何よりこの研究で大きな発見と言えそうなのが、Figure 8とFigure 9に記されているように、聖書と経済学教科書で使われている「専門用語」がほぼ正反対にある点だ。先に書かれたのが聖書であることを考えるなら、経済学の教科書が敢えて聖書の専門用語の使用を極端に抑制し、一方で聖書が使わない用語を専門用語として大量使用したという可能性はある。使われている専門用語の目的は経済分析の際に便利かつ正確な意味を伝えるもの、という点にあるのは確かだが、その際に聖書に寄せた用語の使用をここまで避けている点は重要だ。もしかしたら筆者の言う通り、古い封建主義イデオロギーに代わるイデオロギーを普及させるために、無意識のうちに聖書と被らない用語を使う頻度を上げている、のかもしれない。
なお聖書を翻訳する側が資本主義イデオロギーを意識し、重ならないような英単語を訳語として選んだ可能性もなくはない。聖書の専門用語を調べる際に使った英訳聖書の中で最も古いのは1901年のものだが、大半は20世紀半ば以降の翻訳であり、その時点では既に資本主義イデオロギーはむしろ聖書を抑えて支配的なイデオロギーになっていた。経済学の専門用語を避け、逆に経済学で使われない単語を大量使用することも、できなくはないだろう。ただ原文があることを考えるならそんなに簡単ではない。やはり、どちらかと言えば新しいイデオロギーたる資本主義イデオロギー側が反対側の用語に寄せた気がする。
とはいえ専門用語の「離れっぷり」をあまり過大評価しない方がいい面もある。筆者も書いているのだが、経済学や聖書の専門用語は、全使用単語のうちたった3%ほどしか占めていない。それらがちょうど正反対を向いていたとしても、それは比率の小ささがもたらした偶然かもしれないのだ。一応、Figure 20を見ると聖書と経済学の用語がかなり強い負の相関にあると指摘されているものの、類似性指数についてはR自乗が0.45となっており、微妙に「強い相関」に届いていないのは気にかかるところ。このグラフを見ても、最も「負の相関」が強く出ているのは、比率の低い専門用語の分野だ。
また、対立するイデオロギーの候補として宗教と経済学のみを取り上げるのが妥当かという問題もある。20世紀に猖獗を極めた社会主義はどうなのかという疑問も浮かぶし、足元ではむしろ宗教右派と新自由主義経済は密接な関係にあるではないかという(筆者自身も指摘している)問題もある。21世紀に入って強まっている環境主義なども含め、他のイデオロギーについても同様の分析をやった方がよさそうに見える。
また、足元で生じている聖書の専門用語の復活をどこまで大きく評価するかという問題もある。筆者の述べるようなキリスト教原理主義の復活と解釈し、いずれはそういう反動的なイデオロギーが再び支配的な存在になる可能性が本当にあるのだろうかと言われると、エントリーに載っている各種データを見る限り必ずしもそうではないと考えることもできそうだ。
例えばFigure 10を見ると確かに1980年以降になって経済学専門用語の頻度が下がり、聖書専門用語の頻度が上がっている。だがそれでもいまだに経済学専門用語の方が頻度は上だ。それがもっとはっきり出ているのはFigure 11の類似性指数。確かに経済学の本とGoogle English corpusとの類似性はピークよりは低くなっているものの20世紀の初頭に比べればずっと高い水準にあるし、逆に聖書の類似性指数は足元少し戻したとはいえ、まだ1960年頃の水準にすら届いていない。英語全体で見ればいまだに経済学と似た言葉が使われる度合いの方が高いのは明白だ。
さらにFigure 12やFigure 13のような学術的文献を見ると、両者の差はそもそもそれほど縮まっているわけではない、というかFigure 12のSci-Hubの方ではむしろ足元でも広がっていると言える。学術文献はイデオロギー全体を表すにはサンプルが偏っているのは確かだが、一方で文献全体よりは具体的裏付けのある科学的な手法を経て書かれた物が多い。そちらの方で経済学の専門用語の使用度合いがずっと高い状態を続けているということは、経済学の手法が聖書より現実との整合性が高い(事実の裏付けがある)ことを示していると考えられる。筆者自身が書いているように経済学が富という名の「麻薬」をもたらせるならそちらのイデオロギーが優位を続ける可能性はあるし、そして少なくとも聖書よりは経済学の方が実際の富に至る手法としては現実に効果を持っていると考えてもおかしくはない。
そう、このエントリーの大きな問題の1つが、イデオロギーの位置づけなのだ。筆者の主張はイデオロギーが拮抗していると不和になり、1つのイデオロギーが優勢なら好感情の時代になる、というもの。つまりイデオロギーが不和をもたらす原因という認識を持っているように思える。だがそれは本当だろうか。イデオロギーが人々の行動に影響を及ぼす面があるのは否定しないが、一方で現実がイデオロギーを正当化したりその評価を貶める面もあるのではなかろうか。両者の関係は一方通行ではなく、相互の作用反作用で形作られるもの、と考える方がいいんじゃなかろうか。
個人的に最後の結論として引っ張り出しているキリスト教原理主義が支配する未来図というのは、いささか極端な予想だと思う。まずはそもそも聖書と経済学以外のイデオロギーについての専門用語分析が存在しないし、またこの2つのイデオロギーを比べてもその差が縮まっているとはいえ反動的イデオロギーが再び優勢になっているとは言えない。そして現実がイデオロギーに影響を与えると考えるなら、より現実に依拠する度合いの高そうな学術文献の世界における経済学専門用語の強さを見る限り、反動的イデオロギーが多くの人の支持をそう簡単に得られる保証はなさそうに思える。
そんな時に頼れるイデオロギーが一昔前に使われていたものになるのは、それほど変な傾向でもないんだろう。少なくとも、海のものとも山のものとも分からない新規のイデオロギーよりは、多くの人に受け入れられ易いはずだ。一見して聖書への回帰が進んでいるように見えるのは、宗教が麻薬だからではなく、資本主義イデオロギーの信頼度が低下した時に一番手近にあったイデオロギーが聖書だった、というだけの理由かもしれないのだ。
加えて上にも記した通り、宗教右派が一方で新自由主義的な資本主義を支持している面も無視できない。彼らがやろうとしているのは、もしかしたら過去に米国をまとめ上げていた複数のイデオロギーを弁証法的に止揚(
アウフヘーベン )すること、かもしれないのだ。要は宗教と資本主義のいいとこ取り狙いである。本当にいいとこだけ取れるかどうかの保証はないが、そういう理屈に共感する人もいるだろう。
それとも他の体制があり得るのだろうか。それを支えるイデオロギーが新たに生まれる(もしくは既に生まれつつある)可能性が存在するのだろうか。正直私には分からない。
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コメント
言及先のエントリ、資本主義イデオロギーの指標として経済学の専門書を使うというのは判るとして、なぜ"封建制イデオロギー"の指標を測るのに「聖書」が使われるのでしょう。"キリスト教イデオロギー"とか"宗教的イデオロギー"を測ると言うならなら、まぁ判らんでもないのですが……
研究方法としては大変面白いものだと思いますが、漫然とした用語の使用法が気になりますね。
キリスト教と封建制がイコールで結べるものだと著者が考えているなら、そこら辺にリベラルな米国人の偏見が見え隠れしてそうで、むしろそちらのほうが分析対象として面白そうです。
2022/08/09 URL 編集
該当記事の脚注1を見ると、例えば「旧約聖書はより部族的」であることは筆者も認めており、封建主義の代表として聖書は適切ではないとの指摘が出てくることは想定しているようです。
https://economicsfromthetopdown.com/2022/07/12/have-we-passed-peak-capitalism/#fn1
それに対する筆者の回答は「キリスト教イデオロギーが中世欧州の階級関係の基礎となっている」というものです。
そして具体的な一例として、騎士のシャルルマーニュに対する宣誓の中にキリスト教的な用語がいくつか入っている点を指摘しています。
あるいは米国のcorpusを使う場合、キリスト教くらいしか中世封建制につながりのあるカテゴリーが存在なかったのかもしれません。
何しろ米国は部族社会からいきなり近代初期欧州の植民地へと時代をすっ飛ばした地域であり、封建制を経験していません。
そういう歴史の国であえて封建主義イデオロギーを探そうとすると、宗教が一番手っ取り早かった、という可能性もありそうです。
もちろん詳しいことは筆者に聞いてみないと分かりませんし、聞いても納得できるだけの理屈が出てこない可能性もあるでしょう。
その辺りも含めて色々と考えるネタになりそうな記事だと思います。
2022/08/09 URL 編集