ベルティエ、愛の行方

 ナポレオン漫画の最新号はミラノ入城とその後のロンバルディアでの叛乱などが描かれていた。一番目立っていたのはベルティエ。ヴィスコンティ夫人と出会う場面があることも考えればここで目立たせるのは確かにいい手だ。もっともこれでまた話の展開が遅くなった感じも。いつになったらイタリア遠征が終わるのやら。

 という訳でいつものように史実との比較を。最初の方で「俺たちの鼓笛隊です」と騒いでいる連中は第32半旅団だろう。元ネタはフランソワ・ヴィゴ=ルシヨンの「ナポレオン戦線従軍記」に出てくる「マセナは盛大なミラノ入城式を挙行したかった。第三十二半旅団からこの軍楽隊を分離して師団の先頭に立て、全軍をこの軍楽隊の奏する音楽に合わせ整然と行進させたかったのだ。しかし、第三十二半旅団の兵たちが一斉に反対した」(p44)の話でほぼ確定。
 ベルティエに対してナポレオンが「あの日お前は参謀でありながら砲兵、騎兵、擲弾兵だった」と話しかける部分は、ボナパルトの報告書"http://www.asahi-net.or.jp/~uq9h-mzgc/g_armee/source/lodi_bona.html"に出てくる「この日の彼は砲兵でありかつ騎兵、擲弾兵でもありました」から。漫画ではナポレオンの後から走ってきたので今一つこの褒め言葉が似合っていないような感じもするが、もしEsposito & Eltingが言うように軍旗を持って走ったのがベルティエだとしたらそれほど違和感はない。もし、本当にそうだったならば、だが。
 私の探した範囲で、ベルティエが軍旗を持って突進したという話は見当たらない。ただ、士官たちの中でもベルティエが先導したと主張する本としては、1804年出版のThe Revolutionary Plutarch"http://books.google.com/books?id=7QEndMML_V0C"がある。「1796年5月12日[ママ]、4000人の擲弾兵がロディ橋の上でオーストリア軍の散弾により完全に一掃された後で、ベルティエはマセナ、セルヴォニ、ダルマーニュ将軍に対し、彼とともに隊列から出発し、兵たちに攻撃再開を勧めるよう励ました」(p91)。
 もっとも上の本はあからさまに反革命、反ナポレオン、親王党派の立場で書かれたものなので、その文章をそのまま信じるのは拙いだろう。同書p86にはナポレオンの1796、1797、1800年戦役における輝かしい成功の全てが主にベルティエに負っていると記しているが、最大の功労者はやはりナポレオン本人にあると考える方がおそらく妥当。立憲君主主義的な思想を持っていたといわれるベルティエに対し、同書はかなり贔屓している。
 ミラノに対しナポレオンが「とりあえず軍事賦課金として600万フランを徴収します」「それに市内の美術館の作品も出していただく」と要求する部分だが、史実でこれに相当する文章を探すと1797年に出版されたJohn Debritt編のA Collection of State Papers Relative to the War Against France Now Carrying on by Great Britain"http://books.google.com/books?id=Gwqp14DN7agC"に掲載されているボナパルト将軍とサリセッティの5月19日の布告が見つかった。ロンバルディアに対し「フランスの金で2000万の分担金を課す」(p24)とある。金額は漫画より多く、一方で美術品に対する言及はない。

 もう一つ、少し遡ってロディに関する取りこぼし分を書いておこう。ロディでオーストリア軍が放ったのは散弾だったことは以前指摘したが、Brent Nosworthyはこれが失敗だったと指摘している。橋の上で縦隊を組み前進してくる敵歩兵を攻撃するには、円錐形に広がる散弾より一直線に飛んで複数の兵を倒せる砲丸の方が大きなダメージを与えられるという理屈だ。散弾であれば第一列目の兵しか倒せないが、砲丸なら「前進してくるフランス軍縦隊の全長に穴をうがつことができる」(Nosworthy "With Musket, Cannon and Sword" p6)という。
 これに対する反論が、雑誌The Age of Napoleonの第37号に載っていた。John Walsh, Mag. Herbert Zima, Dave Hollinsらによると、まずオーストリア軍の大砲はきちんと操作するために少なくとも4.5メートルの間隔を置いて配置する必要があったという。ロディ橋の幅はBoycott-Brownによれば最大7.6メートル。真ん中に大砲を置くなら1門、端っこに置くとしてもかろうじて2門を大砲の出口に配備できる程度の幅しかないのだ。つまり橋いっぱいに広がって迫ってくる歩兵に対して、撃ち込める砲丸は最大2個。最前列にいる兵士たち(おそらく10人以上)の大半は砲丸に触れることなく突進を続けられる。漫画では横からのアングルでごまかしていたが、正面から見れば最大2人(およびその後ろに続く連中)のみが倒されて残る10人前後は無傷ということになる。
 もっと問題なのが橋の距離が短すぎること。Kevin F. Kileyの"Artillery of the Napoleonic Wars"によれば、この時代の大砲は砲身を水平にしても砲腔は微妙に上を向いていたようだ(p82)。つまり水平射撃をしても砲丸はいったん斜め上に向かい、それから重力に引かれて落ちてくる放物線を描くことになる。Walshらによればオーストリア軍の大砲の場合、砲丸が相手にダメージを与える高さまで落ちてくる必要最低距離は約330メートル。ロディの橋の長さはBoycott-Brownによれば183メートル、Walshらによれば165メートル。必要最低距離より短いため、撃ち出された砲丸は相手の頭上を飛びすぎていくことになる。
 実際、1809年のヴァグラムの戦いに関するオーストリア側の記録の中には、至近距離からフランス軍が砲丸を撃ち出してきたためその大半は味方の頭を飛び越え、背後にいた士官たちの馬などを殺した、というものがある。縦隊を組んで橋を前進してくる連中には砲丸が有利という理屈は、一見もっともらしく思えるが、よくよく考えれば無理がある主張なのだ。
 もっともこうした「机上の空論」っぽい指摘をしているのはNosworthyだけではない。1848年に出版されたCarl von DeckerのThe Three Arms"http://books.google.com/books?id=VCMEAAAAQAAJ"でも「最も重要な点は、中央の砲列から砲丸で橋を縦射することである。オーストリア軍はロディで散弾が大きい影響を持たないことを知らされた。散弾が決意を固めた敵を止めることは滅多にない」(p93)と書かれている。一見理屈が通っていそうに思える説には、誰しもついつい飛びつきたくなるのだろう。もって他山の石とすべきである。

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