ワッティニーの戦い 1

 以前オスコットの戦いについてまとめたことがある。フランス軍はこの戦いで戦術的な勝利を得たものの、その勝利を大きな成果に結びつけることはできなかった。フランス軍の攻勢はすぐ頓挫し、指揮を執ったウシャールは断頭台送りとなっている。1792年の危機はまだ終わらず、フランスは恐怖政治を一段と強化する方向で対処を進めた。
 一方、同年10月に行われたワッティニーの戦いは、オスコットに比べると素直に勝利と見なされるケースが多い。実のところ、連合軍による拠点攻略(オスコットではダンケルク、ワッティニーではモブージュが目標)を妨げたこと、とはいえ連合軍をフランス領内から追い払うところまでは行かなかった点は同じだし、指揮を執ったジュールダンが追撃不十分を理由で翌年1月に解雇されたのも同じ。幸い、ジュールダンは派遣議員だったデュケノワに擁護されて断頭台送りにはならなかったが、流れ的には似たような経過をたどっている。
 戦後の経過だけでなく、戦いの経過もオスコットと実はあまり変わらなかった、と主張しているのがVictor DupuisのLa campagne de 1793 à l'armée du Nord et des Ardennesだ。オスコットの戦い終了時からワッティニーが終わるまでの期間について取り上げた書物であり、同時代の史料に基づいてまとめている点では以前紹介したLéviのLa défense nationale dans le Nord en 1793 (Hondschoote)と似ているが、全体の印象としてはDupuisの本の方があっさり感がある。
 1ヶ月ちょっと前に行なわれたオスコットの戦いに比べると、歴史的に著名な関係者が含まれているのもワッティニーの特徴と言える。後に元帥になったジュールダン、勝利の組織者と呼ばれ、総裁政府時代には5人の総裁の1人になるなど歴史に色々な形で名を残したカルノーらが参加している分、こちらの戦いの方が少しばかり知名度は上、かもしれない。ただし日本語wikipediaは存在しておらず、その意味でドングリの背比べではある。
 なお今回もTopographic map of France (1836)が役に立つ、のだが、実はそれだけではカバーできない地名も結構ある。その辺りをカバーするうえではDupuis本の巻末にある各種地図も参照した方がいいだろう。細かい地名になると巻末地図の方がフォローしている度合いが高い。

 Dupuisの本ではまだウシャールが北方軍司令官だった時期から筆を起こしているが、今回はワッティニーにつながるきっかけになったモブージュの包囲(第3章)から紹介する。この時、北方軍と対峙していた連合軍の指揮を執っていたのはオーストリアのコーブルク公であり、彼の下にはヨーク公が指揮する英軍や、オランダ総督の跡継ぎであるオラニエ公ウィレム=フレデリックの率いるオランダ軍なども含まれていた。そして連合軍あるあるだが、彼らはそれぞれ別の政治的目的のために動いており、非常に連携が悪かった。
 オスコットの戦いにおいて英軍が完全に包囲できなかったにもかかわらずダンケルクを攻撃目標としたのも、それが英国の政治的利益につながっていたからだ。またオランダ軍が大きな政治目標としていたのはフランドル地方沿岸部であり、彼らはこの地方の確保を最優先にしていた。フランス領内の拠点奪取を目指すオーストリアとは必ずしも目標が一致していなかった。
 そのためコーブルクが最初にモブージュ攻撃の計画を発した時点では、同盟国の協力をあまり当てにしないものが出来上がった。9月27日に出された命令は28日から移動を始めるようになっており、まずミコヴィニー将軍が歩兵3個大隊、騎兵2個大隊とともにベッティニー(モブージュ北方のフランス国境近く)に向かうことになっていた。リヒテンシュタイン大佐は歩兵2個大隊、騎兵2個大隊とともにポン=シュール=サンブル(モブージュ南西)にいるイェラチッチ大隊と合流し、コロレードは歩兵6個大隊、騎兵2個大隊とともにヌフメニル(モブージュのすぐ西)に向かう。ブルボン軍団はロングヴィユ(モブージュとバヴェ間)に、クレルフェは歩兵7個大隊、騎兵12個大隊を率いてベルレモン(ポン=シュール=サンブル南西)に進む。司令部はヌフメニルに移動する。
 必要な物資を29日の分まで供給されていた兵たちは、29日夜明けからモブージュ包囲への具体的な動きを開始することになっていた。モブージュ西方でクレルフェはベルレモンでサンブル右岸へと渡り、オルノワとバシャン間の地域から敵を排除し、右翼をオルノワ、左翼をバシャンに置いて宿営する。ベッティニーのラトゥール部隊から引き抜いた歩兵4個大隊とともにリヒテンシュタイン分遣隊からやって来たホディッツ将軍の歩兵3個大隊と騎兵6個大隊は、ポン=シュール=サンブルで渡河してバシャンを攻撃し、サン=レミ=マルバティを経てオーモン(ヌフメニル対岸)へと行軍する。ミコヴィニーはベッティニーにとどまる。
 モブージュ東方では男爵ゼッケンドルフ大佐が歩兵3個大隊、騎兵6個大隊、及びカルネヴィル志願兵とともにサンブル右岸をクルソルルとコルレまで前進する。ラトゥールはベッティニー南東のエレムを経てブソワまで歩兵2個大隊、騎兵2個大隊を押し出し、自身は歩兵5個大隊、騎兵8個大隊とともにグランルンを経てジュモンとマルパンへ向かい、右翼をロック、左翼をコルレに配置する。敵が抵抗せず、モブージュ南東にある要塞化した宿営地へと後退する場合、各縦隊はこれを囲むよう陣を敷き、特にコルレを奪われないよう対処する。クレルフェはそのために30日以降、できるだけコルレに接近する。
 ウンターバーガー将軍とフルーン大佐はコーブルクと同行し、司令部は29日もヌフメニルにとどまる。各縦隊は負傷者を運ぶ車両を追随させ、負傷者はラトゥールの部隊からはモンスへ、他の部隊からはバヴェへと後送される。
 一方、モブージュ防衛を委ねられていたフランス軍の中には、9月22日にアルデンヌ方面軍司令官に任命されたフェランがいたのだが、彼はこの連合軍の攻勢によってモブージュで包囲されてしまう。彼はさらに病気になってしまい、アルデンヌ方面軍の司令部には11月になってやっと到着できたそうだ。
 9月28日時点でモブージュ防衛にあたっていたフランス軍の戦闘序列は、Dupuisのp62-63に載っている。メイエ准将率いる右翼(6500人強)はモブージュ東方、デジャルダン准将率いる左翼(7800人)は同西方にそれぞれサンブル沿いの防衛線を敷き、ギュダン将軍がモブージュ守備隊(2000人)を、コロム准将が要塞化された宿営地の守備隊(6400人強)を指揮していた。総兵力は合わせて2万3000人弱に達していた。
 Dupuisによるとサンブル上流側の防衛にあたっていたデジャルダンは、未出版の回想録を書いているそうだ。それにより、フランス軍の防衛状況がある程度は分かる。9月13日、彼はオーモンからバシャンまでの区間の防衛を担当しており、司令部はサン=レミ=マルバティにあった。14日から15日にかけての夜間、オーストリア軍はフォス(ヴィウメニル南方)、ノートル=ダム=デ=クアルト、そしてベルレモン付近でサンブルに橋を架けた。不利な状態で全面的な戦いに巻き込まれるのを恐れたデジャルダンは、この活動を敢えて妨害せず、兵士たちを野営させ、弾薬を配布するなど戦闘に備えるにとどめた。
 25日、オーストリア軍はさらにメクリモン(オルノワ南方)正面に新たな橋を架けた。連合軍が近くサンブルを越えて攻撃する可能性は高まり、サンブル一帯を偵察したデジャルダンはバシャンとサン=レミ=マルバティの宿営地を引き揚げ、より後方のオーモンとボーフォールの森の間に布陣し直すようフェラン将軍に提言した。しかしこういった後方への移動は敵の攻撃を呼び寄せる恐れがあるという理由で好まれず、加えて将軍たちは様々な出来事の奔流についていくのが精いっぱいでこうした安全策をも無視していた、とデジャルダンは記している。ウシャールのように断頭台送りを恐れていたという意味だろう。
 やむを得ずデジャルダンは兵の配置を変えず、26日から堡塁を構築することで少しでも戦線を強化しようとした。当時の彼の兵はバシャン宿営地に3個歩兵大隊、バシャン村に1個大隊、パンティニーやピュイサンス(バシャン北方)付近に軽歩兵1個大隊と歩兵4個中隊、サン=レミ=マルバティ宿営地に歩兵3個大隊と4個中隊、バシャンとサン=レミ=マルバティの宿営地間に軽騎兵4個大隊、オーモンとケノワの森に軽歩兵15個中隊(およそ2個大隊相当)、そして予備としてフォンテーヌ(リモン=フォンテーヌ)とエクレーブ(エクレーズ)間に2個大隊がおり、この態勢で彼は29日朝の連合軍の攻撃を受けた。
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