毬と呼ばれた兵器は
こちら で指摘した「開放型」兵器の一種であり、いわば火薬がむき出しとなっているのが特徴。そこに焼いた錐を直接差し込むことで火薬に点火させている。おそらく火矢についても点火方法は似たようなものだっただろう。武經總要にはその他にも椀や皿、柄杓のようなものが描かれているが、これらがどのように使用されたのかは武經總要だけ読んでも不明。ただし欧州での使用例を見るなら、例えば皿はそのうえで木炭を燃やし、錐を熱するために使われた可能性がある。柄杓は火薬の量などを計るのに使ったのかもしれない。
次に出てくるのは
金史に出てくる「小鐵罐藏火」という記述 だ。火錐の場合、金属の棒を熱する焚火が必要であり、部隊が移動していないケースに限って利用できることが分かる。この金史の事例ではモンゴル軍に夜襲をかけた際に使われた武器の説明に関連して出てくるわけで、焚火を移動させるわけにいかなかった金兵が、鐵罐に火を入れておいて「臨陣燒」、敵に接近したところで火をつけたのだろう。
だが、この鐵罐に入れていた火種がどのようなものであり、そこからどうやって火槍へと火を移したのかについて、この文章を読んでも実はよく分からない。例えば鐵罐とはランタンのようなものであり、そこに灯した炎から例えば紐などに移した火を使ったのか、そうではなく中に入っていたのは熾火であり、それを上に出てきた鉗子でつかみ上げて導火線に点火したのか、色々と想定はできる。もしかしたら複数の方法が使われていたのかもしれない。でもこの文章だけで決めるのは無理だろう。
次に出てくるのは前に述べた
景定建康志 に出てくる「鉄火桶」「鉄火錐」だ。前者は金史に載っていたアイテムと、後者は武經總要のものと似たものだろう。一方、同じページ(105/124)にある火薬兵器として名前が出てくるものを見ると、まず「鉄砲殻」「火蒺藜または火薬蒺藜」「霹靂火砲殻」「小鉄砲」あたりはおそらく投石機を使って投げたものと思われる。鉄火錐で点火可能な兵器だろう。「火弓箭」「火弩箭」は名前の通りだが、後者はバリスタのようなものかもしれない。だとしたらそちらも移動せずに点火した兵器の可能性がある。
「突火筒」「火薬棄袴槍頭」はいずれも火槍の一種だと思われる。ただ前者の方はサイズが大きく、手で持つのではなく据え付けて使っていた可能性がある。と言っても竹で作られていたと考えるなら持ち運びが困難なほど重いとも思えず、普段は持ち運び、撃つ時だけ地面に置く、といった利用法も想定される。これらの兵器は弓矢と並び、移動が前提となる鉄火桶を使った点火法が採用されていたのかもしれない。ただしこちらも具体的な使用法が書かれているわけではないので、詳細は不明だ。
以上、中国側の史料を見ても点火法があまり具体的に記されていないものが多い。特に鐵罐や鉄火桶を使った場合に具体的にどう点火したのかについてはほとんど不明。というわけでここからは推測の世界に突入する。使うのは
火龍經、または火龍神器陣法という名で呼ばれている書物 。編者の焦玉は洪武帝の下で戦った人物だが、この書の序文には彼が永楽10年(1412年)に記したとの文章があり、15世紀初頭にまとめられた書物だと考えられている。
実のところ、ネット上に見つかるこの書物は内容が結構違っている。上の英語wikipediaにはこの書物から引用したイラストが多数掲載されているが、そのイラストに近いのは
こちら で閲覧できるpdfファイルだ。だがこのイラストの中にはどう見ても時代が違う武經總要の兵器が混じっている(132-137/188)。火龍經の別名とされる
火攻備要 という文献も、内容はほぼ同じだ。
それでもここに描かれている武器の中には、元末から明初の頃に使用されていた火薬兵器が載っていると想定するのは可能だろう。その場合、特に移動しながら使うことを想定した持ち運び型の(特に手持ち式の)武器がどのように描かれているかは興味深い。例えば撃賊砭銃(90/188)や神鎗箭(100/188)など、手持ち式と思える武器をいくつか取り上げると、そこに共通した特徴がある。タッチホールのところに導火線らしきものが描かれているのだ。こうした事例は火龍經全体で計9例(74、92、104、106、110、112、114/188)も存在する。
一方、より大型に見える火器を見ると、導火線を描いたものがない。例えば手押し車に乗せられている七星銃(84/188)や4輪荷車の上にある干子雷砲(82/188)、地面に固定して使う虎蹲砲(60/188)、重さ120斤(72キロ)もある威遠砲(58/188)などだ。これらの兵器は使用時には同じ場所にとどめて使っていた可能性が高く、つまり近くで焚火をして火錐を使った点火ができるような兵器だったと考えられる。
固定した状態で点火するなら、近くの焚火で熱している点火鉄を使って作業をするのにあまり問題はないだろう。熱した鉄の棒をタッチホールに押し付け、それで中の火薬を爆発させる。だが手持ち式の火器でこうした点火法は使えない。そもそも移動した先ですぐ撃つ必要性に迫られた場合、呑気に焚火をして点火鉄を熱している時間などない。缶だか桶だかの中にある火種を使って、できるだけ時間と労力を使わない方法で点火する必要がある。
その際に役立ったのが導火線ではなかっただろうか。例えば手っ取り早く桶の中の熾火を鉗子(トング)でつまみ出し、それを導火線に接触させる。導火線に火がつけば、熾火を桶の中に落として火器を構える。点火しやすく、かつ実際に撃つ時は両手で武器を支えられるわけで、これはかなり楽な点火法のように思える。鉄火桶がランタンのようなものだとしても、ランタンの火をつかって導火線に点火し、後はランタンを置いて火器を構えればいい。
もちろん装填時には火薬と弾丸だけでなく導火線もセットする必要があるわけで、それだけ手間がかかってしまうが、前に紹介したように取り換え式の火槍を使えば、そうしたセットも事前に済ませておけるだろう。そして中国には少なくとも鉄火砲の頃には導火線があったのは間違いない。火龍經の中にも「薬線」や「薬信」という名で導火線がいくつも紹介されている。むしろ導火線を使った長い歴史があったからこそ、それを生かした点火法がいつまでも続いた、のかもしれない。
実際、Great Ming Militaryというサイトを見れば、他にも
钁銃 や
火弩流星箭 、
直橫銃 など、同じく導火線らしきものを備えた武器がいくつか出てくる。まあ据え付け式で導火線を使う武器(
こちら や
こちら )もあるので絶対に手持ち式武器のみが導火線を使っているわけではないが、手持ち式の方で利用例が多いのが分かる。
もちろん欧州勢との接触後は、
普通に火縄を使って点火する武器 が明にも登場する。より利便性の高い手法があればそちらに乗り換えるのは当然だろう。だが中国が自前で火縄を開発できなかったのだとしたら、それ以前の点火法として最も利便性に優れていたのが導火線の利用、だったとは考えられないだろうか。
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