役に立つ学問

 こちらの本に対するこちらの書評を読んで思うところがあった。といっても書評そのものについての感想はこちらのツイートと似たようなもの。要するに目新しい主張がなく、きちんと読む必要のあまりなさそうな文章でしかなかったのだが、その中にあった「『役に立つか』という問い」の部分がちょっと引っかかったのだ。
 役に立つとはどういう意味だろうか。書評では「役に立つ」という観点自体を批判しているのだが、この本の中で何をもって「役に立つ」と定義しているのかを細かく説明してはいないし、私はこの本を読んでいないので正確なところは分からない。ただ引用部を読む限り、「金を投入する価値があるか」という切り口が問題のようだ。そして金を投入するに値するかどうかを測る場合、一般的には投資額に対してどのくらいの利回りでリターンが得られるかを見る。要するに「儲かる」ことが「役に立つ」、という意味だと考えられる。
 さらに「儲かる」ことが何を意味するかを考えるなら、それは価値を高めることと同義だろう。価値というものは物事に内在的に存在するのではなく、その物事に対する需要と供給で決まる。学問分野について言うなら、社会から需要の多い学問は「役に立つ」価値の高い学問であり、逆に需要の低い学問は「役に立たない」価値の低い学問と見なされやすくなる。では社会は何を求めるのか。こちらで社会の複雑性が増していった動因として「ダーウィン的アルゴリズム」が想定できると述べた。おそらく学問が「役に立つ」か立たないかという議論も、最後はそこに行き着く。つまり社会の成員たちの包括適応度を高められる学問が、「役に立つ」学問と見なされるのだろう。
 逆に言うなら、学問というものは最初から「役に立つ」ことを求められているわけではない。生物の表現型も、まず役に立つことを前提に作り上げられたものではない。表現型は単にランダムな突然変異の結果として現れ、そのうち適応度が高いものが結果として生き残るだけだ。学問も同じ。最初から役に立つ目的がなければ研究が行われない、という理屈は存在しないし、誰からも求められなくても個人が自分の趣味で特定の学問分野の研究を続けることは可能。学問は「役に立たない」から存在意義がなくなるわけではなく、単に役に立たない学問は時とともに人々が見向きもしなくなり、学問分野として成立しなくなるだけだ。
 こちらでリンクを貼った、架空の中世題材の漫画に関する感想の中に、占星術についての言及があった。実は中世の占星術は一種の「超科学」のような扱いだったそうで、その実用性に期待した政治家から多額の支援を受け、また政治的決定にも影響を及ぼしていたという。ティコ・ブラーエの天体観測もそうした支援があったからこそ成し遂げられた。だが今では占星術に学問的価値を期待して多額の投資をする国家はほぼいないだろう。理由はおそらく、ブラーエ自身が占星術への興味を失っていったように、占星術は「役に立たない」ことが時とともに明らかになったからだ。
 学問に携わる者が「役に立つかどうかという問いは重要ではない」と考えるのは全然OKだ。役に立たなくても自分がやりたいから研究する、という人がいても、それ自体は本人の自由である。だが「役に立たない」ことは社会にとっては重要だ。そうした学問分野はまず学生が敬遠し(就職の役に立たないなどの理由で)、スポンサーとなっている政府なども資金を出し渋るようになり(政府のスポンサーである納税者が文句を言うため)、さらにはその学問分野を修める者自体が減り(食っていけないから)、占星術のように学問としては廃れる。
 そう考えるなら、学問分野に対して「もっと役に立て」と提言する人は、むしろその学問分野に生き延びて欲しいと思っている人である、と解釈できる。一方で「役に立たなくていい」と思っている人は、むしろその学問分野の滅亡に結果として手を貸していることになる。外部の人間がどちらのスタンスを取ろうともそれは個々人の自由だが、例えば人文学で食っている人間が「役に立つ必要はない」と言い出した場合、それはタコが自分の足を食っている状態に等しいわけで、まあ傍から見ればなかなかシュールな見世物、ということになる。

 で、今回はここからが本番。役に立つか否かが包括適応度で決まるとしても、環境が変われば包括適応度の向上に役立つ学問分野が変わってくる可能性があるんじゃないか、というアイデアについて話す。前にこちらで、Google English copusを使って資本主義イデオロギーと封建主義イデオロギーの盛衰を調べた研究を紹介した。結果、Turchinの「不和の時代」分析と似たような結論が導きだされたわけで、足元はいったん衰えたはずの聖書に基づくイデオロギーに復活の兆しがあるという指摘だった。
 考えてみれば宗教(特に枢軸宗教)は、かなり長期にわたって人間社会における支配的イデオロギーであったし、それを反映するように学問分野ではかつては神学が非常に高い地位を占めていた。だが近代以降になると宗教はむしろ成長の足を引っ張るようになり、結果として聖書より経済成長を象徴するかのような資本主義イデオロギーの方が勢いを増すようになった。学問では神学が脇役となり、成長の源となった自然科学の分野こそが花形になっていったわけだ。
 なぜ近代以降にこうした流れの変化が生じたのか。それ以前の社会は農耕を中心とした経済的には停滞した社会だったが、近代以降は科学革命や産業革命といったイノベーションによって成長力が大きく上昇した社会だった。社会を巡る環境が変わると、当然その社会の成員たちにとっての包括適応度にも影響が及ぶ。おそらく成長の鈍い社会では現実を改善したり生産性を高めるような機能よりも社会自体が不安定にならないような機能の方が強く求められるのに対し、高成長の社会では生産性や利便性に直結する機能の方が包括適応度を高めるのに役立った、のではなかろうか。
 前者の機能を果たしたのが、西欧ではキリスト教だったんだろう。効果的に地上の秩序を維持できるイデオロギーや学問分野は、パイが大きくならない社会を破綻させずに運営していくうえで「役に立つ」学問であり、それを学ぶことが個々人の包括適応度の向上につながりやすかった。だがイノベーションを通じて社会全体の経済成長が高まると、むしろその成長の波に乗れる人の方が包括適応度は上がる。自然科学を中心とした「科学的な手法」が広まり、そうした分野に優秀な人が集まるようになったのは、そちらの方が高い包括適応度を達成できると期待できたから、だろう。
 逆に足元のように成長が鈍ってくると、再び包括適応度も変わっている可能性が出てくる。資本主義イデオロギーがピークを迎え、古い聖書のイデオロギーに復活の兆しが見えるとしたら、それは社会が今起きている環境変化を敏感に読み取ってそれに適応しようとしている結果、かもしれないのだ。今や包括適応度を上げたければ、成長より秩序をもたらす思想学問の方がトレンディ。乗るしかない、このビッグウェーブに、という流れである。
 もしそうなら、「社会秩序の維持が重要である」と人々に納得させることができる学問分野こそが生き残る、という理屈も成り立つ。この場合、成長に貢献するかどうかはあまり重要ではない。そして自由な価値観を称揚するタイプの学問も、社会の成員にとっては魅力的に見えないだろう。足元でリベラルも保守もアイデンティティ・ポリティクスに傾倒していっているのも、もしかしたらそうした流れを汲んで「自分たちの価値観なら秩序をもって社会を治められる」と有権者にアピールするためかもしれない。最終的に低成長下でも秩序を維持できるイデオロギーが勝利を収めることになるんだろうが、秩序を保つための価値観が何になるかはまだ分からない。
 いずれにせよやってくるのは特定の価値観が支配する鬱陶しい社会、ということになる。以前にも何度か書いているが、世界的に様々な社会での権威主義化が進むという妄想通りになるなら、当然イデオロギーや学問の分野でもそういう流れになっておかしくない。

 なお個人的に、世の中に「役に立たない」学問は存在しないと思っている。たとえ事実に反していたり、事実の把握に役立たなかったりする主張であっても、それが間違っていることが分かればPCDAサイクルを回せるわけで、そうした考えの存在自体には意味があると言える。もちろんそうした主張は占星術のようにやがて歴史的な役割を終えて廃れていくわけだが。
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コメント

Hiroshi
お久しぶりです。以前「ファッショナブル・ナンセンスな本」についてコメントしたものです(笑)

これまでの話はなかなか私がコメントできるようなレベルの内容ではなかったので、読むだけだしたが、少し自分の体験からコメントできそうなので顔をまた出しています(汗)

後半の話とも重なりますが、個人的には「役にたつ学問」というのは《結果論》で、偶々その学問が社会選択を受けて「偶然」役に立ったということではないかと感じています。

私は既にリタイヤした70代の老人ですが、ジャコブの「細菌の性と遺伝」という1963年に出版された本を学生時代に読んで面白かったのでこの分野に入った人間です。しかし当時、それが現在のバイオテクノロジーに発展するとの予想はあまり一般的になかったのでは?と感じています。

desaixjp
偶然というと私が思い浮かべるのはリン・マーギュリスですね。
https://en.wikipedia.org/wiki/Lynn_Margulis
共生説を唱えた学者として評価されていたのですが、晩年は陰謀論者になってしまった人です。
彼女を見て、世の中にはごくたまに目を瞑ってバットを振り回したらホームランになる人もいることを知りました。
メリトクラシーは実績を評価するシステムであり、そのシステム自体は悪いものだとは思わないのですが、実績には「運」も含まれていることを忘れない方がよさそうだと思いました。
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