アルプス方面軍による一連の牽制含みの攻撃に対し、ストゥラ方面のピエモンテ軍も逆襲した。KrebsとMorisの
Campagnes dans les Alpes pendant la révolution, 1794, 1795, 1796 によると、100人の増援がデモンテ総督からクリスト将軍のところに送られ、ストゥラ上流を今にも放棄するのではないかと言われていたフランス軍の追撃にあたった(p186)。同じ目的でアヴォグラード大佐は110人の兵とともにキアルドレッタ峠(サンブコ東)にやって来たが、偵察によってすぐ正確な状況を知った彼は防御を固め、見張りを増やした。しかし激しい雨もあって任務に就いていない兵たちは13日から14日にかけての夜間、みな小屋に逃げ込んでいた。
一方、ポンテベルナルドに集まっていた100人の擲弾兵を含むフランス兵1500人は4つの縦隊で行軍を始めていた。左翼はサンブコ上方にある堡塁を午前4時に奇襲し、予備に支援された中央は数発撃っただけで村に入った。民兵はクチェットとピアノル(それぞれサンブコとキアルドレッタの間にあるサンタナの下にある建物で、ピエモンテ軍の防衛拠点となっていた)まで追撃され、彼らはそことキアルドレッタの小屋を放棄して退却を続けた。何人かはマドンナ峡谷(サンブコを流れるストゥラ支流)を遡ってムロ峠まで逃げたが、大半はチャルドラ=グランデ(キアルドレッタ南方を流れるチャルドラ峡谷か)へと向かった。
だがこの地点は、ストゥラ右岸の森を抜けて河を渡渉した共和国の右翼が占拠したばかりだった。それでも霧に紛れたピエモンテの正規兵、民兵、農民は、チャルドラ=グランデとキアルドレッタから射撃を受けながらネライサ峠までは到達した。フランス軍は翌日、牛800頭と4人の士官を含む捕虜130人を連れて引き上げた。ただしキアルドレッタで手に入れた略奪品は、前日にムロ峠からネライサ峠に送られていたベルモント猟兵の偵察隊によって破棄を強いられていた。
イタリア方面軍のガルニエ師団も、同じくニースに兵を送っていたため激しい攻撃を行なえないほど弱体化していた。それでも同じ9月14日、サンタナ峠とサン=ベルノルフォ峠の守備兵は午前4時にヴィナディオとピアンケへ前進した。だが嵐のためにストゥラの水かさがあまりにも増していたので、渡渉できなかった彼らは短時間の交戦の後、数人の捕虜を民兵の手に残して後退した。
これらの陽動とは別にさらに敵を引き付けるため、8月末に騎兵と野戦砲兵が再びテンダへと差し向けられ、派遣議員アルビットもそちらに向かった。第102半旅団第3大隊のみがクトゥール宿営地(ベルトラン山の西)にとどまり、他の2個大隊はヴェスコヴォ山やリオフレドの張り出し部に布陣し、前哨線をジアス=ディ=マルベルガ(場所不明)まで押し出していた。9月8日午前8時、同半旅団の強力な分遣隊がカルボネ峠を攻撃したが、すぐに助けが来て激しい戦闘の末に共和国軍は撃退された。16日から17日の夜間にピエモンテ軍はアルメリナの守備兵を捕らえ、さらにその次の夜にはリオフレド張り出し部から送り出されていた分遣隊を捕虜とすることで報復した。
だがフランス軍が望んでいた効果は出た。ニース伯領にいるスパイ、民兵、農民からイタリア方面軍の戦力や動きについて十分な情報を得ていたにもかかわらず、一方ではヴァライタ、マイラ、ストゥラ峡谷からデモンテに対する攻勢についての計画をフランスの捕虜から知らされ、他方ではチェヴァへの行軍に向けたジェノヴァ河での戦力集結を把握していたサルディニア王とコッリ将軍は、困惑した状態に置かれていた。オーストリア師団はなおモロッツォにとどまったままで、タナロ左岸の示威行動に脅かされていたダルジャントーへの支援も余儀なくされていた。
オルメアに送り出されたジャンティリ将軍はマセナの命令に従い、18日にヴィオツェーネのピジョン将軍とテルミニ峠のヴェルヌ大佐を出撃させた。翌日、ピジョンはピアストラ山(エレロ峡谷とペジオ峡谷の間)とメルダンツォーネ(コルサーリャ支流のロッチア=ビアンカ源流域)の間に存在するセイラソ峠(エレロ上流のピアン=マルキジオ東方)に布陣し、20日にはメルダンツォーネに移動して守備兵を追い払い、24人を捕虜にしたうえで夕方には最初の陣地まで戻った。他の部隊も同様に引き返した。一方、リモーネのルブリュン将軍は、暴露していたその場所を放棄し、9月21日にはテンダ峠に準備された小屋へと戻った。同日には既にフランス軍がデゴでオーストリア軍と最初の交戦をしており、もはや陽動は無意味になっていた。
イタリア方面軍左翼と中央から引き抜かれた大隊が、次第にオネーリャ、アルベンガ、ロアーノに到着し、遠征を行なうマセナ師団の兵と合流した。食糧、弾薬、大砲は海路で同じ地点へと運ばれた。9月5日にはサリセッティが、さらに数日後にはデュメルビオンが派遣議員アルビットとプロストを連れてロアーノに到着した。そこで彼らはオーストリア軍の配置と計画に関する正確な情報を受け取った。
5月14日以来、トルトナとカイロ=モンテノッテの間をふらついていたコロレード師団は、ようやく9月頭になって後者の地点に集結していた。7個大隊が大規模な砲兵装備とともにボルミダ右岸に宿営し、左岸の村南方には槍騎兵2個大隊がいて、カルカレ街道上のサン=ドナト教会(ボルミダ支流のクミ右岸にある、おそらくノストラ=シニョラ=デレ=グラツィエ聖所)に哨戒線を敷いていた。前哨線として2個クロアチア大隊が配置されており、1つは南東のアルタレ周辺にある高地にいて、ボルミダ=ディ=マラレ上流のマラレに2個中隊を派遣し、さらに源流域のサン=ジャコモ峠と、その北西のピノ峠に拠点を置いていた。もう1個大隊は支援のためカルカレにおり、彼らは右翼をカバーするためボルミダ=ディ=パラレ上流のパラレとボルミダに1個中隊ずつを配置していた。
このシンプルな配置によりフェルディナント大公は、冬が来て冬営を強いられるまで共和国軍があらゆる動きをするのを抑制し、自らのサヴォナへの計画を実行できると鼓舞していた。同じ認識だったヴァリス将軍も、フランス軍がジェノヴァ河の戦力を増強しているという数多くの指摘を信用しなかった。彼はモロッツォにいるオーストリア師団を自分たちに近づけることも、あるいはピエモンテ軍左翼のダルジャントーと連携することも考えなかった。彼らより警戒していたダルジャントーはようやく9月19日になってモロッツォの師団から2個大隊をモンドヴィに送る合意を取り付け、同日自身はチェヴァに向かった。だがこの時点で共和国軍が巧妙に利用しようとした状況を変える時間も手段も彼には残されていなかった。
デュメルビオンは敵と比べてとても大きな戦力を持っていたわけではないが、それでもオーストリア軍を包囲しようとしていた。そのため彼はフィナーレ=リグレからマラレとパラレに弱体な部隊を出撃させてこの方面に敵の注意を引き付け、さらにもし退却が必要ならロアーノまで退いて敵を誘引する一方、フランス軍主力はあたかもチェヴァを脅かすようにミレシモに焦点を当て、それからオーストリア軍の唯一の退路であるカイロとカルカレへ転じることになっていた。
この機動は1796年にボナパルト将軍が行ったものと比べ、類似している点と異なる点がある。場所がほぼ同じであることと、連合軍の中央に楔を打ち込んで彼らを分断しようとしている点は同じだ。一方、分断後の作戦だが、1796年のボナパルトは右翼のピエモンテ軍を叩いて平野に突入したのに対し、1794年のデュメルビオンは左翼のオーストリア軍を取り囲み海岸へ追い詰めようとしていた。どちらもナポレオンの作戦ではよく見られるものだが、向かう方角が違っているあたりは面白い。
9月15日から動き出したオネーリャ、アラッシオ、アルベンガにいた部隊は17日、ロアーノ北東のバルディネットに布陣する1100人と、フィナーレにも守備兵を配置しているロアーノの2000人の分遣隊に守られながら、アルベンガ北方のチェリアーレに集まった。フィナーレの兵は翌日、セルヴォニに率いられてゴラ(フィナーレ北西)とカリチェ=リグレに進み、メローニョ、マドンナ=デラ=ネヴェ、カルブタ、オルコ=フェリーニョまで前哨線を押し出した。彼らはフェリエラ=ディザロ(メローニョ南方の村か)を通りセッテパーニ山の南斜面を経由して、同日に師団の残りが移動したバルディネットへと連絡を取っていた。バルディネットには派遣議員たち、デュメルビオン、そして幕僚たちもいた。
19日早朝にセルヴォニの行軍を知らされたコロレードは、正午にカイロからカルカレ北方へと移動し、ボルミダに端を置いて師団を展開した。アルヴィンツィ連隊の2個大隊は(ボルミダ=ディ=パラレ)右岸にいて左翼をブラーニョに拠り、正面はプラセコの小川でカバーされていた。左岸のアンタ川とコッセリア河の間にある高地(カステロ=クアソロのある場所か)には5個大隊と大砲10門がとどまった。騎兵はクアソロの平野部(高地と河の間か)に、道路を横切って並べられた。クーン伯が指揮するアントワーヌ大公連隊の1個大隊は、戦線の右翼をカバーし、またチェヴァの防御陣地が脅かされた時にダルジャントーに約束したようにモンテツェモロを占領できるよう、ミレシモに送られた。利己的なオーストリア外交の自然な結果であるこの臆病で中途半端な機動は、同じ9月19日の共和国軍による素早く大胆な移動によってすぐに脅かされた、とKrebsとMorisは記している。
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