18世紀 西アフリカ

 西アフリカへの欧州からの銃輸出についての文献を2つ読んだ。InikoriのThe Import of Firearms into West Africa 1750-1807と、RichardsのThe Import of Firearms into West Africa in the Eighteenth Centuryだ。どちらも題名にある通り、主に18世紀の状況を調べている。以前紹介した黄金海岸や奴隷海岸の火器史でも述べたように、既に17世紀から西アフリカへの火器輸出は急増しており、18世紀は取引が高水準で続いていた時期となる。
 Inikoriの方は副題にA Quantitative Analysisとあるように、数値を具体的に調べたのが特徴であり、それを示したいくつかの表こそが最大の売り物と言える。まずTable 1(p344)は1750-1807年にイングランドから西アフリカに輸出された火薬の量が載っている。この期間に持ち込まれた火薬の総量は4913万ポンドに達し、年平均だと85万ポンド弱になった。と言っても時期によってずれはあり、後半の方が量は増えている。また鉛や弾丸は年平均で20万ポンド強が輸出されたそうだ。
 銃の数についてはそれより不十分なデータしかないが、一応1796-1805年という10年間に持ち込まれた数がTable 3(p347)にある。これらの数字からInikoriは18世紀後半から19世紀初頭にかけ、英国から西アフリカに持ち込まれた数は年平均で15万~20万丁だったのではないかと推測している。ただしこの数字は西アフリカというよりも中央アフリカに入りそうなロアンゴ海岸への輸出も含んでいるそうだ。
 Inikoriはさらに、イングランド以外の銃輸出についても推計している。参考データとして使用したのが、欧州諸国がアフリカで購入した奴隷の数(p348)。後に説明するが、銃の輸出は奴隷の購入と密接み結びついており、奴隷の数は銃の輸出と比例している可能性が高いという理屈だ。この分野でイングランドが占めているシェアはおよそ45%であり、それを踏まえ、さらにロアンゴ海岸の分を除くと、西アフリカが18世紀後半に輸入していた銃の数は年28万3000~39万4000丁に達していたそうだ。
 銃と奴隷の結びつきについてもデータに基づいた推測がなされている。1791-92年に奴隷334人を購入した欧州商人は、代わりに奴隷商人向けにスペインの銃198丁、ブランダーバス101丁、そしてボニーガンと呼ばれたアフリカ向けの銃1607丁を売ったのだが、奴隷用の食糧を購入した際にその商人たちに売った銃はボニーガン2丁だけだった。銃を欲しがったのは圧倒的に現地の奴隷商人たちであり、それに続いたのは象牙商人たちだったが、奴隷商人よりはずっと少ない量しか欲しがらなかった。
 西アフリカ地域についてもう少し細かく分けた銃の輸出量についても調べている。特定の商会のデータであるため偏りはあるが、ある程度参考になる数字が出てくるのがp353だ。ボニー地域やシエラレオネ、風上海岸といった地域では奴隷1人につき銃が5~6丁もかかったのに対し、他の地域は3丁以下と、地域によって奴隷の価格に差が生じていたことが分かる。
 持ち込まれた銃の種類はTable 4(p356-357)にまとめられている。西アフリカでも西側にあるセネガンビア、シエラレオネ、風上海岸ではデンマークの銃がこの時期には最も人気があった。ベニン湾(奴隷海岸)も同じだが、これらの地域に挟まれている黄金海岸ではスクエアガンと呼ばれる銃が好まれた。ボニー地域では安いボニーマスケットが買われ、カラバル(ナイジェリアの東端)とカメルーン地域ではタワーガンと呼ばれる銃がよく売れた。
 アフリカ向けの銃は質の悪いものが多かったという点は以前にも指摘している。ただしInikoriによれば、同時代人が伝えるほど酷いものばかりではなかったそうだ。フランス革命ば勃発した年である1789年に、ある商人は質のいい銃の価格は9シリング6ペンスはするといった内容の手紙を書いている(p360)。9シリング未満の銃を低品質、以上を高品質として分けた場合、西アフリカに売られた銃のうち低品質に相当する割合は実は38.5%と半分以下。データの偏りを踏まえてもせいぜい半分程度だったのではないか、というのがInikoriの推測だ。
 さらに文献の最後には2つのAppendixが載っている。1つは銃と奴隷の交換データ、もう1つは各船舶がどの目的地にどのくらいの銃を運んだかを示したものだ。この文章は1970年代に書かれたものだが、データの充実度は立派なものと言えるだろう。

 Richardsの文章はInikoriらの研究を踏まえたうえで書かれたものであり、いわばその修正を図ったような内容になっている。何しろ冒頭からInkoriの「西アフリカに輸出した銃のうち英国の割合は45%」という指摘を取り上げ、これが過小評価ではないかと指摘しているほどだ。どうやらこの時期には英国が製造した銃を買い取り、それをアフリカへ売りさばきに行った他の欧州諸国が存在したらしい。特にポルトガルやフランスではそうした商売をしている者がいた。
 17世紀後半から18世紀前半まで、西アフリカへの銃輸出でトップを走っていたのはオランダだった。当初は英国もオランダから買った銃を西アフリカで売りさばいていたのだが、やがて英国自身の製造能力が高まっていくに従い、その地位が逆転していったようだ。実はInikoriが焦点を当てた18世紀後半よりももっと前の17世紀半ばから、西アフリカにおける欧州製の銃の重要度は増しており、そうした銃が「軍事化された奴隷輸出国家」(p45)であるアクワムデンキラ、ダホメー、アシャンティらの急成長に寄与したという。
 1730年には既に、欧州の銃がアフリカで激しい戦争を引き起こし、その捕虜が奴隷として欧州勢に買い取られている、とオランダの総督が記している(p46)。「巨額で容易な利益への期待が労働を忘れさせ、互いを攻撃するためにあらゆる口実を使うか古い争いを蘇らせている」そうで、以前にも指摘した通り、奴隷貿易が分断を呼び起こしている様子が窺える。奴隷に対する欧州の需要が急増したのは1670年代からだそうで、1730年には300隻の船舶が黄金海岸と奴隷海岸にやってきていた。Inikoriの計算によると1隻あたりの銃の数は610丁に及ぶわけで、18世紀の前半にこの2地域だけで年18万丁の銃が流れ込んでいた計算になる。
 銃を求めたのが地元奴隷商人であることはRichardsも認めている。オランダでは欧州から来た船に載っているたらいやガラスを植民地の拠点でわざわざ銃に載せ替え、それから地元商人との取引に向かわせたそうだ。実際、銃は地元国家にとっては死活問題だったようで、アシャンティがアキエムとの戦争に勝ったのは、前者の方がより命中率の高い長銃身の銃を揃えていたから。もちろんここでも負けた側の一部は奴隷として売られたのだろう。
 奴隷価格と銃の価格との関係は少し複雑だ。セネガンビアでは奴隷貿易がそれほどでもなかった時期に銃の輸入量が増加しているようで(p49)、両者に相関があるようには見えない。だが黄金海岸や奴隷海岸では18世紀に銃の輸入量増と価格低下が起きたのと同じ時期に奴隷の輸出急増が起きている。奴隷の需要増(単価の上昇)に合わせて地元勢力が奴隷狩りを増やし、それを安く大量に輸入された銃が支えた、ように見える現象が起きている(p50)。
 とはいえ銃の輸出には上下があった。特に欧州で戦争が起きている時には武器の輸出が禁じられることも多く、オーストリア継承戦争があった1740年代後半や、アメリカ独立戦争があった1775-83年頃には、西アフリカへの英国からの銃輸出は低迷している。逆に七年戦争中はあまり減らなかったそうで、この時期は政府から輸出許可を得たり、さもなくば密輸するなどの方法で銃が運ばれていた。
 銃の質についてもInikoriの分析を使いながら、さらに踏み込んだことを調べている。Inikoriの言うような9シリングを境目とした低品質と高品質の銃の一覧についてはp53に載っているが、アフリカの地名を冠した銃は低品質側に、オランダやデンマーク、スペインなど欧州の名で呼ばれている銃は高品質の側に並んでいる。
 質の違いがどこにあったかというと、1つは保証試験の有無が理由だったようだ。これをやるかやらないかで銃の原価が変わり、その販売価格も変わってくる。西アフリカ現地で欧州の商人が互いに競争をやっていたのと同じく、欧州では銃メーカーがやはり価格競争に巻き込まれていたようで、特に安い銃を作る際には少しでもコストを下げるべく保証試験を省略した例もあったらしい。とはいえ、安い銃が暴発した割合などは同時代人によって誇張されている。加えて前にも指摘した通り、質の悪い火薬のおかげで低品質な銃でも暴発しないこともあった。ちなみに火薬の質を下げたのは欧州人ではなく、勝手に木炭を追加したアフリカの商人たちだそうだ。
 Richardsの文章はAppendixで安い銃を作る際の原価一覧を載せている。最も安い銃になると1丁あたりの利益は1デナリ未満だったようで、既に18世紀の半ばには「大量生産されたコモディティ分野における薄利多売」が現実になっていたことが分かる。なかなかシュールな話だ。
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