこれらの兵からかき集めた4万5000人を率いてモブージュ救援に向かうことを決意していた。

 包囲されたモブージュだが、この地はヴォーバンが国境防衛及びヴァランシエンヌとフィリップヴィユの連絡線確保などを目的に作り上げた要塞だった。ただしこの地点は周囲にある4つの高地から見下ろされており、中でも南東にあるファリーズからは町を砲撃することが容易だったという。ヴォーバンもこの弱点に気づいており、様々な防御施設の建造とサンブル対岸からの視線を妨げるような植生を準備するよう命令を出していた。
 それでも防御手段としては不十分であり、結局のところファリーズ高地自体を要塞化する必要があると考えたロシャンボー(革命当初の北方軍司令官)は1791年、ヴァランシエンヌの指揮官だったラフィット工兵大佐に対し、モブージュに言って塹壕を掘った宿営地を構築するよう命じた。この作業は8月上旬、モブージュの工兵指揮官であるジュザンクール中佐の助けを得て実行された。
 1793年の前半、町の周囲の視界を妨げていた樹木が切られ、サンブル左岸のティルール(おそらくモブージュ西)及びアスヴァンの森(同東)に堡塁が築かれ、右岸にはルー堡塁(モブージュ南西)とサンブル堡塁(位置不明)が設置された。5月30日には塹壕宿営地内に2つの砦も設置するよう命令が出された。ただしこの防衛システムについては有名な革命戦争の工兵士官であるマレスコからは批判を受けていたようだ。それでも連合軍がこの地を包囲した9月29日時点で、モブージュの防衛施設と左岸の2堡塁、及び右岸のサンブル堡塁は準備が整った状態にあり、一方ルヴロワル近くのルー堡塁と、塹壕宿営地内にある2つの砦についてはまだ強化する必要があったという。
 食糧や秣は不足していたようで、ジュールダンは10月4日の手紙でこの地にあるライムギなどの量を1万6831キンタルとしている。27日時点でファリーズ宿営地には秣200万キロちょっと、藁が52万キロ弱、オート麦が4400キロ、ふすまが9500ブッシェルあった。10月16日以降にはこれら飼料を節約するため、無用な馬匹を屠殺する必要があると見積もられており、10月7日時点の調査では町中には牛82頭、ヒツジ329頭、豚2頭しかいなかったことが判明している。
 衣服や靴の補給も不十分だった。27日時点ではズボンが6312着、帽子が327個、靴が664足、シャツ1405着、ストッキングが2272足しかなかった。一方、砲兵装備には不足はなかった。2万2000人の守備隊がいたことも踏まえるなら、上記のような物資があれば少なくとも1ヶ月の抵抗には十分だった。この拠点の周囲に6万6000人をとどめた連合軍のミスに乗じ、北方軍がうまく機動する時間がこれで稼くことができたわけで、Dupuisは連合軍のこの作戦はフランス側の将軍の任務を容易にし、革命政府に防衛手段を強化する時間を与えるものだったと評価している。
 モブージュの指揮権は、最近アルデンヌ方面軍司令官に任命されたフェラン将軍が握っており、デジャルダン、マイエ、シャンセル、コロムといった将軍たちがその下についた。派遣議員としてはこの時期、エンツ、バール、そしてヴァレンヌ逃亡事件でルイ16世の一家逮捕に関与した郵便局長ドルーエがモブージュにいた。
 町のジャコバン派たちも防衛を支援したが、彼らの中には子供じみた恐怖に捕らわれる者もいたようだ。例えば堡塁構築のため土を積み上げているのを見たジャコバンの中には、それが地雷を埋める坑道を掘っている証拠ではないかと疑う者がおり、そうした不安を鎮めるために士官たちはわざわざ調査と報告をしなければならなかったという。
 Dupuisによると、連合軍側が攻囲のために行なった作業について詳細を引用するのは無理だという。フランス側の言い分によると、敵はルー堡塁へ向けて奇妙なほどの慎重さで前進してきたという。ただし北方のモンスに向いている側ではもっと大胆に前進していたようだ。オランダ軍の残した史料には、連合軍が構築した塹壕、堡塁、平行壕などが詳細に記されており、その概要はDupuis本の巻末地図2枚目に青い文字で記されている。
 それを見ると連合軍は2つの平行壕をサンブル両岸にそれぞれ開き、そこからモブージュへ接近を図っていたようだ。右岸ではフェリエール=ラ=グランドと塹壕宿営地の間に、左岸ではモブージュからモンスへと至る街道上、メゾン=ルージュの少し南方あたりに平行壕を開削し、そこからジグザグの接近壕をモブージュ方面に延ばしている様子が特に左岸についてははっきりと記されている。臼砲砲台はいつでも砲撃を始められるよう準備が整っていた。
 なおこの地図には連合軍攻囲軍の大雑把な配置も載っている。左岸のほとんどはオランダ軍がおり、モンス街道沿いには砲廠も配置されている。オランダ軍右翼にはブルボン軍団がいて、そこからサンブル右岸にはシュレーダー・キンスキーの部隊が、さらにその右にはラトゥールの部隊が展開している。
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