動員と住民投票

 ハルキウでの大敗北を受け、クレムリンに動きが出ている。1つは30万人の兵力動員だ。ウクライナに侵攻したロシア軍が兵力不足に陥っているという話は以前から言われていたが、ハルキウではあっさり戦線が崩壊し後方の部隊までパニックに陥って壊走するといった事態に陥ったのを見て、さすがに今のやり方では持たないと判断したのかもしれない。実は少し前にクレムリンはロシア全土での大掛かりな徴兵キャンペーンを展開しており、ISWによればそれを通じ国内のナショナリストをなだめようとしていたという。一方でモスクワ周辺の住人を動員しないといったこれまでの方策を諦めつつあったそうで、国内の緊張が高まる可能性も指摘されていた。
 もう一つは支配地域においてロシア編入に向けた住民投票をすると発表された件。もちろん米国EUをはじめ主要国は軒並み反対している。ただISWによるとこれらの対応は基本的にロシア国内向けのアピールであり、新たなロシア領を守るという口実で兵を集めやすくすることが主要な目的だそうだ。当然ながら外国の言うことに聞く耳は持たないだろうが、目的自体は目先の兵力不足への対応にすぎず、長期的影響(特に戦況が一段と悪化して新ロシア領が喪失した時の対応など)を真面目に考えている様子はない。
 全体としてクレムリンつまりプーチンの行動原理が目先のウクライナ情勢への対応だけに集中し、それ以外をほぼ無視しているように見える。さして広くもないし手に入れたところで利益が多いようには見えないウクライナの一部を得るためだけに、国際的にも国内的にも色々なリスクを積み上げているのが現状。負けが込んだギャンブラーが考えなしに高額な借金を重ねている状態といえば分かりやすいだろうか。合理性ではなくメンツで行動するマフィアに政権を任せるとどうなるかを示しているわけで、改めてロシア国民は心底マゾヒストなのだと考えないと説明がつかない状況になっている。

 実際問題、動員は対症療法にはなっても事態の解決策になるかどうかは不明と見られている。ISWによれば動員してもその効果が出てくるには数ヶ月かかるし、2023年に今の軍事力を維持するのに十分かどうかも明白ではない。それにロシアは既に予備役のうち最も戦闘に適した人員(一説では8万人)については動員済みだそうであり、これから集める兵はさらに質が落ちる可能性もある。ロシアの予備役制度はほとんど再訓練をしないものだそうで、だとすれば確かに兵士の穴埋めがすぐに進むとは考え難い。この動員はウクライナによる領土奪還の機会を奪うような内容ではないというのがISWの判断だ。
 動員が簡単には戦力増強につながらない理由を分かりやすく説明しているのがこちらのツイート。かつてのソ連は大量動員に備えて「枠組みだけの部隊(士官と下士官くらいしかいない)」をたくさん用意しておき、戦時にはそこに動員した兵隊を投入して軍に仕立て上げていた。だがソ連の崩壊後、財政的に持たなくなったロシアはこの方法を諦め、ロケット部隊とサイズの小さな遠征用部隊に絞り込んだ軍制度に切り替えた。結果、動員だけしてもそれを受け入れる設備も人員もなければ、彼らを指揮する士官下士官もいない、という状況になっているという。
 実際、30万人(奇しくもフランス革命時に最初に行なわれた動員と同じ数)という動員数は、防衛白書を見ると戦争前のロシア陸軍戦力(33万人)にほぼ等しい数だ(p107)。会社でも何でもいいが、組織をいきなり倍に増やせと言われて効果的な組織を作り上げられる人間がいるだろうか。まして今の戦力ですらろくに上手く動かせていないロシア軍にその能力があるのか。
 分かりやすい不安点の1つは兵站だ。30万人の追加兵力が手に入り、またその訓練や必要な士官の補充も何とかできるとして、では彼らにどのように装備を与え、どのようにウクライナに送り込み、そして戦わせるためにどう補給をするのだろうか。現状ですらウクライナの反撃もあって兵站がガタガタになっている組織が、兵士の数だけ増やしても果たして効果的に戦えるのだろうか、という疑問の声はSNSにあふれている。もちろん30万人が全員最前線で戦うことはないだろうが、それでも20万人くらいはそうするかもという予想も出ている。開戦時と同じ数の兵員を、果たして今のロシアはまともに補給できるんだろうか。書類上のみの部隊となり、前線ではあっという間に溶けて消える恐れはないのか。
 動員対象となるのは35歳以下の予備役らしいが、ロシアの人口ピラミッドを見ると30万人というのは20~34歳の男性のうち2%に相当する人数。つまり若い男の50人に1人には赤紙が届くわけだ。実戦向きの世代に集中している点で「実質総動員」という見方も出ている。当然ながらロシアの若者たちは「ロシアを去る方法」とか「腕の骨の折り方」をググり、外国行きのチケットは高騰し、これまで契約兵の戦争と高をくくっていたロシア各地では動員反対デモが相次いでいるし、徴兵はほぼ罰ゲーム扱いされているとの指摘もある。
 それだけではない。反対デモで逮捕された人がそのまま徴兵されたという話を聞いて、歴史との比較を思い出す声も出ている。この可能性が否定できない理由の一つが、ロシアが非常に一極集中的な国家であり、様々な物流がモスクワを通るようになっている点。当然ながら徴兵された若者も、彼らに与えられる武器や装備も、かなりの数がモスクワを通る可能性がある。ロシア革命で先頭に立ったのは46万人の徴兵されたサンクトペテルブルクの守備隊だった

 実際問題、今のロシアにとっては「部分的」に見せかけた動員くらいしか打てる手がないのかもしれない。最近のロシアについては「詰んでる」という見方が多く、何をしても「ロシア終わる」になるのではという意見も出ているほど。何もしなければ戦場から兵士が一掃されるリスクがあるし、代わりに何かしようとするとそれはそれで別のリスクを高める。もちろん動員ではなく核を使えばNATOが介入するという説は短絡的に過ぎるのは確かだし、その意味で西側も油断できる状況ではないのだが、ロシアの現状が無理ゲーに近いキツさなのは確かだろう。自業自得だけど。
 単に指導者層が無能なだけではない。ロシア軍の指揮がマイクロマネジメントになっているのは将軍たちだけの問題ではなく組織カルチャーに由来しているそうだし、虚偽の報告に基づく攻撃が行われ、士官の育成にも失敗している。NATOが介入するかどうかは別として、彼らにNATOと正面から戦う力はないだろう。また動員決定前の時点から士官の不足が問題になっており、士官学校の卒業時期の前倒しが行われているとの報道もあり、最新鋭の兵器ですら無傷で放棄する状態。そして戦争に直接関係しそうな技術や経済面でも、ロシアの現状はガタガタだ
 そりゃ確かに自分が指導者でも打つ手がないように見えるのも仕方ない。例えば対策として私の脳裏に思い浮かんだのは、ナポレオンが1808年に行なった組織改革。それまでフランス軍は1個大隊を9個中隊で編成していたが、ナポレオンは中隊の規模を大きくしつつ1個大隊を6個中隊編成に変えることで、大隊数をほぼ倍にまで増やしたそうだ。もちろんこれにはリスクもあり、改革の結果として士官や下士官に対する兵士の数が増えた。有能で経験のある士官や下士官なら何とかしたかもしれないが、学校を出たばかりの士官や、兵から引き上げられたばかりの下士官にとってはおそらく負担になっただろう。ナポレオンの戦争が、特に1809年以降、それまでの機動力に支えられた巧妙さを失って数に物を言わせた不格好なものになっていった背景には、この組織改革もあるのかもしれない。
 でもこの手は現代ではそもそも使えない。当時の中隊はほぼ3列横隊のみを組み、指揮官の声が届く範囲にいてその声や合図に合わせて動くのが仕事だった。こういう体制なら中隊の兵士数を少しくらい増やしても何とかなると考えるのはおかしくない。だが現代は違う。基本的に全兵士が散兵として戦う時代にあって、士官下士官1人当たりの兵士数をうかつに増やしてしまえばそれは指揮の不全に直結しかねない。歴史に学ぶといっても、当然ながら限界はある。
 もちろんこれでウクライナが勝ったと断言できるわけではない。ヘルソン方面の戦争は「地べたをはいずるように敵に接近する」という、まるで攻城戦のような様相になっているそうだし、時には攻撃に失敗して大きな損害を出すこともある。最近の華々しい勝利で有頂天になり、天狗になってしまうような事態に至れば、むしろ自軍の損害が増えると考えたがいい。このあたり、戦争指導者としてのプーチンのダメさ加減が明白になった一方で、ゼレンスキーがどこまで「我慢強く」行動できるかが問われそうな気がする。

 なおイランでは女性がヒジャブを脱ぎ捨ててデモを行なう騒ぎが起きている起源はともかく、この地域における女性差別の問題がイスラム教の慣習とつながっている面は否定でず、それだけにこの動きは興味深い。ロシアでは正教会が時代錯誤にも戦争を正当化し、米国ではキリスト教イデオロギーの逆襲が起きている一方で、こういうことが起きている地域もある。世界は広い。
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