1794年夏秋・イタリア 9

 フランス軍の攻撃計画に対し、ピエモンテ軍はどのような配置になっていたのか。KrebsとMorisのCampagnes dans les Alpes pendant la révolution, 1794, 1795, 1796によると、1万人から1万1000人の戦闘員が暫定的に配置されていた状態だった(p153)。右翼はティラキュロとサンタントニオ教会(場所は不明だがテット=グラーリャ付近か)の堡塁に拠り、マドンナ=デル=コレット峠の分遣隊を経てデモンテの要塞と連絡を取っていた。中央はボルゴ=サン=ダルマッツォにいてロッカヴィオーネの橋を守り、左翼はマドンナ=デリ=アンジェリの聖所まで延伸してクネオ守備隊の哨戒線に支援されていた。この戦線はおよそ10キロに及んでいた。
 その前方には軽兵が、西はジェッソ=デラ=バラ河畔のエントラケから東はコルサーリャ左岸(KrebsとMorisはエレロ峡谷としているが、それよりは東)のフラボサ=ソプラナまで、哨戒線を展開していた。それらはジェッソの支流であるロアスキア源流にあるゴデリーズ峠(ロアスキア南東、ヴェルナンテ西)、ヴェルナンテとその城、ヴェルメナーニャ流域、ボヴェス峡谷(コラ川)源流域のチェレゾーラ峠(ヴェルナンテ東)、そしてチェルトーザ=ディ=ペジオとリモーネ間にあるジアス=ヴァッカリーレを占拠していた。
 ジェッソ、ストゥラ、グラナの各峡谷からの迂回移動を防ぐため、デロラ橋(場所不明)とロッカスパルヴェラの橋には火薬が仕掛けられた。ストゥラ左岸、ヴィニョーロ(ボルゴ=サン=ダルマッツォの北)近くの高地にある砲台の大砲2門はヴィニョーロの橋を砲撃できるようになっており、その橋は右翼部隊がマドンナ=デルオルモ(クネオ北方)へ後退する時に使われるものだった。6月14日から砲兵が輸送されていたこの退却時の第1拠点は、タナロ方面からの攻撃に対してはモンドヴィからケラスコへ到着するであろうダルジャントーの部隊にカバーされることになっていた。
 この後方への移動は6月15日の国王命令により、単純な攻撃の恐れだけで実行されようとしていた。コッリ男爵が必要な準備を全て担当していたが、受け取った情報に騙されたのか、それともこの移動が敵戦力の合流を容易にするという危険をもたらすのを理解していたためか、この将軍は命令実行に抵抗し、7月11日には戦うことなく退却しないという承認を得た。しかしこの時点で彼の哨戒線は既に押し戻されつつあった。

 6月30日以降、マッカール将軍はヴェルメナーニャ峡谷に兵を押し出していた。4ポンド砲2門を持つ兵3000人がラ=サからリモーネへと下り、そこから3つの縦隊でヴェルナンテへ押し出した。マッカール指揮下の中央縦隊は谷底を通ってこの町に到達し、ダルマーニュ将軍が指揮する右翼縦隊は城への道を半分登った。命令に従いピエモンテの指揮官ボノー大尉は、義勇兵分遣隊とともにロビランテへ後退したが、チェレゾーラの民兵は邪魔されることなくそこにとどまった。ルブリュン将軍が率いる左翼縦隊はマラテラ山と、ヴェルナンテでヴェルメナーニャと合流するグランデ峡谷を通り抜け、2時間遅れで到着した。
 リモーネとヴェルナンテ間の道路はあまりに破壊されていたため、4ポンド砲と物資輸送のラバはついていくことができなかった。結果、共和国軍は翌日にはテンダ峠に後退し、ピエモンテ軍はその陣地を取り戻した。この偵察により、ジェッソ師団の行軍が計画にあるようにたった2日間では実行できないと分かったため、まず道路を修復し物資を集積しておくためヴェルメナーニャ峡谷に強力な拠点を築く必要が出てきた。
 3日、この目的のために宿営地としてテンダ峠に200張のテントと、ペジオ源流のコンカ=デラ=カルセーネに50張のテントが設置された。翌日、強力な前衛部隊がリモーネを占拠し、左翼のアピオラ峠もしくはヴェッキオ山、右翼のアルメリナ(場所不明)もしくはムリン山にも拠点が置かれた。10日から11日にかけての夜間に、後者の拠点の兵はジアス=ヴァッカリーレとコラ=ピアナ(ミラウダ山北方稜線のどこか?)の間にある稜線に移った。そこにいた兵は包囲され、2時頃に逃げ出した。リモーネに次第に集結していたマッカール師団にとって、前衛部隊をヴェルナンテまで押し出すことが必要になってきた。
 ルブリュン将軍が指揮する前衛部隊は7月13日から14日にかけての夜間に、サペ山(ヴェルナンテ西方)からヴェルナンテを経てラ=モッタ山(ピアーネ山とコスタ=ロッサ山の稜線の交点)に至る哨戒線を守る1200人に向けて前進した。擲弾兵第6大隊と第118半旅団第1大隊の5個中隊で構成されていた左翼縦隊を率いる参謀副官ガルダヌは、アルピオラ峠を発しグランデ峡谷を渡ってロアスキア源流域のテスティ=ゴデリア(グアルディオラ山か)を占拠した。そこの守備隊はブリニョーラ峡谷(ジェッソ支流)の源流域にあるペナ山(プルネア山か)まで退却した。
 右翼ではダルマーニュ将軍が第118半旅団第2大隊を率い、コラ=ピアナから稜線に沿ってカンタ=ペニーチェ(ヴェルナンテ東のテット=チアンタペルニスか)まで到達し、その拠点を奇襲し奪った。両縦隊の間ではルブリュンが第8軽半旅団第1大隊及び第118半旅団第3大隊の300人とともに前進し、さしたる困難もなくヴェルナンテに入った。ボノー大尉は再びロビランテに後退した。工兵はすぐさま道路の修繕に入り、弾薬と食糧は当初予定されていた日程である7月20日に攻勢を始めるためにリモーネへと運び込まれた。
 しかしイタリア方面軍の派遣議員リコールが持ちかけた連携作戦に対するアルプス方面軍派遣議員からの返答がまだニースに届いていなかったため、この計画の実行は中断を余儀なくされた。とはいえマッカール師団はテンダ峠の前方と後方に分断された状態でとどまるわけにはいかず、兵の熱意や修復した道路が無駄になること、リモーネに集めた物資の重要性などもあって、ヴェルメナーニャ峡谷から兵を引き上げるのも不可能だった。一方、敵を完全にジェッソ左岸へ追い払い、ボルゴ=サン=ダルマッツォの敵宿営地に接近すれば、そこへの攻撃がより簡単に準備できた。
 ロビランテに布陣したピエモンテの義勇兵は、ロッカヴィオーネに駐留する1個大隊に支援され、毎日コッリの主力部隊と交代した。イゾン伯が指揮する1200人から1500人になったこの部隊は、右翼はジェッソ上流に拠っていたが、そちらはフィネストラ峠師団の割り当て区域だったためマッカールは偵察していなかったという。左翼はボヴェス南方のデル=ブルザタ山にあり、ボヴェス村はクネオ守備隊の一部であるピニェロル連隊からの分遣隊が配置された。
 ダルジャントーの司令部があるモンドヴィとの連絡はペヴェラーニョにいるカナレ猟兵、キウザ=ディ=ペジオのオーストリア騎兵1個大隊、ヴィラノヴァ=モンドヴィのアスティ連隊1個100人隊が保持していた。彼らの前哨線はペジオ峡谷のサン=バルトロメオ前面、エレロ峡谷との間にある稜線のピアストラ山とマスカローネ峠にあり、フラボサにいる分遣隊と連結するとともにヴェルメナーニャ上流域を囲むように展開していた。
 ロッカヴィオーネへと行軍するまえにこれらの哨戒線の戦力を測ることが重要だった。7月21日、リモーネの指揮を執っていたダルマーニュ将軍は第118半旅団第1大隊とともにコラ=ピアナからコレリア(場所不明だがペジオ源流域か)へと下り、30人のピエモンテ守備兵は早々にそこを放棄した。共和国軍はチェルトーザで食事をとり、夕方にはグラヴィナ川(場所不明だがペジオ支流か)左岸の稜線を経て元の陣地まで戻った。ピジョン将軍が4000人とともに向かうことになっていたペジオ峡谷には本格的な兵力はいないと報告がされ、マッカール師団はこの方面を心配することなくジェッソへ移動できるようになった。
 7月21日、ルブリュンの前衛部隊は早朝から3つの縦隊で出発した。参謀副官ルブランが指揮する中央縦隊は、両側面の部隊と歩調を合わせながらゆっくりと道沿いに進んだ。執拗な抵抗の末にピエモンテ軍は36人の捕虜を失って後退を強いられたが、コッリ将軍の命に従って秩序をもってジェッソまで戻ってきた。コッリ自身もロッカヴィオーネで後退を指揮した。
 ロアスキア峡谷とブリニョーラ峡谷の民兵は邪魔されることなくアンドノへたどり着いた。ヴェルメナーニャ左岸の兵が最初にロッカヴィオーネの橋を渡り、その日の守備担当だった王立擲弾兵の大隊と、トルク=ドルミオサ(ロッカヴィオーネ東の丘か)から下りてきたボノー大尉が指揮する義勇兵が続いた。右岸の部隊はモロ峠(ロビランテ東)とサンタントニオ高地(場所不明)を経てボヴェスへと戻った。共和国軍はロッカヴィオーネを占拠したが、ジェッソ左岸に配置された砲兵の射撃のためそこから出撃することはできなかった。少数の偵察兵のみが右岸に配置されたが、ピエモンテの工兵が橋を焼くのは阻止できなかった。
 征服した陣地を敵の反撃から守るため、続く数日は村に塹壕を掘ることに使われた。破壊された橋を見張るため村の橋から川沿いの持ち場まで2つの連絡壕が作られ、ロッカヴィオーネの上にあるブリック(正確な場所は不明)とドルミオサの斜面に計2つの砲台が建造された。同時にマッカール師団は少しずつテンダ峠の先へと進み、その後に騎兵、砲兵、架橋装備が続いた。
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