歴史論争

 エリート過剰生産のエントリーが話題になっていたNoah Smithだが、同時期にもう一つ読まれていたエントリーがあった。On the wisdom of the historiansというヤツで、思い切り雑にまとめるなら歴史家はもっと予測可能な仮説を作って提示する努力をしろ、と求めた内容になる。歴史家はしばしば現在の問題に対して過去の事例を紹介するが、それは予測に役立つような理論になっていない。だったらもっともらしく事例を紹介などするな、とSmithは言いたいように思える。
 その中で特に槍玉に挙げられていたのがBret Devereauxという古代ローマの経済と軍事を専門とする歴史家。当然こちらも言われっぱなしで黙っているつもりはなかったようで、Smithの言い分に対抗するためにNew Acquisitions: On the Wisdom of Noah Smithという、Smithのものよりさらに長いエントリーをアップした。これまた思い切り雑にまとめるなら、そもそも歴史学は予測に役立つ仮説を作るという科学的手法とは違う手法を使う学問であり、Smithの要求は筋違いであるという主張だ。確かに、歴史家の大きな仕事は未来の予測に役立つ法則を見つけることではなく、過去に何があったかをできるだけ正確に調べるところにあると思われる。
 特にDevereauxは歴史的な統計を使った分析に対する不信感を示している。その代表例として取り上げられているのが、Our World in Dataの創始者であるMax Roserがまとめている「1400年以降の世界における紛争での死」に関するデータだ。これは実際に紛争でどれだけの人間が死んだかを示すデータではなく、あくまで紛争の記録がどこまで残っているかを示すデータにすぎない。そういった文脈やニュアンスを無視した平版なデータから、果たしてきちんとした洞察が得られるだろうか、というのが彼の指摘である。
 で、話はそこにとどまらなかった。DevereauxはSmithやRoserを切って捨てただけでなく、返す刀でTurchinも血祭りにあげたのだ。曰く、エリート過剰生産に関して「古代世界にこの仮説を支持する材料を探そうとするPeter Turchinの努力は、証拠の欠如によって致命的に失敗している。Turchinは砂上の楼閣を築いている」。かくして今度はTurchinが新たな英霊としてこの戦場へと召喚されることとなった。
 Turchinはまずツイッターで、自分がAges of Discordで証拠を調べたのは18世紀末以降の米国であって古代ではないと反論。DevereauxがThe Fall of Rome: What was it? Why did it happen?ではローマのエリート過剰生産に触れているじゃないか、と指摘したところ、それはblogであって、反論するならSecular Cyclesのローマの記事を読むか、あるいはCliodynamicsに載ったThe Roman Dominate from the Perspective of Demographic-Structural TheoryやScheidelのEscape from Romeあたりにも目を通してくれと求めている。
 また別のスレッドでは、現下の米国に関する自身の論文などを紹介。また自分がしばしば歴史家の敵として紹介されているが、そんなことはないとも弁明している。さらにRoserのデータに関するDevereauxの批判についても一理あると指摘。ただデータが無意味というわけではなく、歴史家が取り組んでいることと、実験や観察に基づく仮説の検証といった作業の両方を進めればいいとも記している。
 加えてTurchinは、この一連の議論を改めてblogにOn Testing Theories in Historyというエントリーとしてアップ。過去に大きな神仮説に関する論文に欠陥があったことは認めつつ、その点についてはさらに調べ直した結果を査読誌に載せたことも紹介して、従来の歴史家が取り組んできた手法だけでなく、新しい手法も決して無効ではないと述べている。そして最後に紹介しているのが、こちらで取り上げた多数の歴史理論を検証してみた論文。論争に乗っかる格好で最後は自説の宣伝に帰着するあたり、なかなかちゃっかりしている。

 Turchinはどちらかと言えばとばっちりの部類だが、真正面から喧嘩を買われた格好のSmithも近く反論すると述べているので、まだこの問題はしばらく続く可能性はある。ただ、ここで論じられている話が目新しいかどうかと言われると、正直そんな感じはしない。以前こちらで書いた「細部を省略した還元主義を認めるべきか否か」という問題の再燃にすぎないし、Morrisが笑い話的に取り上げていた「社会科学者は無知であり、歴史学者は愚か者だ」という話で済んでしまう面もある。
 Devereauxの言い分も分かる。細かい文脈やニュアンスを取り除いて雑にまとめたデータから本当に頼りになる仮説が導き出せるかどうかわからないのに、そんなに安易に歴史を科学の一種にしようとして問題ないのか。語り得ぬことには沈黙すべきではないか、という主張には一理ある。個々の研究者がそういうスタンスで臨むことについて、私には単純には批判できない。
 というのも、私が色々と調べているナポレオン戦争前後の歴史が、まさにそういう扱いを受けがちだからだ。この時代にはクラウゼヴィッツやジョミニという、後々まで名前を残した軍事理論家が出ているためか、とにかく彼らの主張に基づいて語りたがる研究者が多い。だがそうした研究者や、軍事理論の専門家とされる人々のうち、クラウゼヴィッツやジョミニが生きた時代の戦争の歴史に詳しそうな者はほとんど見当たらないし、両名が書いた軍事理論ではなく軍事史に関する本にきちんと目を通している様子もない。
 歴史の狭いが細かい部分を調べていれば、安易に決めつけるのが難しい個別の状況や環境があることは嫌でも把握せざるを得ないし、それを無視した単純なまとめに対してケチを付けたくなる。クラウゼヴィッツやジョミニの言い分を理解したければ彼らが肌身で感じた戦争がどんなものだったかを知らなければならないんじゃないかと思うのに、そういった文脈やニュアンスを切り捨てている「軍事理論研究者」たちの言い分を、果たして信じてしまっても大丈夫か、という懸念はどうしてもつきまとう。
 ナポレオン戦争だけではない。前にこちらなどでくどくどと調べた通り、Seshatのデータにしても果たしてそれで大丈夫なのかと言いたいところはある。慎重な性格の歴史家なら、そういう部分を捨象して作られたデータに対して不信感を抱くのも無理はない。まさにMorrisの懸念した通りの事態といえる。
 一方で歴史家が全員Devereauxのような考えを持っているわけでもない。同じく古代ローマを調べている歴史家Scheidelは自ら統計を使い、さらに歴史家が嫌う反実仮想を使った分析に取り組んでいる。東南アジア史が専門のLiebermanは、統計こそそこまで本格的に使ってはいないものの、ユーラシア全体を見渡したビッグヒストリーを描き出している。還元的な手法をすべての歴史家が敬遠しているわけではないのだろう。
 つまり色々な考えの人がいて、それぞれが様々な方向性で取り組んでいる状態、と考えるのがいい。そしてそれ自体は望ましいことだと思う。TurchinもMorrisも同じ主張をしているのだが、研究手法が1つでなければならないと決めつけるのではなく、様々な方法を許容する方が実りある結果を得る可能性も高まるんじゃなかろうか。歴史家として細かい範囲の文脈やニュアンスをきちんと把握する人がいる一方、多少乱暴でも大きな傾向と予測可能性を求める人もいる。どちらも自分が「孔子の罠」に嵌るリスクを抱えていることをきちんと理解しているのなら、それぞれの手法で取り組むことに何の問題もない。
 実のところDevereauxも、歴史家としての立場を固守して科学的手法を否定しているわけではない。彼は歴史家と社会科学者の双方が互いの手法と結論をもっと知るべきだと書いている。というわけでおそらくこの論争の結論も、そう目新しいものは出てこない。にぎやかに展開されているが、まあお祭りみたいなもんだと思って見物しているくらいでいいんだろう。

 あとついでにTurchinのもう一つのblogエントリー、What I am working on: Updateについてもちょっと触れておこう。題名の通り最近の仕事に関する話で、前に紹介した一般向けの書籍については既に原稿を書き上げ、出版に向けた作業が始まっているそうだ。題名はThe Wealth Pump: Ruling Elites and the Path of Political Disintegrationに決まったという。どう邦訳するか悩む題名だが、題名からもAges of Discordを一般向けに書き直したものと推測できる。発売は来年6月だそうだ。
 もう一つの本である「完新世の大転換」であるが、その前提となるSeshat絡みの論文の大半を発表し終えたので、こちらの本も終わらせることができるようになったと書いている。私がこちらで雑にまとめた内容がきちんとした本になるのはありがたいんだが、Seshatを使った研究が一段落したというところはちょっと残念。もっと色々な切り口であのデータを使った分析を読んでみたいが、一方でCrisisDBに関する研究が進んでいるっぽいところはありがたい。まだまだ楽しみは続くと期待しておこう。
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