1794年夏秋・イタリア 11

 テルミドールのクーデターによって春から準備を重ねてきたアルプス方面軍とイタリア方面軍の連携作戦は実施されることなく終わった。KrebsとMorisのCampagnes dans les Alpes pendant la révolution, 1794, 1795, 1796によると、この中止命令を受けて派遣議員のアルビットとサリセッティは急いでニースに向かい、まずは海岸の防衛と南部諸県、特にトゥーロンとマルセイユの秩序の維持に必要な手を打った(p169)。ただし彼らはすぐ攻勢を再開しなければならない情勢であることに気づいた。

 ピエモンテ側のコッリ将軍は敵に偵察の機会を与えないことが重要だと理解しており、8月15日には敵の退却をさらに加速させるべくストゥラ、ジェッソ、ヴェルメナーニャの各峡谷で攻撃を命じた。ストゥラ峡谷のバリカーテ、モンタニェッタ堡塁、セルヴァーニョ、ベルゼツィオを占拠している4000人から5000人のフランス軍を排除するには、彼らを左側面から迂回する必要があった。重要な部隊がピアネッツァから出撃する一方、側面部隊として1つの部隊がサンブコからボンテベルナルドへ示威行動を行い、もう1つがマイラ峡谷からマダレーナ峠へ向かってその退路を脅かすよう動くことになった。
 ゾナーツとの合意に従い、300人の戦力を持つ最後の部隊は8月13日にマイラ峡谷のプラッツォからプラトロトンドへとマイラ支流を遡った。さらに午後11時にプラトロトンドを発した彼らは夜明け少し前にロブレント湖近くの高地に到着した。だが午後1時、武器を取るよう求められていた農民たちのやる気がなかったために攻撃が延期されたと知った彼らはプラトロトンドに引き返して午後5時にそこに到着した。1時間後、計画が翌日遂行されると聞いた彼らは、夜10時半に再び出発し、15日朝には再び前日にいた陣地まで戻ってきた。
 しかしその時には第1猟兵大隊の60人がポインテ=デラ=シニョラ(マダレーナ峠北東の山)に布陣しており、増援を受けたにも関わらずピエモンテ軍は彼らを追い払うことができず、正午頃にはスカレッタ山へと後退を強いられた。今度はアルジェンテラとベルゼツィオの共和国軍が彼らを攻撃したが、彼らは他の部隊の失敗を聞いた夕方になってようやくこの地点を放棄した。
 主力部隊はムロ峠の東、アルマ(カント)峡谷源流のヴァルカヴェラ峠にある宿営地に集まり、8月14日の夜11時半に、前日設置されたジョルダーノ山の拠点に合流した。そこで彼らは3つの縦隊に分かれた。中央を形成する350人の農民は稜線に沿ってモンタニェッタに共和国軍が築いた堡塁へと前進したが、最初の射撃で彼らは混乱に陥った。450人の左翼縦隊はデラ=マルタ峠(ジョルダーノ山の東か)を通ってリオ=コンフォレンティ川へと下った。ジレッタ大尉の猟兵が左翼側へと移動している間に、彼らは堡塁を攻撃したが、農民が逃げ出し、兵士たちも前進を拒否したため、モンフェラート連隊の少佐である騎士サン=ローランはジョルダーノ山への退却を強いられた。
 右翼縦隊600人は8月15日午前3時にセルヴァーニョ峠からフォンテッタ(場所不明だが峠の南西か)へと下り、チェルヴェット峠(これも不明だがバッサ=テラ=ロッサのある稜線上か)を経由してセルヴァーニョとベルゼツィオへ向かおうとした。峠はフランス軍が強力に占拠していたため、クリスト将軍は前衛部隊の後ろについてオセロット峡谷(ジアス=デロセロットのある峡谷)を渡り、この山に登ろうとした。しかし農民たちが逃げ出したため、彼についてきた兵は少数しかいなかった。またストレング男爵が率いた小規模な別動隊は、ピエモンテ軍の退路を断とうとセルヴァーニョからフォンテッタへと登ってきた300人の共和国軍と対峙しなければならなかった。スカレッタ山方面の情報が入らず、騎士サン=ローランの退却を知らされたクリストはピアネッツァへと後退し、夕方5時頃にそこで疲労困憊した兵を再編した。彼らは夜の間にムロ峠まで戻り、ジレッタ中隊のみがジョルダーノ山の守備に残った。
 ストゥラ峡谷で示威行動を行う騎士ベルモントの部隊は、3つの縦隊でポンテベルナルドへ進んだ。370人の右翼はキオット=ディ=メレツェット(標高1526メートルの丘らしいが場所は不明、ポンテベルナルドの東か)にたどり着き、リオ=コンフォレンティ川まで偵察隊を押し出した。中央の100人は主要街道沿いにピエトラポルツィオまで到着した。左翼の90人はストゥラ右岸斜面の森にいる敵の守備隊を追い払い、ムレンツ(ポンテベルナルド西)に退却させた。ポンテベルナルド村自体も放棄された。だがフランス軍は午前8時頃にあらゆる場所で逆襲に出てピエモンテ軍を混乱させ、後者は23人の捕虜を出したうえでサンブコへと後退した。
 同じく失敗に終わったのが、コッリ侯爵の試みたテルメ=ディ=ヴァルディエリ峡谷源流にあるフレマモルタ峠の塹壕に対する攻撃だ。擲弾兵第3大隊と、モリエールに駐留する第84半旅団の第1大隊による支援は、合わせてこの拠点に1372人の兵をもたらし、600人のピエモンテ猟兵による攻撃を容易に撃退した。騎士チェルティ大尉が率いたフィネストラ峠にあるフランス拠点への陽動攻撃も同じように成功しなかった。
 ただしヴェルメナーニャ峡谷ではピエモンテ軍がリモーネ側面のアルピオラとヴァッカリーレ攻撃でいくらかの優位を得ていた。フランス軍左翼には100人の兵しかおらず、カステア山とヴェッキオ山の間にあるアルピオラ峠、及びヴェッキオ山とマラテラ山の間にあるデレ=コレッテ峠(カゲラ峠か)の2ヶ所に分かれて配備されていた。8月14日午後10時半、ヴェルナンテ南西のポルチーレの丘(ヴェルナンテ峠とも呼ばれるが正確な場所は不明、テッティ=ポリンか)を出発したアルチアティ少佐は、600人を率いてグランデ川を渡り、テット=ヴェルナに到着。彼はそこで兵を3つの縦隊に分け、夜明けに攻撃できるよう彼らは相次いで出発した。
 左翼の100人の義勇兵はデレ=コレッテ峠を支配した。中央では騎士ボノーが残りの兵とともにクロワ=ド=テンピエ(標高1466メートル地点、ヴェッキオ山から西へ延びる稜線上か)に向かい、退路をカバーするためそこに分遣隊を残した。それから彼は銃を撃つことなくアルピオラの塹壕に襲い掛かり、同時にアルチアティがテスティ=トゥルネット(場所不明)経由でカステア山へと率いてきた右翼が背後から攻撃した。25分でピエモンテ軍はそこを占拠し、配置を行った。
 知らせを受けたルブリュン将軍はこの重要な拠点を取り戻すため、リモーネに2000人を送り出した。2つの縦隊を組み、霧を利用したこれらの兵は高地へ駆け上り、午前9時にはそこを奪回した。また街道上を進んでいたカナーレ猟兵もヴェルナンテへ押し戻され、クロアチア兵は味方を支援するためにその村から出てくるのを望まなかった。
 一方、確かに重要度はより低かったが、ヴァッカリーレの拠点は完全に失われた。草に覆われたこの台地は、ペジオ峡谷側はロッチェ=カムーセ(場所不明だが東側の台地の端あたりか)とミランダの接近不能な隘路(ラバイア=ミラウダ山付近のことか)で区切られ、リモーネ側にはよく守られているコスタ=マリンの稜線(ムリン山のことか)がある。またコラ=ピアナ(ミラウダ山北方の稜線上にある峠か)は正面からの攻撃が難しく、ポルタ=デル=コレの2つの岩(ジアス=ソプラノ=デル=コレとジアス=ソッタノ=デル=コレか)の間にある出口は、山側の2段構えの塹壕から容易に射撃された。
 そこで8月14日にこの地に集まった兵の指揮を執る騎士サン=セヴランに与えられた命令は、チェルトーザ=ディ=ペジオにゴンドロ民兵の中隊とともに向かい、パッソ=デル=ドゥカ(テスタ=デル=ドゥカ)を経てカルボネ峠(ブリック=バッサ=デル=カルボネ近くか)に向かい、南方から迂回する格好でヴァッカリーレに背後から接近せよというものだった。一方、パンディニ志願兵はコラ=ピアナに宿営する部隊に支援されつつ、ヴァッカリーレを直接脅かすことになっていた。ペジオ峡谷の農民たちとキウザで総動員された兵は、ロッチェ=カムーゼの麓まで広がる森に展開し、両者をリンクすることになった。
 敵を南北から挟み込むこの大胆な機動は完全に成功した。奇襲を受けたカルボネ峠の拠点は完璧に奪われ、3発の銃声という合図を受けたパンディニの猟兵はポルタ=デル=コレを駆け上って守備に当たっていた60人の擲弾兵を追い払い、残りの部隊のための道を切り開いた。挟まれたヴァッカリーレ高地の守備隊はアルメリナ峡谷へと混乱して逃げ出し、そこにいた200人の守備隊が辛うじて敵を止めた。ピエモンテ軍は征服地を確保し、右翼はヴェルナンテと、左翼はペジオとエレロ峡谷の間にあるピアストラとリンクさせ、コッリの軍とダルジャントーの部隊の連絡を確保するにとどめた。
 一方、フランスのルブリュン将軍はリモーネにとどまり、前衛部隊を左翼ではアルピオラに、右翼はコスタ=ムリン(ムリン山)とアルメリナ峡谷に配置した。彼の退路はテンダ峠とサビオーネ峠、テンダ村、ラ=ブリガ、サン=ダルマッツォにいる予備や分遣隊によって守られており、さらにはベルトラン山の宿営地、コラ=ロッサ峠、ヴェスコヴォ峠、リオフレドの張り出し部分などを通じてマッカール師団をマセナ師団左翼にあたるカルニノと連結させていた。
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