その師団主力は午前2時にバルディネットを出発し、前衛部隊、主力、予備、砲兵輸送隊、食糧装備と第9竜騎兵の順番でカリッツァーノへと前進した。彼らの左翼はサン=ベルナルド峠を出発し、スピナルド山とゾッタ山へと進み、タナロ峡谷に偵察隊を押し出していた2個大隊によってカバーされていた。カラーニャでは砲兵車両と護衛部隊が左に転じ、車両が通れるジオヴェッティ峠に向かって、そこからボルミダ河とタナロ河の間にある稜線に沿って移動を続け、塹壕を掘った民兵が占拠しているサン=ジョヴァンニ峠まで到達した。この民兵はすぐミレシモに追い払われ、そこで朝のうちにカイロから派出された増援と合流した。
堡塁に哨兵を残したラアルプは、カステルヌオヴォ=ディ=チェヴァを経てモンテツェモロへと行軍を続け、夜になってそこに到着した。バニャスコとプリエロ(モンテツェモロの西)から脅かされたダルジャントーは実働兵を全てチェヴァに呼び寄せ、防御陣地の防衛を組織した。この間、主力と予備、輸送隊は、両側面をカバーされながらラバの通る道に沿ってボルミダを下り、ムリアルド、ボルダへと進み、そこでさらに部隊を分けた。アメルが指揮する主力は、幕僚とともに東に転じ、ビエストロの高地(パラレ西方)に到着してそこに布陣した。マセナ指揮下の残りはミレシモへと進んだが、その先頭は真夜中にアクアフレッダで停止を余儀なくされた。輸送隊は遥か後方におり、最後尾の第9竜騎兵にいたってはまだカリッツァーノを超えてすらいなかった。
翌9月20日は濃い霧がフランス軍主力の野営地を覆っていた。カルカレ盆地にいるオーストリア軍の配置は霧に隠れ、城壁に囲まれたこの村には前夜のうちにボルミダとパラレから後退してきたクロアチア兵、及びビエストロ高地にいた民兵が集まっていた。他の縦隊についての知らせが来る前に移動するのは危険であり、アメルは午前9時頃にカルカレとアンタ峡谷右岸に散兵を押し出した。
左翼ではラアルプが、チェヴァのダルジャントーを威圧するべく哨戒線をカステルヌオヴォの左、モンテツェモロ、ムラッツォ(ムラッツァーノか)方面に集め、ブリック=サン=ベルナルディーノに後衛部隊を置いたうえで、ミレシモに進んで正午にそこに到着した。クーン伯は民兵を支援し、コッセリアの麓にある道路沿いに展開している大隊の右をカバーするためこの町に1個中隊を派出していたが、コッセリアの廃城には哨兵しか送っていなかった。ラアルプは2個縦隊を組み、1つはミレシモ下流500メートルのところにある修道院付近でボルミダを渡り、廃城がある丘の斜面を登った。他の縦隊は橋を通って町に突入し、敵を排除すると彼らをカルカレ街道まで追撃した。右側面と背後を脅かされたクーンはカルカレ盆地への峠まで移動し、そこで踏みとどまろうとした。
この後、KrebsとMorisは、アクアフレッダから出撃してきたマセナが、サン=セバスティアーノ教会(ミレシモ上流300メートル)を経て戦闘に加わり、コッセリア廃城の左斜面と向かい合う高地(ブリック=ボスケイアの東にある尾根か)を占拠したと書いている。4倍以上の敵に包囲されそうになったアントワーヌ大公連隊の1個大隊は、数発撃った後でコッセリアの集落を経て後退し、増援に支援されながらタポル(場所不明)の西にある丘で方陣を組んでオーストリア軍戦線の右翼をカバーしたと書いている。
しかし彼らは脚注で、このマセナの部隊による介入について疑義を呈している(p199n1)。ラアルプの部隊が彼らとの合流を果たしたのはこの日の午後7時であり、つまり戦闘後である。またイタリア方面軍右翼師団の移動表によれば、コッセリアの廃城を落としたのはモンテツェモロから来た縦隊(つまりラアルプの部隊)となっている。どちらが正解なのかは不明だが、兵力で劣るこの大隊が大した抵抗なしにコッセリアを放棄したのは確かだろう。
右翼ではセルヴォニ将軍が両ボルミダ河を通って攻勢を続けていた。マラレ河の方では、前日にアルタレとモンテフレドから来てポンテ=デラ=ヴォルタ(アルタレとカルカレ間にある橋、ヴィスパ村東)の高地を占拠していたクロアチア大隊と民兵の正面に部隊が展開。残りはパラレ河をパラレまで下ってアメルの旅団と合流した。時刻は午後3時であり、デュメルビオンはマセナ(?)の成功を利用しオーストリア軍の退路を断つべく、右翼から左翼までの全体的な移動を指示した。
セルヴォニはパラレからビエストロへ戦線を延ばし、アメルは後者を去り、栗の森を抜けてプロディオ(カルカレ南西)に向かった。マセナはコッセリアに予備を残し、ラアルプをブリック=デル=モンテ(コッセリアの北、ブリック=デイ=クロヴィの西)とブリック=ディ=パッタリア(ブリック=デル=モンテの北か)に差し向けた。この方面ではピエモンテ軍のカメラナ侯が民兵の大半を再編中であり、彼の助言を受けたコロレードはサンタ=マルゲリータとマドンナ=デレ=グラツィエ(どちらも正確な場所は不明だが、ラアルプの進路を妨げるような場所だろう)にそれぞれ1個大隊を派出し、大砲2門を右翼に送ってコッセリアから来る道の出口を守ろうとした。幸運にも夜の到来でこれら2拠点の射程内まで迫っていたフランス軍の動きは止まった。
この機を利用してコロレードはデゴへの退却を、秩序をもって実行した。まず砲兵が移動し、それに歩兵が続いた。槍騎兵2個大隊が後衛部隊として彼らをカバーし、ロケッタ=カイロに哨戒線を配置した。旧カイロ宿営地(場所不明)にいた民兵は散り散りとなり、最後にポンテ=デラ=ヴォルタとカルカレから退却してきたクロアチア2個大隊は、300人の分遣隊を3ヶ所に派出した。1つはブロヴィダ(デゴ北西、ノチェットのすぐ東か)南方のタナロ(ボルミダの支流か)左斜面に、1つは右斜面の高地に(ブリック=ヴァルクロサのある稜線上か)、そして最後はロケッタの上に配置されたという。
9月21日早朝、フランス軍の偵察隊はカルカレの町に入り、幕僚と、ビエストロ及びポンテ=デラ=ヴォルタから来た各大隊はゆっくりとそこを通り過ぎた。これら5000人から6000人の部隊は午前10時頃からカイロ平野に集まり始め、前日の戦闘の間ミレシモ近くにとどまっていた砲兵の到着を待った。彼らはマセナがコッセリアとブリック=デル=モンテからピエモンテ民兵の正面に向けて送り込んだ部隊にカバーされており、民兵はコリナ=デル=デゴ(デゴ南東の山中、モンテノッテ西方か)へ後退した。
正午頃、フランス軍の前衛部隊の先頭はロケッタに到着し、敵はそこを撤収した。だがオーストリア軍のコロレードは、重砲兵がスピーニョにたどり着く時間を稼ぎ、物資倉庫などを守るためデゴを保持する決断をしていた。朝のうちに彼と合流したヴァリス将軍もその配置を承認した。兵たちは2列に布陣し、右翼は300人の分遣隊ブロヴィダの農民に、左翼はブリック=デル=セル(ロケッタ東方)に来たクロアチア1個大隊とモンテノッテの給料に散らばる民兵にカバーされていた。背後には1個大隊がピアノとマドンナ=デラ=ピエヴェに散らばり、その上には大砲が2門設置されボルミオラ峡谷を縦射できるようになっていた。
主戦線は6個大隊で構成されていた。4個大隊は左岸のスペルヴィア台地に配置され、右翼はブリック=ボッタ(カシーナ=ラ=ボッタ)まで延伸しており、正面はボルミダの急峻な川岸に沿って8~9門の大砲が展開していた。右岸では2個大隊がカステロとコスタルパラの高地を占拠し、4門か7門の大砲がブエレン峡谷の斜面を叩くとともに、前述の大砲と合わせてロケッタまでの平野に十字砲火を浴びせられるようになっていた。この平野はフラッソーネの丘(南東から北西へ延びる稜線)によって大きく2つに分断されており、クロアチア大隊と丘を通る道路上に配置された大砲2門に守られていた。丘の背後には槍騎兵が隠れていた。この防衛線をさらに強めるべく、ボルミダ左岸のモン=ブリにアントワーヌ大公連隊の1個大隊が、またブリック=ヴァデルノに30人の猟兵が送られていた。
残念ながらデゴ周辺の細かい地名については分からない部分が多い。Boycott-Brownの
The Road to Rivoli や、あるいは
こちらのサイト には1796年のデゴの戦いについて細かい地名を記した地図が載っているのだが、1794年の戦いは微妙に異なる場所で戦闘していたため、これらの地図は実際にはほとんど使えない状態だ。
ただ大雑把に言えば主戦線はボルミダ=ディ=スピーニョの両岸に、その前方にある第1線は主に右岸に(一部左岸にも)戦力を配置し、背後にあたるピアノ付近はほぼ右岸にのみ部隊がいたと思われる。1796年には防御を重視し、山地のある右岸に絞り込んで部隊を配置していたオーストリア軍だが、1794年時点では左岸も含め敵の前進を妨げることを目的に展開していたように見える。
スポンサーサイト
コメント