黒色火薬の犠牲者

 安倍元首相の暗殺犯が数多くの手製の銃を持っていたことがあちこちで話題になっている。特に容疑者の自宅で発見された銃については写真のインパクトもあってSNSなどでも注目を集めたようだ。
 また、その銃の構造についても国内だけでなく海外メディアでも報じられているWashington Postの記事では、この手製の銃について、正確性も射程距離もないが日本における銃砲の所持規制を潜り抜けることができるものだったと分析。またこちらの記事では2本のスムーズボアの銃身と引き金となる電気回路、そして自作の黒色火薬が使われているのではないか、という専門家の指摘を紹介している。
 こちらでは使われた銃を「古典的な手製の銃、あるいはジップ・ガン(zip gun)」と呼んでおり、実際にそういう自作の銃に関する動画がネット上で簡単に見られることも紹介している。そのうえで点火用に電気を使用している前装式の火縄銃を思い浮かべるのが適切だと書いている。一方、こちらの記事によれば「筒1本に6発の弾」が入っている銃もあるという容疑者の発言を紹介している。手製の銃なのでほぼ銃身は使い捨てだと思っていたが、押収した銃の中にはそうではない物もあるのかもしれない。
 おそらく容疑者がどうやってこの手製の銃を作ったのか、についての情報もこれから出てくる可能性はあるが、そこを追求するのはやめておきたい。現代日本で暮らしている限り、本来なら銃はほぼ不要。確かに銃の基本的な構造はとてもシンプル(何しろ13世紀の鎌倉時代から存在していた)であり、製作にはそれほど多くの素材やスキルを必要としないのはおそらく事実だが、日本はそういう知識自体が必要ない社会をここまで作り上げてきたわけであり、そのメリットは誰もが享受できるようにすべきだ。

 だが一方、今回使われたと見られる黒色火薬が、歴史上で数多くの人命を奪ってきたのもまた事実。何しろ1000年を超えるその歴史のうち、おそらく900年ちょっとの期間は実際に武器として黒色火薬が使われてきた。とはいえAndradeによれば黒色火薬が戦争に本格的に使われたのは日清戦争までで、それ以降の役割は花火など平和的なものが大半。正直、まさか21世紀になって黒色火薬を使った武器で人が殺されるとは思っていなかった。
 では直近の事例ではなく、逆に最古の事例は何になるのだろうか。中国の古い時代の記録において、黒色火薬で人が殺されたことが明確に分かる事例というのは意外に見当たらない。例えば13世紀前半の鉄火砲の使用例には「頭目面霹碎不見一半」という記述があるものの、この被害者が死んだかどうかについては明確には書かれていない。あるいは元史には火砲を撃った際に敵が「果自相殺」したと書かれているが、相手が勝手に同士討ちをした結果として死者が出たのだとしたら、これは火薬兵器による死とは言い難い。
 一方、火薬兵器が死をもたらしたと割とはっきり分かる事例の1つは、朱元璋と陳友諒の間で行われた鄱陽湖の戦いだ。明太祖実録の巻12には「發火炮焚寇舟二十餘艘彼軍殺溺者甚衆」と書かれており、火薬が引き起こした火災によって死んだと思われる兵士がいたことが分かる。といっても実際には溺死者も含めた記録であり、加えて火薬の持つ焼夷機能が原因であるところが気になる。少なくとも射殺ではない。
 射殺という点に着目するなら、むしろ14世紀末の大越とチャンパの戦争が最初の例かもしれない。この戦争では大越側がチャンパの船に向かって当時の銃で射撃を浴びせ、チャンパ王が銃弾に「貫かれた」(The History of Tchampa, p20)という記録が残っているらしい。より具体的には大越史記全書の巻8にある「渴真令火銃齊發,着蓬莪貫於船板而死」という部分がそれに相当するのだろう。ただしこの文章だけだと貫いたのは船板とも読めるため、本当にチャンパ王が射殺されたのかどうかは微妙に判断しづらい。
 明確に銃による射殺の事例と言ってよさそうなのは、Andradeが紹介している14世紀前半のトゥルネーでの事例だろう。町の有力者から銃の実験を行なうよう命じられたピエール・ド=ブリュージュは、鉛の先端を持つ矢を銃に装填し、市壁に向かって発射した。ところが硝煙が消えた後に矢の姿は見えず、人々がどこに行ったのかと探し回ったところ、矢は町の上空を飛び越えて反対側にいた男性の頭部を貫いて彼を殺してしまったそうだ。ピエールは殺人の罪に問われることを恐れて逃げ出したが、町の有力者はあくまで事故として処理したという(The Gunpowder Age, p78)
 この話の原文はナポレオン3世のÉtudes sur le passé et l'avenir de l'artillerie, Tome Premier(p357)や、BrackenburyのAncient cannon in Europe(p18-19)などに紹介されている。Annales de la Société d'émulation pour l'étude de l'Histoire et les Antiquités de la Flandreによるとトゥルネーのアーカイヴにあった記録だそうで、殺された方の人物名(ジャクモン・ド=レス)まで伝わっている(p388-389)。
 もちろんこれらの話はあくまで記録に残っている死者であり、実際には他にも黒色火薬による死者は存在しただろう。それにこれらの記事からさして間を置くことなく、黒色火薬での死は珍しくもないものとなっていった。オルレアンで狙撃手として活躍したジャン親方は複数の英兵を殺したと記録に残されているのだが、彼が活躍したのはトゥルネーで事故が起きてから100年も経過していない時期だ。
 チャンパ王が射殺されたかどうかは微妙なところもあるが、戦争で射殺されたのがほぼ間違いない君主も出てきた。リュッツェンの戦いで戦死したグスタフ・アドルフについては、ある人物の記録によると背中を敵に撃たれたためだそうであり(Princess Elisabeth of Bohemia, p46)、小姓の記録によれば落馬後にさらに多くの敵に撃たれたのだそうだ(The history of Protestantism, Volume III, p294)。英語wikipediaによればこめかみを撃たれたのが致命傷になったそうだが、こちらは論拠不明。とはいえ彼が黒色火薬兵器で殺されたのは間違いないだろう。
 黒色火薬が暗殺に使われた事例として有名なのは、やはりリンカーンだろう。彼の暗殺に使われたデリンジャーは前装式で、黒色火薬が装填されていた(A Finger in Lincoln's Brain, p65)。19世紀の時点ではまだ黒色火薬を使う武器が中心だったのが分かる。しかし20世紀に入るころになると状況は変わった。第一次大戦のきっかけとなったサラエヴォの暗殺で主犯のプリンツィプが使用したのはFNブローニングM1910だが、ブローニングはそれより前に開発したM1900の時点で無煙火薬を使っており、サラエヴォ事件の時期にはもう黒色火薬ではなかったと考えられる。

 黒色火薬が戦場の主役から引退して以来、その利用は花火などの平和的なものが中心となった。だからと言って黒色火薬が安全になったわけではない。花火が絡む事故に関する注意喚起は今でも行われているし、花火工場での爆発事故なども今でも起きている。そもそも黒色火薬に関する最も古い記録と見られる真元妙道要略には、黒色火薬の調合時に手と顔を焼き家を炎上させてしまったという話が載っているくらい。黒色火薬が危険であるのは、今も昔も変わりない。
 使用した武器が何であれ、暗殺が許されざる行為なのは言うまでもない。それでも今更になって黒色火薬を再び武器として使うような事態は起きてほしくなかった。武器としての黒色火薬は博物館の中だけにとどまっておくべきだし、今後もそうあり続けてほしい。
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