ほぼ同時に残るフランス軍前衛部隊はロケッタから出撃してフラッソーネの丘を見下ろす高地に達し、また散兵がボルミダの河床を通って身を隠しながら道路上の大砲2門に接近してこれを奪った。だが側面から槍騎兵の突撃を受けた彼らは大砲の放棄を余儀なくされ、オーストリア軍はそれらをコスタルパラ高地の麓へと引き上げた。フランス軍の竜騎兵の接近によってオーストリア騎兵も後退したが、フランス側は峡谷に足止めされて交戦できなかった。
敵を容易に後退させられたのは後衛部隊しかいなかったからであり、コロレード師団が再び逃げるのではないかと恐れたデュメルビオンは、まだ砲兵が加わっていないにもかかわらず残りの兵とともに前進し、午後4時半に全面攻撃をかけた。右翼ではセルヴォニ将軍が6個大隊とともに山中のコリナ=デル=デゴへ向けて進み、ボルミダとヴァラ峡谷を隔てる山脈を通ってデゴとスピーニョの間までたどり着こうと試みた。だが夜のため彼らはブリック=デル=セル(デゴとコリナ=デル=デゴの間)に到着する前に停止を余儀なくされた。
中央ではマセナが戦力の大半とともにフラッソーネの足場から出撃した。一部はチャッペイロリ台地(コスタルパラ南)までたどり着こうと試みたが無駄であり、別の者はボルミダ河床を経由してデゴまで到着したが、そこに後退していたクロアチア大隊の手で撃退された。主力は道路に沿って進んだが、オーストリア砲兵による散弾の集中砲撃を受け、出発地点までの後退を余儀なくされた。
フランス軍によるボルミダ右岸での攻撃は失敗したが、オーストリア軍による同左岸での反撃も同じように成功しなかった。アルヴィンツィ連隊の1個大隊がボルミダ峡谷を遡った1個縦隊の助けを得ていったんはブリック=ボッタを奪回し、フランス軍をブリック=ヴァデルノまで押し戻した。だがさらにそこから彼らを排除することはできず、ヴァ=ディ=ペスキが率いた増援によるモン=ブリへの攻撃も足場を得ることができず、彼らはカルペッツォ(ボルミダ支流)左岸へ撃退された。射撃は日没後半時間後にやみ、両軍は接触したまま現在地にとどまっていた。共和国軍は9月22日朝にカイロへ到着する砲兵とともに翌日攻撃を再開する準備をしていた。
双方の損害は多かれ少なかれほぼ等しく、またオーストリア軍が陣地を守り切ったにもかかわらず、ヴァリス将軍は攻撃再開が望ましいとは考えなかった。彼らは夜の間にスピーニョへと後退し、さらに物資と負傷者すら置き去りにしてアクイまで行軍した。最初に出発したのは騎兵で、次が砲兵、最後が歩兵だった。南東の山中ブリック=デル=セルのクロアチア大隊は、既にデゴに到着していたフランス軍の銃2つ分の射程内にあるジリニ(デゴ北東)を最後に通って後退した。フランス軍は彼らの通過を邪魔しなかった。カメラナ侯の民兵はエロ河畔のミオーリャ(スピーニョ南東)に兵を集め、ポンツォーネ(アクイ=テルメ南方の稜線上にある村)で夜を過ごし、翌日アクイで他の部隊と合流した。
デゴを占拠したフランス軍は9月22日と23日をそこで過ごし、オーストリア軍が残した食糧を消費するとともに偵察隊を遠方まで送り出した。21日、フェルディナント大公はモロッツォのヴィンクハイム師団をアレッサンドリアへと呼び戻した。さらに共和国軍のジェノヴァへの行軍を恐れた彼は、モンドヴィに出発していた2個大隊を呼び戻すよう求め、彼らはピエモンテ兵の交代を待って引き返してきた。
派遣議員が立案し、公安委員会によって後に承認された計画実行を追い求めたデュメルビオン将軍は、9月24日正午に部隊を2つの縦隊で動かし、ジェノヴァ河へと戻った。1つ目は同日夕にモンテノッテ=スペリオーレに到着し、翌日にはサヴォナで野営した。彼らはそれからヴァドの高地へ向かってそこに布陣した。2つ目はカルカレに移動してそこで2つに分かれた。1つはマラレへと移動し、サン=ジャコモ峠、ピノ峠、マドンナ=デラ=ネヴェ、メローニョを占拠した。砲兵と幕僚を含む残りの兵はアルタレ、カディボナへと移動し、サヴォナへ下ってフィナーレへと向かった。モンテツェモロ付近に残っていた分遣隊はムリアルド北西のサン=ジョヴァンニ峠で合流し、そこに数日とどまった後で稜線に沿ってバレストリーノ(ロアーノ西方)まで後退。サン=ベルナルド峠やタナロ河畔の新たな拠点と連結した。
この遠征は1794年戦役の終わりを告げるものだった。共和国軍の優勢にもかかわらず、ピエモンテ側の自然国境が基本的に損害を受けなかったという点で、不毛な遠征だったとKrebsとMorisは指摘している(p206)。サルディニア王にとって幸運だったこの結末は、彼の軍による受動的な勇気や同盟国の遅すぎる支援によるものではなく、テルミドール9日という政治情勢がもたらしたタイミングのいいフランス軍の作戦中断のおかげだった。
一方1794年の戦いは、この年を通じアルプスの各所で行われた様々な小競り合いの1つにすぎない。確かにイタリア方面軍が進撃した場所としてはおそらくこの年でも最も遠いところで行われた戦いだろうが、結局のところこの戦闘によってサルディニア王国が戦争から脱落したわけでも、フランス軍がポー河の平原へとなだれ込んだわけでもない。戦いの数日後、フランス軍は地中海沿岸部へと引き上げ、以後この年は大きな交戦がないまま終わる。
異なる結末に至った根本的な理由は、そもそも作戦を実施した背景の違いにあるのだろう。1794年の派遣議員たちは南仏への食糧補給を確保するために、連合軍がリヴィエラ海岸に強力な兵力を送り込むのを防ごうとしていた。
春のオネーリャに対する攻撃も根っこには兵站問題があった が、秋の遠征も基本は同じ。オーストリア軍のコロレード師団による沿岸部への進軍を頓挫させることができれば、それで大きな目標は達成できたわけで、デュメルビオンがデゴの勝利後にさっさと撤収できたのもそれが理由だろう。
もちろん、両者の違いにはそれぞれの司令官(デュメルビオンとボナパルト)の資質の差もあっただろう。ただしそれだけが理由だと考えるのはさすがに無理がある。後にセント=ヘレナのナポレオンが記した通り、デュメルビオンは
「イタリアへ入る命令を受けていなかったし、その意思もなかった」 。前に
オスコットの戦い でも指摘した通り、派遣議員が多大な権力を握っていたこの時期に、司令官の個人的な意図だけでピエモンテの平野へ進出するのは無理だったろう。
むしろ興味深いのはオーストリア軍の対応かもしれない。1794年の戦いでボルミダ両岸に兵力を配置した彼らは、1796年には主に右岸の山岳部に兵を展開し、より守りを固めて戦った。比較的地形が険しくないボルミダ左岸や、右岸のフラッソーネの丘といったところが、割と簡単にフランス軍の攻撃で奪われたことを踏まえての対応、だとも考えられそうだ。結果的にはどちらも敗北という、あまり違いのない結果に終わってはいるが。
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