ワッティニーの戦い 2

 ワッティニーの戦いについてDupuisのLa campagne de 1793 à l'armée du Nord et des Ardennesを基にした話の続き。引き続きTopographic map of France (1836)と巻末の地図を参照願いたい。連合軍がモブージュ包囲のためにサンブルを渡ったのは9月29日夜明けだった。攻撃は3つの縦隊で行われ、それぞれクレルフェ、ホディッツ、コロレードが指揮を執っていた。
 クレルフェが指揮した連合軍右翼は2つの縦隊でサンブルを渡った。うち右翼縦隊はメクリモン正面に架けた橋を渡り、小競り合いの後でアヴェーヌ守備隊から派出された兵が守っていたヴァル=サン=ヴァースト(ママ、ルヴァルとサン=ヴァーストか)及びサン=レミ=ショーゼー(アヴェーヌ北西)を奪い、この方面の監視に当たった。主力縦隊はベルレモンの橋からマルメゾンとオピタル農場(バシャン南方)へと前進し、デジャルダンの左側面に回り込んだ。それから彼らはホディッツの攻撃と連携した。
 そのホディッツは3つの縦隊でサンブル右岸へと進んだ。第1縦隊はポン=シュール=サンブル、第2はノートル=ダム=デ=クアルト、第3はフォスの橋を渡り、第1はブリュンショー街道(ポン=シュール=サンブルから南東へ進む道)をしばらく進んだうえで、バシャン宿営地にいる3個大隊を正面から攻撃した。左側面をクレルフェの部隊にも脅かされていた彼らは、4ポンド砲1門を捨ててリモンとエクレーブ方面にいる予備のところへ混乱しながら後退した。
 第2縦隊はしばしパンティニーとジョルジュ森(パンティニー東方)にいた軽兵によって足止めされたが、彼らはフォスから出撃してきたホディッツの主力縦隊のせいで急いで退却することを余儀なくされた。この主力縦隊はキビキビと行軍し、敵に比べて数でも口径でも劣っていたフランス軍砲兵は橋を効果的に砲撃できなかった。さらに6プース迫撃砲1門は破壊された。それでもサン=レミ=マルバティの宿営地はコロレードが介入するまでは名誉ある抵抗を続けた。
 コロレードは夜の間にオーモンの橋を再度架け、ヌフメニルを発した縦隊の強力な2つの砲列に守られながら夜明けとともに橋を渡った。彼らはオーモンを通り抜けてケノワの森に向かい、サン=レミ=マルバティを守っているフランス軍の退路を脅かした。加えてリヒテンシュタインがブシエールの浅瀬へと送った小規模な分遣隊にこの村の北西の突出部も脅かされた。左翼と右翼で迂回されそうになったフランス兵は3つの大砲と6両の弾薬車を捨ててボーフォールの森へと退却した。
 師団はこの森で再集結したが、背後に残された1個大隊はサン=レミ=マルバティの小川を渡っている時に敵の砲撃に晒され、パニックに陥った。彼らの壊走はボーフォールの森近くにいた師団の主力も巻き込んだ。デジャルダンによるとこれらの兵たちは、彼と派遣議員ドルーエによる懇願、命令、威しにもかかわらず持ち場を捨て、モブージュの塹壕を掘った宿営地まで恥知らずにも逃げていったという。
 予備としてエクレーブに配置されていたオート=マルヌ第3大隊のフリカスの回想録によると、退却は以下のような経緯をたどったようだ。どうやら彼らが通り抜けなければならなかった村と森を敵の多くの騎兵が奪おうとしたらしい。道を塞がれた彼らはボーフォールの森の正面に布陣し、45分にわたって敵に射撃を加えた。だが敵砲兵のために彼らは再び退却を強いられ、大隊のうち20人は戦闘不能になったという。退路を失った彼らは森の中に入って何とか道を探そうと半時間さまよった。だが森から出た彼らの前には1個連隊が立ちふさがり、結果として彼らは敵を突破する以外に逃げる手がなかったという。
 かくして9月29日夕方にはデジャルダン師団は混乱してモブージュの宿営地に引き下がっていた。デジャルダンの回想録によると彼らの損害は150人と大砲2門、弾薬箱1つに達していたという。一方、コロレードとホディッツは兵を集めた後で、それらを右翼はボーフォールの森に、左翼はオーモンに配置させて宿営した。
 一方、フランス軍右翼が展開しているサンブル下流側では、伯爵ラトゥール中将が27日の命令に従って攻撃を率いた。防衛に当たったマイエ師団がこの方面に対する帝国軍の衝撃を受け止める格好となった。帝国軍はベッティニーの宿営地に残したミコヴィニー指揮下の歩兵3個大隊と騎兵2個大隊のみを残し、ラトゥール配下の歩兵4個大隊と騎兵12個大隊はマルパンの高地に、コーブルク少将が指揮する歩兵1個大隊と騎兵4個大隊はジュモンの高地に布陣した。さらにゼッケンドルフは歩兵3個大隊とともにさらに下流のメルブ=ル=シャトー(現ベルギー領)でサンブルを渡ることになった。
 帝国軍は夜間にマルパンとジュモンの間に架けた橋を利用し、夜明けとともにいくつかの縦隊で出発した。ゼッケンドルフはモンティニー(モンティニー=サン=クリストフ)とベルジリーを通り、特に問題もなくコルレとセルフォンテーヌ間に陣を敷いた。コーブルクとラトゥールはサンブルを渡り、相次いでフランス軍の大隊を宿営地から追い払い、オストルニー(オステルニー)、ボンペールの森、セリュの森(セルフォンテーヌ南西)、セルフォンテーヌなどを奪ってゼッケンドルフの縦隊と合流。さらに彼らとともにフェリエール=ラ=グランドまで前進した。
 この戦闘に関し、フランス側の記録はデジャルダンの回想録くらいしかないらしい。そこではマイエ師団について、コルレを経てセルフォンテーヌへ混乱した退却を行なったこと、後者の村の背後で陣を敷き直して戦おうとしたが、敵の優勢のために諦めて後退したことなどを記している。彼らの後衛部隊にはオーストリア騎兵が襲い掛かり、第12竜騎兵連隊とカルヴァドス第2大隊の抵抗にも関わらず多くの損害が出た。かくしてモブージュからアヴェーヌへの連絡路は遮断され、モブージュの封鎖は完成した。
 オーストリア側の記録によるとこの日のフランス軍の損害は死傷者が1000人、捕虜300人、大砲11門と弾薬箱15個に及んだ。デジャルダンは帝国軍の損害について、死傷者およそ500人と見積もっている。

 モブージュ包囲を完成した連合軍だったが、実は29日の時点だとサンブル左岸には歩兵3個大隊と2個中隊、そして騎兵2個大隊という極めて少ない兵力しか残っていなかった。コーブルクはモブージュの北方と北西にオラニエ公率いるオランダ軍1万2000人が到着するのを想定していたのだが、彼らのベッティニー到着は実に10月5日まで遅れた。
 前回にも記したが、連合国間の利害の不一致がこの不用意な布陣の原因だった。オーストリア軍にとってモブージュ奪取は望ましい目標だったが、英国は引き続きダンケルクを欲しており、英国王は9月17日に対モブージュ作戦の採用に同意したが、同時に間を置かずダンケルク攻撃も行われることを期待していた。フランドル沿岸部を欲しがっていたオランダも同じで、ハーグの政府はオランダ軍がフランドルから離れないよう、彼らの活動範囲をサンブル左岸に限定するよう指示していた。
 オラニエ公はこの指示に従い、南方へは極めてゆっくりとしか移動しなかった。オランダ軍は9月30日にアールスト、10月2日にアンデルレヒト、そして5日になってようやくモンスに到着。あまりに遅いその動きに対し、コーブルクはオラニエ公への手紙で、自分の軍は右岸に配置しているので左岸のブソワからオーモンまでの陣地は空いているとわざわざ伝えたほどだ。それを聞いてようやくオラニエ公は「本日、ベッティニーへと行軍する」と答え、1週間もの間放置していた連合軍の戦線の穴をようやく塞いだという。
 このオラニエ公は、後に1815年にやはり同盟軍の司令官であったウェリントンを悩ませたあのオランダ国王ウィレム1世その人だ。三つ子の魂百までではないが、オランダの利害が絡むと彼が非常に厄介で面倒な相手になるのは、どうやら若い時も同じだった模様。少なくともこのモブージュ攻囲に際し、オランダ軍が連合軍の活動に対して非協力的だったのは間違いなさそうだ。
 連合軍の仲の悪さは時代を問わないが、それは時に相手を大きく利する。1793年戦役において劣勢だったフランス軍が時間を稼ぎ、総動員を通じて兵力を補充し、最終的に連合軍を押し戻すに至ったのも、この連合軍の仲の悪さこそが最大の理由だった。ワッティニーだけでなく、例えばライン方面で戦っていたオーストリア軍とプロイセン軍の連携の悪さも目立っていた。
 以前、この1793年は連合軍が早期に革命を終わらせる数少ないチャンスの1つだったのではと書いたことがある。ただし連合軍側にはそうした意図はなく、あくまで自国の利益拡大のみを目的に行動していたのであり、だから現実には革命を終わらせる可能性はほとんどなかったと見ていいのだろう。こちらで紹介したゲームでは連合軍のパリ征服がゲーム終了条件となっているが、フランス革命にそういう形で決着がついた可能性は、現実にはかなり低かったのではなかろうか。
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