1794年夏秋・イタリア 16

 ここまでセント=ヘレナのナポレオンによる記述を皮切りに、彼のかかわった戦役の中でも最も知られていないであろう1794年のイタリア方面軍(及びアルプス方面軍の南半分)の戦役について記してきた。マイナー過ぎて日本語で読める詳しい記述はほとんどないことは最初に指摘した通り。そもそもこの戦役自体に興味を持って分析している人自体、ナポレオン戦争研究の全盛期であった19世紀末~20世紀初頭を除けば、極めて珍しい存在だろう。
 実際、興味を持ってもあまり意味がないと思えるほど、動きのない戦役であったことも確かだ。一応、フランス軍がこの年にアルプスの主稜線を手に入れたのは確かなのだが、欧州の地図で見れば山中の細かい動きでしかなく、戦争全体に及ぼした影響などほとんどない。同年に行なわれた北方軍の戦役(フルーリュスの戦いなど)の方がよほど大きなインパクトを及ぼした。実際、低地諸国でフランス軍が得た勝利により、この方面の英軍は大陸から追われ、オランダは翌年に降伏した。戦争を続けたピエモンテと比べれば違いは一目瞭然だ。
 一応動きがあったのはサオルジオ戦線の敷かれていたニース伯領で、前年は持ちこたえていたこの戦線から連合軍は撤収を強いられた。しかしそれより大きく動いたのは、本来中立領であったはずのジェノヴァ共和国。ピエモンテ領であったドルチェアクア侯領とオネーリャ公領を奪うためにフランス側が実施した中立侵犯は非常に効果的であり、サオルジオ戦線を崩壊させたのみならず、その後もフランス側が攻勢を続けるうえで大きな寄与をした。
 そしてこの中立侵犯作戦に参加したブオナパルテは、その後も同じ手を使うようになる。1796年戦役では中立であったはずのヴェネツィア領内でオーストリア軍とくり返し戦闘を行っていたし、1805年のウルム戦役では中立のアンスバッハを通ってオーストリア軍の背後に回り込んだ。彼が中立を気にかけていたように見えるのは1813年春季戦役のオーストリアくらいだが、それを含めても当時の「中立」なるものが、よほど巨大な国家でもない限りあまり尊重されないものだった様子が窺える。
 ちなみにジョミニの記したLife of Napoleonには、ちょくちょく英海軍が行った中立侵犯(中立国の船舶に対する攻撃的対応)への批判が出てくる(p358-359など)。1794年春のジェノヴァ領侵犯においても、先に侵犯したのは連合国側だとの主張をナポレオンは持ち出している。要するにどっちもどっちと言いたいようだが、それが彼自身の行為を正当化するわけでもあるまい。18世紀末から19世紀初頭の欧州国際社会は、基本的に力が最優先されるような状況にあったと見るべきだろう。

 一方でそのように抑制の効かない存在に思われる軍事力を効果的に抑え込んでいたのは、他ならぬ政治だ。クラウゼヴィッツの言う通り、「戦争は政治の延長」だったことが、この戦役を見るとよくわかる。何より象徴的なのはもちろん、テルミドール9日のクーデターによってブオナパルテが立案したイタリア方面軍・アルプス方面軍の連携作戦があっさりキャンセルされたこと。多くの関係者を巻き込んで準備を整えてきた作戦が、イタリア戦線から遠い場所で起きた政治闘争によって実行不能になったわけで、こういう「ベンチがアホやから」的な事態がいつの時代も存在していたことが分かる。
 それだけではない。連合軍側ではオーストリア軍の常に腰の引けた対応がまさに政治のもたらすものだったことをここまでも紹介してきた。戦後の取り分を巡る争いをにらみ、優勢なフランス軍を相手にしなければならないピエモンテ軍からの救援要請に対し、戦力を出し渋る。一方で英国との連携という自軍にとってプラスになりそうな動きについては、遠慮なく部隊を送り込んで中立領であるジェノヴァに侵攻する姿勢を見せるといった具合に、オーストリア側の軍事行動はまさに「政治の延長」だった。
 ブオナパルテ自身、非常に政治的な動きを見せていたことも注目すべきだろう。彼の作戦が大きく取り上げられるようになったのは、同郷の派遣議員であるサリセッティのおかげだったのは、おそらく間違いない(ロベスピエール弟はサリセッティほど彼を評価していたわけではないとの意見もある)。この時期の軍人たちは政治家とうまく協力するか、少なくとも露骨な対立は控えるようにしていた者が多く、その意味ではブオナパルテは特殊ではなく普通の軍人の1人だった。それに、後の第一執政ボナパルト、皇帝ナポレオンは、軍人であると同時に政治家としても活動していた。
 つまるところ戦争という暴力も政治の影の中から出ることはできないのだろう。ただしこの時期の政治は、よく言われる「政治とは妥協の産物」と言えるほど融通無碍なものではなかった印象がある。フランスの革命政権は対外的にも対内的にも敵に対して力で対処したし、続く総裁政府も対外侵略は継続した。軍人ナポレオンが率いた政権については言わずもがなだ。1794年のイタリアではまだそうした極端な動きは明白ではなかったが、尻尾であるはずの戦争が胴体である政治を振り回す時代が密かに近づきつつあったのがこの時期だろう。

 一方で、両軍の戦い方は引き続き「分散した縦隊による攻撃」と「コルドンによる防御」から一歩も進んでいない。もちろんイタリア戦線の戦場が持つ地形的な特徴が働いた面はある。山と谷が並んでいるこの地域では、まとめて大きな戦力を動かすような地理的余裕はないし、一方で峡谷にも稜線にも道があるため、様々な方向に備えなければ敵の攻撃に対して穴ができてしまう。隣接する味方部隊との連携も簡単には行かず、そうした様々な事情が18世紀的戦争が行われた一因かもしれない。
 とはいえここまで細かく部隊を分割するかと感心するのも事実だ。紹介した文章を読めば分かる通り、1つの部隊を複数の縦隊に分け、その1つ1つをさらに複数の縦隊に分けるといった取り組みが普通に行われている(1805年のヴァーティンゲンの戦いで行われたものと似たような感じ)。分割単位が細かいため、個別の部隊の人数が2桁にとどまるのも珍しくない。中隊規模以下というわけで、どのくらい実効性のある戦力だったのか疑いを抱くレベルだ。
 そこまで小分けにせざるを得なかったのは、兵力が足りなかったからだろう。この年の戦いでは常にピエモンテ側が数で劣勢だったことが指摘されている。そもそもピエモンテ軍は正規兵だけでは全然足りず、民兵や農民まで動員してコルドンを展開していた。本来ならもっと多い兵力を揃えなければならないはずであり、そのための同盟国だろうが、オーストリア側が非協力的だったために薄紙のようなコルドンしか形成できなかったのだと思われる。ここでも政治が軍事を規定していた。
 結果的にはこのコルドンでフランス軍の攻勢に耐えきったのだが、勝因がピエモンテ側にあったわけでないのは最後にKrebsとMorisも指摘している通り。テルミドール9日の政変がなかった場合、オーストリア側の支援不十分なピエモンテ軍がどこまで持ちこたえられたかは分からない。では、コルドン以外にもっといい作戦がピエモンテ側にあったのだろうか。
 この手の防御作戦でよく言われるのが「機動防御」という考えだ。最前線には監視にあたる少数の部隊のみを残し、主力は後方に予備として控える。そして敵の動きを見定め、出撃してきた敵を集団の力で叩き、各個撃破を図る。リヴォリの戦いでオーストリア軍が敵を囲むように動いたのに対し、内線の位置を占めたボナパルトが敵の各縦隊を個別に叩いたのがその一例だろう。1794年戦役に関するセント=ヘレナのナポレオンの証言を見ても、外周を囲うように展開したフランス軍が「右翼から左翼に進むのに20日必要だった」のに対し、内部にいるピエモンテ軍は「数日のうちに攻撃を企図する場所に戦力を集めることができる」と書かれている。
 ただしこの機動防御作戦、机上の論としてはともかく現実にどこまで実践できるかは微妙なところだ。1813年のフランス軍は内線の位置を占めていたにもかかわらず、外周から圧力をかけてきた連合軍を相手にじりじりと追い詰められてしまった。1814年も個別の戦いでは確かに各個撃破に成功した場面もあったが、最終的にはパリを落とされナポレオンは退位している。兵力で劣る1794年のピエモンテ軍が、1813年や14年のフランス軍と同じ事態に追い詰められないという保証はない。
 実際、サルディニア国王が戦役中に一度、最前線に散らばっていた兵を平野部に集めようとした場面があった。部下の将軍たちの反対もあって実行はしなかったが、もし実行していればフランス軍が勝利していたのではないかと、KrebsとMorisも指摘している。少なくとも研究者の一部は、ピエモンテ軍による機動防御実践の能力を疑っていたわけで、単にコルドンが間違い、機動防御が正解、というほど簡単な話ではないのだろう。
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