1796年ドイツ(byナポレオン)その10

 承前。


X.
 遥か北方のデュッセルドルフはオーストリア軍の注意をひきつけなかったが、ケール要塞とフンニンゲンの橋頭堡はフランス軍の一部を左岸[右岸の誤りか]に冬営させることも、ドイツを騒がせることも可能だった。そこで彼らはこの2ヶ所を奪うことを決断した。10月28日、4万の兵力が取り巻き、ケールの前に右翼と左翼をライン河に拠り、長さ3500トワーズの塹壕で互いに繋いだ15個の堡塁から成る対城壁線を築き、右岸のケール要塞を完全に取り囲んだ。フランス軍も同様に活動して要塞とライン上流及び下流の突出部に柵を作り武装し、左岸全てに砲列を強いた。彼らは中州、特にエーレン=ラインとトゥフューにも頑強な拠点を作り、後者の前面、ケールから1500トワーズの場所には橋頭堡も築いた。この橋頭堡からキンツィヒまでの距離は1000トワーズ。彼らはライン河から垂直に距離1000トワーズの場所に塹壕で守られた陣地を、またエーレン=ライン中州の橋頭堡を築いた。それはケールからキンツィヒ河口に向けてライン河を500トワーズ下った場所にあった。これらの陣地は24時間ごとに交代する16個歩兵大隊によって守られていた。
 これらの手ごわい防御の準備にもかかわらず、カール公は一方の岸から封鎖することしかできず、ストラスブールとフランス全土から切り離すことができないこの場所を攻囲することを主張した。11月21日、彼はキンツィヒの陣地を攻撃するための塹壕を掘り始めた。11月22日夜明け、ドゼーはケールの塹壕で守られた陣地から歩兵1万6000人、騎兵3000騎の戦闘に立って出撃し、対城壁線を突破し、ライン河から1リーグの場所にあるスンハイムの村と敵の幕営地の背後を占拠した。しかし彼が指揮している兵力はあまりに取るに足らないものだった。いくつかの対城壁線の堡塁を破壊し、15門の大砲に釘を打ち込み、6門を奪い、1500人の捕虜を得た後で、彼は自分の陣地へ戻ることを余儀なくされた。11月28日、敵はすぐに全砲兵隊の姿を見せた。キンツィヒの陣地に対する接近は単なる陽動に過ぎず、主な攻撃はトゥフュー中州の前面にある橋頭堡とエーレン=ラインの中洲に向けられていた。敵はライン河にかかる橋を破壊する計画だった。12月6日、彼はトゥフュー中州とその橋頭堡を奪った。9日には塹壕線の外部を支配し、自身ケールの古い教会に腰を据えた。18日、彼はフランス軍塹壕線右側全てとトゥル=ド=ルーの堡塁を奪った。1月3日、彼はエーレン=ライン中州全てを支配した。6日、彼はライン上流の突出部を攻撃し、橋を破壊した。そして10日には降伏したケールに入城した。フランス軍はこの要塞を放棄し、彼らに属するものを全て河のストラスブール側に運んだ。双方の損害は非常に多く、弾薬の消費量は膨大だった。左岸に築いた多数の砲列のお蔭でフランス軍の砲兵は優位にあった。両軍とも11月、12月、1月の寒気のために大いに損害を蒙った。
 その間フュルステンベルク公はフンニンゲンの対岸に13個歩兵大隊と伴にとどまっていた。フェリーの麾下のライン軍右翼はその場に残っていた。アバトゥッチ将軍が橋頭堡の指揮を執っており、敵が準備を進め橋頭堡を攻囲する意図を示すや否や、この若い士官は最も精力的な防衛のために必要なあらゆる手順を踏んだ。敵砲兵は11月25日には攻撃の準備ができていた。彼らは橋頭堡を活発な砲撃によって攻撃してきた。29日には橋が破壊された。11月30日、オーストリア軍は6000人で強襲を行った。この戦闘は激しく、しつこく続けられた。敵は兵力の3分の1を戦場またはフランス軍の手に残して撃退された。24歳の将軍である若きアバトゥッチは、敵が宿営しようと試みた三日月堡塁からオーストリア軍を追い払うため、守備隊の戦闘に立って出撃した。彼は成功したが、致命傷を負った。この襲撃は結果として攻囲の中断をもたらした。しかし1月19日、ケール奪回の後で、敵は再び塹壕を掘り始めた。そして2月19日、守備隊は降伏し、ライン河を再び渡った。この2つの作戦の成功によってカール公は左岸[右岸の間違いか]沿いのブリスガウとバーデン領内に冬営することが可能になり、強力な増援をピアーヴェ川背後に集結している軍へ派遣し、2月にはその部隊の指揮官となった。この軍はボーリュー、ヴルムゼル、そしてアルヴィンツィの復讐と、マントヴァ、ロンバルディア、イタリアの再征服を目論んでいた。


 実際にはこの後、ナポレオンによる講評が続くのだが、そのあたりは気力が沸いたらいずれ翻訳するかもしれない。とりあえず今回の翻訳はここまで。

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