ケレルマン突撃

 「ワーテルロー・インダストリー」が今月も紹介されているナポレオン漫画最新号。ブラウンシュヴァイク公が出てくるかと思っていたら、そっちではなく登場したのはピクトン。まあどっちにしても最後は×ぬからあまり違いはない(暴言)。というわけで今回も漫画を横目で見ながら史実がどうだったか確認しておこう。

 前半に出てきたデルロン第1軍団の彷徨について、漫画で採用されているのはこちらこちらで紹介した「ネイの命令で第1軍団はキャトル=ブラに呼び戻された」説と一致するものだ。一方、それらの伝統的な説で言われている「ナポレオン自身が第1軍団を呼び寄せた」という話にしてしまうと後のセント=ヘレナでの彼の言い分と矛盾が生じてしまうためか、今回の漫画では伝令を運んだ士官が勝手に進路を捻じ曲げた、という話を採用している。足元の「ワーテルロー・インダストリー」でよく使われている説明だ。
 しかしおそらくこの説明は間違い。現時点で最も説得力の高い説は、de Witが唱えている「進路をリニーに変えたのも、それをまたキャトル=ブラへ戻したのも、どっちもデルロンの判断」というもの(こちらこちら参照)。回想録など信用度の低い後の史料を排除し、リアルタイム性の高い史料だけに絞り込むのなら、ナポレオンもネイもデルロンの行動を変えるような命令は出しておらず、デルロンが伝令や部下からの報告を基にそうした判断を行なったと考えた方が辻褄が合う。
 漫画ではデルロンが方向転換したことにネイが激怒するシーンが描かれ、それとナポレオンの姿勢の違いを見せることで両者の器の差を描き出している。フィクションとしては十分に成り立つ演出法ではあるが、もちろんこれはあくまでフィクション。史実ではどうだったかというと、おそらくネイは怒りを覚えたとしてもデルロンに「今すぐ戻れ」とは言わず、あくまでキャトル=ブラの状況を伝えるだけにとどめただろう、というのがde Witの説だ。ネイが26日に書いた手紙にある通り、デルロンがリニーに呼ばれたのが皇帝の命令だと思っていたのなら、部下であるネイがそれを無視して呼び戻すことなど不可能だろう。

 で、漫画ではこの怒りに任せてネイがケレルマンの胸甲騎兵に無謀な突撃を命じたことになっている。今のde Witのサイトには載っていないが、昔あったキャトル=ブラの戦いに関する説明を読むと、午後6時半頃にネイが「フランスの安全がかかっている」と言ってケレルマンに突撃を命じた話自体は事実のようだ。公文書館に残されているObservations sur la bataille de Waterlooの中でケレルマン自身がそう記しているそうで、そういう史料が存在することはCatalogue général des manuscrits des bibliothéques publiques de Franceの第719項(p143)を見ても間違いない。つまりケレルマンの言い分を信じるのなら、ネイが無茶な命令を出したのは史実だ。
 この話は昔から知られていたようで、例えば1851年に出版されたBiographie des célébrités militaires des armées de terre et de mer de 1789 à 1850, Tome IIのp588にも紹介されている。もっと分かりやすいのはHoussayeの1815: Waterlooで、命令を受けたケレルマンがギュイトン旅団(第8及び第11胸甲騎兵連隊)と合流し、突撃を指揮した様子が描かれている(p208)。
 気になるのは、漫画でケレルマンが「最初から全速だ」(スピードを出さないと部下が尻込みする)と言っている部分。確か最近の本でも、この突撃に関し漫画に描かれているように最初から全力疾走したと書いている例があったと思う(残念ながら実例は見つけられなかった)。だがHoussayeの文章を見ると、彼らは最初は「速足」で敵の近くまで前進し、その後で「突撃、全力疾走! 前へ進め!」との掛け声で速度を上げたように書かれている。少なくとも公文書館の史料を読んだHoussayeは「最初から全速」とは解釈しなかったことが分かる。
 また部下の尻込みについては、元ネタとなるのがLa campagne de 1815 aux Pays-Basに掲載されている、戦い後にケレルマンがネイに宛てて記した報告書(p255-256)だろう。英訳はこちらで見ることができるのだが、そこには「兵たちに考える時間を与えないため」ケレルマンが第8連隊の第1大隊の先頭へと駆け付けたことが書かれている。この記述を踏まえてか、de Witは「兵たちが直面しようとしている状況を完全に理解する機会を与えないため、突撃の開始を急いだ」としている。
 つまり、ケレルマンがやったのは「急いで突撃を始める」ことであって「最初から全力で走る」ことではない、というのが研究者(Houssaye、de Wit)の解釈なのだ。いったん動き出してしまえば、兵たちが状況を冷静に把握し、これはヤバいと恐れをなすチャンスはなくなる。だがそのためには動けばいいのであって全力疾走である必要はない、ということだろうか。公文書館の文章を細かく確認できれば最善だが、複数の研究者がこう解釈していることを踏まえるのなら、事実としても最初から全力疾走であったと見なす十分な証拠はないと考えていいだろう。
 ではなぜ「最初から全速」といった話が生まれてきたのか。もしかしたらその一因になっているかもしれないのが、Beckeの書いたNapoleon and Waterlooだ。Vol. Iで彼はケレルマンの戦闘後報告に「兵がサボるか、目の前に待つ危険の程度を把握することすらさせないようにするため、ものすごいスピードを利用した」という一文があると主張している(p202)。だが上に紹介した英訳によれば、ケレルマンの報告の内容は「兵たちに考える時間を与えないため、私はすぐにギュイトン将軍とともに、英=ハノーファー軍と対峙する第8[胸甲騎兵連隊]第1大隊の先頭に駆け付けた」となっている。
 読めば分かる通り、ここで「すぐ」に「駆け付けて」いるのは、騎兵の先頭にたどり着こうとしているケレルマン自身であり、騎兵全体ではない。Beckeの文章は、意図的か否かは分からないが、明らかに誤訳である。だがBeckeはそうとは考えていないようで、Vol. IIの中では「フランス騎兵が使った最も速いペースは、速足か、最大でも遅めの駆け足だったように見える。キャトル=ブラにおけるケレルマンの輝かしい取り組みを模倣しようとする試みは存在しなかった」(p80)と記している。
 一般的にナポレオン戦争期の騎兵突撃は、最初から全力疾走をすることなく、当初はゆっくりとした速度で始め、途中から加速していく手法が採用されていた。Cavalry Tactics and Combat during the Napoleonic Warsの中にはポーランド槍騎兵の回想録からの引用が載っているが、それによればラサール将軍の突撃は最初は並足、続いて速足となり、最後に全力疾走に移っていたそうだ。逆に早すぎる全力疾走はすぐ隊列を崩し、馬も疲れてしまうため、敵に届く頃にはその威力はほぼ失われていた。
 ケレルマンの突撃は途中で英軍の歩兵を一部崩壊させ、軍旗を奪うほどの成果を上げている。熟練の騎兵将軍である彼なら、そうした効果的突撃をするために何が必要であるかは当然理解していただろう。その彼が、一般的にダメとされている「早い段階での全力疾走」を本当に実施したのだろうか。それもBeckeの明らかに間違った英訳を除き、研究者たちがそうした解釈をしていない報告書が存在しているというのに。
 普通に考えるなら、史実のケレルマンが兵に考える時間を与えないために行なったのは移動開始を早めることであって、移動速度を最初から上げることではなかっただろう。要するに「速さ」ではなく「早さ」重視で行動したと解釈するのが、おそらくは正しい。残念ながら「ワーテルロー・インダストリー」はあまり真面目に一次史料を調べず、孫引き頼りでコピペを繰り返すのが通例であるため、今回のようにBeckeの間違いが後々まで再生産される事態になる。
 まあその結果として今月号のケレルマンの「高笑い」が生まれたとも言えるわけで、フィクションへの貢献はあったと見てもいいんだろう。もちろん史実として書かれた本に史実と異なる話が載っているのがダメなのは変わらない。ワーテルロー・インダストリー各位には「サボらずきちんと史料に当たる」ことをお勧めする。
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