1794年夏秋・イタリア 12

 イタリア方面軍右翼のマセナ師団も、他のフランス軍同様に後退した。KrebsとMorisのCampagnes dans les Alpes pendant la révolution, 1794, 1795, 1796によると、ペジオ峡谷、モンドヴィの砦、チェヴァの陣地を脅かすために維持しなければならない拠点は多すぎ、またニースに2個大隊が呼び戻され、かつ地中海沿岸で他の戦力も必要とされそうな状況下で、その対応を維持するのは無理があった(p177)。マッカール師団の攻勢を支援するためコレ=セレ=ヴェッキエに集められていたピジョン将軍の部隊は、8月17日と18日に行われた退却を支援することになった。
 フランソワ将軍はコルサーリャ右岸を放棄し、兵力をテルミニ峠及びインフェルノ峠(場所は不明だがヴァルディンフェルノ付近か)に集めた。ラアルプはタナロ左岸のヴィオラ高地、右岸のゾッタ山から、左岸はプラト=ロトンド峠まで、右岸はサン=ベルナルド峠まで後退した。共和国軍が自分よりかなり多いと正確に知らされていたダルジャントーは、8月15日の攻撃を支援するため敵を邪魔するようにとのコッリの要請にも関わらず、フランス軍の行動にちょっかいを出さない方が望ましいと考えていた。
 だがマセナは、オーストリア軍が接近しているというジェノヴァからの情報に騙され、21日から22日にかけての夜間にガレッシオとトラッパより下流の山地を放棄。戦線を縮小し、右翼のバレストリーノとロアーノを強化しようとした。セルヴォニ将軍がそれらの地域に集められた7個大隊を指揮し、疲労したラアルプは同じく7個大隊で占拠しているオネーリャに後退した。アメル将軍はサン=ベルナルドで4個大隊を指揮し、フランソワはイゾラ=ペローザで同じく4個大隊を指揮して、それをトラッパ、インフェルノ峠、オルメアなどに分散させた。タナロ上流のヴィオツェーネ、カルニノと、テルミニ峠、ポンテ=ディ=ナヴァを担当したピジョンは、この地を6個大隊で守っていた。マセナは司令部をアルベンガに移動し、近くの3個旅団を自分の直接指揮下に置いていた。
 以上が8月末時点でのイタリア方面軍右翼師団の状況だった。英=スペイン艦隊がゴルフ=ジュアンのフランス戦隊を封鎖し、プロヴァンス、ニース伯領、リヴィエラ=ディ=ポネンテ(リグリア西部)を脅かし、一方で6月末から7月頭におけるオーストリア将軍のヴィルンズとコロレードがジェノヴァにいたことは、帝国政府と腰の定まらないジェノヴァ共和国の間で何らかの合意がなされたことを示していた。この時期にはアルプス方面軍とイタリア方面軍の共同作戦の準備が進行中だったが、ブオナパルテ将軍はジェノヴァ調査のためこの国に送り込まれ、彼はそこでサヴォナとヴァドの要塞が持つ重要性に気づいていた。2年後にはこの地を始点にボナパルトの遠征がスタートする。
 話を8月末に戻そう。公安委員会の命令は事態を悪い方に変えた。オーストリア軍が英国艦船と連絡を取れるようにするべく、今にもボルミダ峡谷を経て地中海沿岸へ出撃するとの注意喚起が行われた。ジェノヴァ政府の持つ戦力はこれらの動きを邪魔できる状況にはなく、一方この作戦が成功すればカボタージュを使ってジェノヴァとリヴォルノから運んでいるフランスへの補給が深刻な危機に晒される。年初の時点と同様、イタリア方面軍のみならず南方諸県にとっても食糧確保は極めて重要であり、防勢にとどまるのが望ましいとしても、海岸に手を延ばそうとしている敵に向き直る必要性が強く存在していた。
 アルビットとサリセッティが8月24日、公安委員会に対して遠征の許可を求めたのは、そうした背景があったためだ。彼らは自らの責任で、アルビットと一時的に交代するプロストが到着した2日後には、遠征の指示を出していた。同時に敵を騙すべく、アルプス方面軍司令官に対してはカステルデルフィノとデモンテ方面への攻撃を実行するよう求めてもいた。

 アルプス方面軍はストゥラへの部隊派出や、ライン方面軍に増援を送った後も相次いで部隊を引き抜かれたことなどが影響し、弱体化していた。そのため冬になると維持できないアルプス山脈のイタリア側にある一部地域については放棄する必要があった。一方で、一部地域では再び攻撃に出るべくプティ=ギヨーム将軍が計画を提案し、ラポルトの交代として送られてきた派遣議員カッサンエはそれを承認した。ヴォーボワ旅団はオート=ロワール第2大隊の増援を受けることになり、彼らはピュイ=アン=プラジェラ(キゾーネ河畔のプラジェラト)からウバイ峡谷のメロンヌに移動した。
 またそれ以前にグーヴィオン将軍に向けて送られていた500人の増援もヴォーボワは受けた。一方グーヴィオンはミラブク砦を破壊した後でルゼルナ峡谷を放棄。リストラ峡谷のベルジェリー宿営地(ベルジェリー=デ=ピエール=エクリテか)、アニェル峠、サン=ヴェラン峠に戦力を集めた。アルプス方面軍はガルニエ将軍との合意に基づき、9月14日朝5時、悪天候にもかかわらずストゥラ、マイラ、ヴァライタ峡谷での攻撃を実行した。
 ヴァライタ支流のキアナーレ川沿いにはカステロやルヴェの森(場所不明)といった強力な防御拠点があり、ピエモンテ軍のプロヴェラ将軍はさらにその前方(上流側)のキアナーレに1200人の前衛部隊を配置していた。彼らは3つの小さな塹壕付き宿営地に分散しており、右翼はリアストルあるいはパテヌン(トレ=キオシス山から西に延びる稜線の麓近くか)に、中央はサン=ヴェラン峡谷とアニェル峡谷の間に延びる稜線上にあるコスティスに、左翼はトレッテの小屋(同名の池の近くか)にいた。さらに国境沿いの前哨線がヴァランテ峠とスストラス峠(キアナーレ北東)、ブランケット峠とロンジェット峠(西方)、トゥール=レアル(トレッテ西)に敷かれた。
 敵の配置を偵察によって把握したプティ=ギヨーム将軍は兵を3つに分けて敵前衛部隊を包囲しようと考えた。参謀副官ヴォーが指揮する左翼部隊1500人はベルジェリーを発してスストラス峠とヴァランテ峠を嵐の中で攻撃。奇襲を受けたこれらの哨戒線は壊滅し、500人が退路確保のためそこに残された。ただ悪天候は案内人も道に迷わせ、本当ならヴァランテ峡谷からコンチェ山を経由してキアナーレ下流のジェンツァナに向かうはずだった彼らはトレ=キオシス山からパテヌンあるいはコスタ=キアベルトの稜線を下り、中央と同じタイミングで攻撃を仕掛けた。
 900人の兵で構成された中央部隊はプティ=ギヨームが指揮しており、派遣議員もいた。彼らはアニェルの2つの峠から3つの縦隊で侵入してきた。2つはリアストル宿営地の正面と左翼を攻撃し、3つ目はコスティスの守備兵を排除した。そして右翼の一部と合流してキアナーレ村に突入した。霧で隠れていたペートル大佐が指揮する騎士ドーヴァレの猟兵4個中隊とカザーレ連隊の1個大隊は、最初の銃撃とともにパテヌンと谷底の間にある斜面で攻撃を行ったが、2方面から挟まれたピエモンテ軍は辛うじてヴォルペの小屋(場所不明)を経てジェンツァナにたどり着いたが、捕虜100人を失った。
 同時にグーヴィオンが指揮する右翼部隊1400人もまた3個縦隊で前進した。うち左翼と中央はサン=ヴェラン峠を経て、前者は哨戒線を押し戻しながらキアナーレへ真っすぐ行軍した。後者は別の拠点を奪い、ヴァライタ右岸でトレッテに布陣していたマルティン伯の猟兵と交戦。モーランからロンジェット峠を経てやってきた右翼縦隊はトゥール=レアルを経て彼らを迂回し退路を断った。作戦が終了した後、共和国軍は手に入れられるもの全てを持って最初の陣地に戻り、キアナーレにはグーヴィオンが指揮する1200人のみが残った。午後4時にはジェンツァナにいたピエモンテ軍予備が彼らを攻撃したが、彼らは精力的に抵抗し、翌日午前11時まで後退しなかった。
 マイラ上流では2つの部隊が侵入した。1つはモーランを発し、モーラン峠を越えてリニェーレの哨戒線を追い払い、ピエモンテ軍をブーヴェルト峠(場所不明だがアルブラジェ山南方のヴァル=フィッセラ峠の南方にある峠か、後に出てくるサン=マウリツィオの北)に後退させた。ヴォーボワ率いるもう1つの部隊はバッテリー=ド=マルモールからサウトロン峠とデレ=ムニエ峠を越え、午前11時には弱体なザレットの守備隊を押し戻し、彼らは既にフランス軍に占領されていたポンテマイラの北側を霧に紛れて抜け出し、サン=マウリツィオ(ポンテマイラ北東)へ退却した。フランス軍の偵察隊はアチェーリョ村まで押し出したが、ピエモンテ軍の増援が来たところで後退した。午後4時、北側のヴェルス峠と南方のチャルボネット山に送られた分遣隊に側面を脅かされた共和国軍は、多くの牛を奪って後退した。
 もう1つの部隊がストゥラ峡谷から北方へと出撃してきた。彼らはデラ=マルタ峠(ジョルダーノ山の東か)とセルヴァーニョ峠を経てピアネッツァ方面に出撃した。前者はムロ峠に向かったが、その前面でクリスティニ中隊とジレッタ中隊に撃退された。一方、後者はセルヴィーノの小屋(場所不明だがデル=プレイト峠とカッソルソ山の間にあるセルヴィーノ山の付近か)まで下り、そこにいた家畜を奪うことに成功した。
スポンサーサイト



コメント

非公開コメント