ロシア兵の体験

 ウクライナ戦争はまだ継続中。年内に終わることはおそらくないだろうが、その中でこちらの記事で紹介されている元ロシア兵の戦争体験に関する話が興味深かった。彼は戦争を批判する長文の証言をSNSに投稿した後でロシアを離れたという。空挺部隊に所属して戦った彼によると、ロシア側の主張は「何もかも嘘」であり、やっていることは「平和な生活を破壊している」だけだそうだ。またロシアでは腐敗と抑圧が蔓延しており、そうしたことを発言した自分は「刑務所に入れられるか、あるいは彼らが私を排除して黙らせるかのどちらか」の運命が待っている。だから彼は国外へと逃げ出した。
 このあたりは正直、ロシア内に住んで政府のプロパガンダを全く疑うことなく受け入れている純朴な人や一部陰謀論者を除き、ほとんど「知ってた」レベルの話ばかりだろう。それよりも興味深いのはこの元兵士の個人的な体験の部分、つまり彼が具体的にいつどこでどんな目に遭ったのか、という話だ。こうした「兵士の体験」は歴史を知るうえでの一つの史料としてよく使われている。
 もちろん大半の歴史を通じて兵士の多くは文字を書くこともなく、従って彼らの目から見た戦争について実態を知るのは難しいケースが大半だ。でもナポレオン戦争の頃になるとそうした記録が次第に増え始める(こちらで触れたのもその一例)。最近はむしろ識字能力のない兵士の方が少なく、日記やら回想録やらを含め様々な形で兵士の言葉が後の時代に残るようになっている。さらに士官や将軍たちの記録まで含めるのなら、そうしたデータの量はかなりのものに上るだろう。
 加えてネットの発展により、そうした文章がすぐ世界中に広まるようになった。もちろんこのロシア兵が書いた文章はロシア語で書かれたはずだが、それらはすぐに英語に翻訳されている。具体的にはこちらのツイートから続く一連のツイートがそれ。全訳ではなくあくまで抜粋のうえでのまとめだが、目下のところ「最も新しい戦争」で兵士がどのような体験をしたかが書かれているという意味で、なかなか面白そうだ。

 最初のスレッドではロシア兵フィラティエフが久しぶりに軍に入隊したところから話が始まる。若い頃にも軍にいた経験のある彼が2021年に入隊したのは、クリミアにいた第56親衛空挺連隊。だがそこで彼が見たり経験したものは、若い時とはかなり様変わりした軍隊だったという。装備はろくに揃わず、兵舎はボロボロで、訓練は雑でいい加減、士官たちもまともに機能しておらず、兵士たちも空挺部隊所属とは思えないほど質の低い軍隊が、彼の目の前にあった。
 中でも興味深いのは、部隊が定数を大幅に割り込んでいた点だろう。彼の所属していた第2空挺大隊はそれぞれ45~60人の中隊3つ(計165人)で構成されており、他にも同数の強襲大隊が存在した(計330人)のだが、書類上この部隊には500人が属していたという。フィラティエフによればウクライナに攻め込んだロシア軍の数は書類上は20万人だったかもしれないが、実際は10万人ほとにとどまっていたのではないかという。
 続くスレッドでは開戦前後の彼の経験がまとめられている。開戦前に宿営地に送られた時点でロシア軍を巡る状況は既にかなり悪くなっていたようだ。マシンガンは数発でジャムり、2月だというのにストーブもなく、寝袋もヘルメットも見当たらなかった。また彼らはどこへ進むのかについても知らされておらず、有名なZのマークについても侵攻前日までは上下の横の線しか描かれておらず、直前に斜めの線が入ったのだそうだ。
 クリミアからの侵攻軍を構成したフィラティエフの部隊が最初に向かったのはヘルソンだった。ただしそこに至る彼の記録を見ると、ほとんどまともに交戦した様子は描かれていない。彼が聞いた銃声の多くは味方の同士討ちであり、戦闘の恐怖よりもまともな補給のないままでの戦場暮らしの大変さがその記述の中心になっている。3つ目のスレッドには、トラックの擱座といった兵站問題、敵対的な姿勢を見せる民間人との遭遇といった軍の混乱ぶりが主に紹介されているが、ウクライナ軍との戦闘シーンはそれほど多くない。
 どうやらこの方面のロシア軍が本格的な交戦を経験したのは、ヘルソンからミコライウへの侵攻が始まった後のようだ。4つ目のスレッドにはそうした本格的な戦争の話がやっと登場する。といっても現代の戦争は互いに距離を置いて戦うのが当たり前であり、敵兵を直接見る機会はそれほど多くないだろう。フィラティエフの文章でもひたすら敵の砲撃に耐える場面が頻出する。
 一方、ロシア軍の士気低下、食糧難、戦場から逃げ出すために自傷行為を行なう兵士たち、指揮官に対する不満など、軍内の状況が一段と悪くなっていく様子は詳しく書かれている。フィラティエフ自身は4月に入って砲撃によって目に泥が入り、そこから目の症状が悪化していったという。そうしたちょっとした怪我ですら治療する手段が最前線にはなかったためで、ついにはそれを理由に彼は負傷兵としてクリミアへと引き上げることになる。
 5つ目のスレッドにはクリミアに戻った後の話が書かれているが、これまたろくでもない話が多い。病院ではまともな治療も受けられず、軍に対して様々な不満を訴えても一向に取り合ってくれない。前線の実態を知らずに繰り広げられるプロパガンダにもうんざりした彼は、そもそもこんな戦争にこれ以上かかわりたくないと思ったのだろう。自分の経験をぶちまけ、最後に「戦争反対」の一言を入れて戦争とロシアから逃げ出した。

 以上、フィラティエフの文章を抄訳したうえでツイート主はこちらのスレッドで全体を振り返ったまとめを記している。これもまた面白い。フィラティエフは若いころに経験した軍務と現状が大きく変わったと述べているのだが、最初のきっかけとなったのはセルジュコフが始めた軍の改革だ。少数だがプロフェッショナルな軍を作ろうとした彼の取り組みは、ロシアに限らず各国が想定した「これからの戦争」を見据えたものだったのだろうが、その後でセルジュコフは政治的に排除され、プーチン側近のショイグが後を継いだところから軍の腐敗が加速した
 兵站の問題はウクライナ戦争初期の頃からロシア軍の宿痾として指摘されていたが、フィラティエフの証言もそれと平仄が合っている。彼らが使わされている兵器は50年も前のものであり、また兵士たちはろくに交代もできないまま1ヶ月も砲撃下の塹壕で過ごした。第一次大戦の英兵ですら平均で4日間塹壕で戦った後は休息を取れたというのに。
 組織の運営に当たる士官たちはこうした問題を全く解決しようとしなかった。腐った組織の中で何十年もひたすら耐えて出世する過程で、やる気のあるまともな者は去り、残ったのはダメ組織に適応するだけの能力しか持たない連中ばかり。士官の大半は戦闘において兵を率いるどころか酒を飲んで後方にずっととどまっていたという。結果、まともに軍人としての道を歩もうとする者はロシア軍よりもワーグナーグループのようなPMCに進路を求めたそうだ。
 そして、こうした組織は兵をひたすら粗末に扱った。彼らが十分に戦えるようその厚生に気を配るものはおらず、勇敢な行為を褒賞することもなく、戦死しても行方不明扱いとして遺族への補償金を減らすことが平然と行われていた。「奴らは我々の死体をウクライナに放り出すことに決めたのだ。どうせもっと女たちが大勢産んでくれると考えて」とフィラティエフは述べている。
 正直、この最後の部分はいささか信じられない。ロシアの合計特殊出生率はずっと2を下回った状態だし、2010年代半ば以降は再び低下傾向が見られる。加えて足元でロシア軍が兵士不足に落ちっている可能性はかなり高く、プーチンは来年から軍の人員を増強する大統領令に署名したそうだ。ウクライナの泥に嵌っているロシア軍ほど兵士を大切にしなければならない軍は存在しないだろうに、彼らは真逆の行動を取っている。

 他にもいくつか興味深い話が出ている。1つは今回の戦争で使われている砲弾の数だ。こちらで紹介されている図を見ると、1日当たりの砲弾消費量が第一次大戦中の英独軍と比べても遜色ないレベルに達しているのが分かる。上に書いた通りフィラティエフの文章を翻訳したツイート主が第一次大戦の英軍と比較していたが、鉄の嵐という観点でも比較できる歴史上の事例になっているようだ。
 それだけ大量の武器弾薬を使用しながら一向に望んだ成果を上げていないことが、ロシアの武器販売にも影響しているという。8月に行った武器の展示販売会で売れた額が前年の6分の1に急減したそうで、まあ今回の戦争を見ていれば買う気がなくなるのは当然ではある。また武器の部品の多くを西側に頼っているのも問題であり、そもそも自分たちの需要を満たすためにベラルーシ経由で西側の部品を手に入れようとする動きもあるくらい。正直、景気よく売りさばける状況には見えない。
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