人文系の衰退

 Noah Smithのblogで最近またエリート過剰生産の話が載っていた。彼がTurchinらのエリート過剰生産について評価しているらしいことは以前にも書いたし、The Elite Overproduction Hypothesisと題したこのエントリーでも「エリート過剰生産仮説は魅力的だ」と述べている。彼は21世紀に入って、特に2010年代の後半以降に米国が大きなトラブルに陥った要因として、中でも特に左翼思想の拡大について、エリート過剰生産の観点から説明ができるのではないかと指摘している。
 このエントリーで数多く取り上げられているのが、こちらのツイート主が調べている様々な米国の大学関連データだ。それによると、特に2010年以降になって大学の人文系の学士比率が急低下しているという。中でも歴史、英語、宗教といった学部は21世紀初頭のピークから半分以下にまで減っている。どうやらこのまま行くと2022年には全人文系の学士数とコンピューターサイエンスの数がほぼ同じ(もしかしたら逆転)するかもしれないそうだ。今や米国で人文系の人気は急落し、若者は雪崩を打って情報科学の世界へ流れ込もうとしている。
 なぜか。リーマン・ショックをきっかけとした大不況で、人文系の卒業生の前に開けていたはずのキャリアがガタガタと崩れていったため、というのがSmithの説明だ。大不況前の2006年に人文系学士を手に入れた若者の前には色々な道があった。安全で権威ある仕事がほしければロースクールに行って弁護士になればいい。東海岸に住んでロマンチックな仕事に就きたければメディアか出版への道がある。知識階級になりたければアカデミアの世界が待っていたし、もっと安定を求めているのなら教師や公務員になる方法もあった。
 だがこれらの仕事は足元で急激に雇用力を失っている。実のところ弁護士はTurchinが述べているように世紀をまたぐ頃には既に過剰となっており、Smithも1970年代からその数が急増していることや、2010年以降はロースクールへの進学自体が減っていることをグラフで示している。出版も同様で、特に大不況後はその落ち込みが激しい。メディアの雇用が減る一方、ネット出版やネット放送の方が雇用で上回っていることも分かる。
 アカデミアも避難所にはならない。こちらのポストも大不況以降に急激に落ち込んでおり、各大学がテニュア(終身雇用)を安い期間雇用に切り替えようとしていることが指摘されている。そして高校以下の教師の仕事も、やはり2010年以降は頭打ちになっている。エントリー内に載っているTIME誌の表紙には「修士号を持ち、16年の経験があるが、生活費を稼ぐために副業を2つ持ち、血漿を提供している。私はアメリカの教師だ」という言葉が記されている。人文系のキャリアとして期待されていたものが、軒並み悲惨な状態に陥っているわけだ。
 原因は需要だけにあるのではない。実のところ、こうした人文系の学問を修める学生数は、20世紀の末期に急増していた。こちらのツイートには1980年以降の様々な学問分野の学生絶対数が載っているが、例えば考古学は6倍、古典学は5倍強、言語学も5倍ほど、文化、エスニシティ、ジェンダー分野に至っては実に12倍にも数が膨らんだ。しかし2010年以降は減っているところも多く、例えば英語の数は1990年以前の水準まで低下。人文学などはピークの半分以下まで足元で落ち込んでいる。
 人文系に進んでも将来の魅力的なキャリアが築けないとなれば、そりゃ人文系そのものの需要も減るだろう。むしろ足元のデジタルトランスフォーメーションや、米国で言えばビッグテックの成功などを見れば、そういう分野での需要が見込める学問分野へ学生がシフトするのは当然。前にも書いた通り、「役に立たない」学問分野は時間の経過とともに勝手に需要が減少し、人々が遠ざかって廃れていく。足元の米国ではその動きがかなり急速に進んでいるのだと思われる。
 と、ここまで説明したうえでSmithは昔からある革命理論の一つを紹介している。期待の増加が革命をもたらすという理論で、私も確か高校時代に聞いた覚えがあるのだが、要するに人々が成長を当然のものと期待している段階で成長が鈍化すれば、その不満から革命が起きるという説だ。1960年代に途上国だけでなくフランス革命やアメリカ独立、ロシア革命などにも当てはまるとして広まった理論であり、成長の後に動乱が来るという意味では永年サイクルと似通っている。
 実際にはこういう説はもっと以前、トクヴィルの頃から唱えられていたものだそうで、トクヴィル効果という言葉もある。さらにはそもそも幸福や不幸といった概念も実は期待と現実の差に由来するのだそうで、要するに期待よりもいい状態になれば人は幸せになり、逆に期待よりも悪い状態になると不幸せになる、「幸福=現実-期待」という方程式まで紹介されている。
 現在の米国は、この意味で「不幸」な人々が大衆だけでなくエリートにも増えている。それを示すのがGoogle Ngramで「充実したキャリア」を調べた結果に表れている。1965年頃から少しずつ増えてきたこの文言は、1990年から2005年頃にかけてペースを上げながら増加を続けた。だがその後は増加ペースが鈍り、2015年を過ぎたあたりではいったん落ち込む様子も見せている。社会全体で「充実したキャリア」への期待が特に20世紀末から急速に膨らみ、それが足元で頭打ちになっているのが分かる。
 1990年に15歳だった者は今では40代後半だ。彼らはまだ思い描いたキャリアをそれなりに歩んでこられたかもしれない。だがこの「充実したキャリア」期待が膨らみ続けた最後の時期である2005年に15歳だった者はどうだろうか。彼ら彼女らが社会に出始めた時期は、この充実したキャリアという甘い言葉がNgram上で減少した時期である。まさに現実と期待との落差に直面したのが彼らだろう。Smithは左翼的な思想を持つ大学生や大卒以上の人々が、労働者階級を自分たちのことだと思っていると指摘している。労働者階級を救えというのは、要するに自分たちを救えという意味だ。
 最後にSmithは、期待に現実が見合わず不満を抱えたエリート志望者たちをどうなだめるかについて言及している。上に紹介した方程式に従うなら、現実を引き上げるか期待を引き下げるという2つの方法のどちらかしかない。このうち現実を引き上げる方法については「取り組んでいるが極めて難しい」としている。前にも書いているが、エリートが自分たちの都合に合わせて成長度合いを調整するなど無理難題もいいところ。まして成長の源となる科学的発見や発明が低迷している現状において、そちらに期待を持つのは賢い手とは言えないだろう。
 だからSmithも、より現実的な方法として期待を引き下げる方法を紹介している。富や個人的な充実よりも気概や奮闘について人々に語り掛けるようにする、大学はより現実味のあるキャリアカウンセリングに取り組み、政府は実習制度や職業教育に力を入れて(不満を持つ高学歴層ではなく真の)労働者階級の生活をまっとうなものにする。大衆とエリートの格差が縮まれば、学生たちも自分がエリートとして高い評価を受けるべきだという大それた「期待」から少しは目が覚めるだろう、という理屈だ。
 最後にSmithは、こうした期待のリセットは恒久的なものではなく、またいい時代が訪れれば人々の期待は膨らんでいくだろうとも述べている。だがそれは将来の懸念であり、まずは現在の動揺を収めるために夢を地上まで引きずり下ろすのが最良の手だ、というのが彼の主張だ。このエントリーはSmithのblog内でもかなり読まれた部類に入っているという。

 トクヴィル効果などの議論や、紹介されているデータは面白い。だが最後の結論は妙に上から目線だ。正直なところ、エリートとして成功した人間が「動揺を避けるため期待を下げる」というのを口実に挑戦者(エリート志望者)を排除してエリート階級を閉ざそうとしているようにも見える。「お前らには実力がないんだから諦めろ」と言われて、果たして人々が大人しく従うだろうか。本当に期待を下げる方が「不和の時代」を終わらせるのに役立つのだろうか。
 それよりはTurchinが予測モデルで示したように、大衆の取り分を増やすことにのみ力を注ぐ方が、まだ効果的ではないかと思う。Smithもそうした政策を一部で示しているが、要するにエリートになっても大衆と比べてそれほど極端に利益があるわけではない、という社会を作ることで、結果的にエリートになることへの期待を引き下げるという方法だ。今ある期待を無理に下げるのではなく、時間をかけて自然に下がっていくようにする方が、まだ実現性は高いだろう。少なくともSmithが言うほど期待を下げる方法が簡単だとは思えない。
 一方で、いずれ時間が経過すれば今のような不満を抱く若者世代が年を取り、もっと大人しい控えめな世代が台頭してくるのではというSmithの予想には同意する。イングランドの永年サイクル分析でも指摘されていたが、社会政治的不安定性に影響を及ぼすのは構造的な問題よりも世代交代に由来する「父―息子サイクル」の方が大きい可能性があるからだ。要するに何の手も打たなくても(打てなくても)時間が経てば動揺は収まる(ように見える)。もちろん構造問題が残っていればいずれ2世代ほど経過したところでもっと激しい動揺がやってくるだけだが、「足元の動揺」を何とかしたいのなら問題の先送りを図るのは合理的な選択と言える。
 米国が、Turchinのモデルにあるように本気で労働者階級の生産改善に取り組めば、しばらくの動揺を経た後で事態は大きく改善する期待もありそう。だが今のエリートたちに、格差縮小のため力を合わせようとするアサビーヤは残っているだろうか。そのアサビーヤを支える限界利益を、今の先進国社会は生み出せるのだろうか。むしろ構造的問題には手をつけず、先送りで時間切れを狙うという楽な方向に進む可能性の方が高いのではなかろうか。そんなことを思わせるエントリーだった。

追記:Smithのエントリーが日本語訳された。
スポンサーサイト



コメント

非公開コメント