1794年夏秋・イタリア 7

 1794年5月16日、ロンバルディアで冬営していたオーストリア軍がようやくカイロとケラスコへと向けて動き出した(Campagnes dans les Alpes pendant la révolution, 1794, 1795, 1796, p125)。まだ遠方ではあったが、この増援の存在と、共和国軍の動きが再び鈍ったことで、トリノ宮廷は自信を取り戻した。ただし6月初旬のこの段階で、それぞれ実働兵力4万人を数えるイタリア方面軍及びアルプス方面軍の配置はかなり恐ろしいものだったと、KrebsとMorisは指摘している。
 前者は同戦力の3個師団で構成されていた。右翼のマセナ師団は4個旅団で構成されており、モンドヴィとチェヴァの街道を完全に押さえていた。彼らの正面には後者の守備隊と、ダルジャントーの歩兵2000人、騎兵400騎のみがいた。総動員の失敗後、モンドヴィには僅か200人しか残っていなかった。中央のマッカール師団はテンダ峠経由でボルゴ=サン=ダルマッツォに出撃する準備ができていた。彼らの背後、テンダ、フォンタン、ブイユ、ソスペロにはアルプス方面軍の騎兵が展開していた。
 野戦砲と架橋装備、攻城砲などは、ブオナパルテが激励する中、アンドレオシーとソンジの指揮下でアンティーブにおいて編成されていた。その輸送のためにヴァールに架かる橋も修復されていた。左翼はガルニエ将軍が率い、4個旅団で構成されていた。ピエール将軍はコルマール、アントルヴォーを守り、デュラン将軍とセリュリエ将軍はヴェジュビー源流域、ロンバルダ峠、サンタナ峠、ロング峠にしっかりと布陣していた。最後にモンロー旅団はサン=テティエンヌ=ド=ティネー、サン=ダルマ=ル=セルヴァージュ、ル=プラへと相次いで移動し、アルプス方面軍との連絡を確立した。
 そのアルプス方面軍は、グルノーブルにある第2線師団を含め4個師団で構成されていた。うち最強だったペラプラ将軍の指揮する2万人以上の師団は3つの旅団に分かれており、ヴォーボワ将軍はマイラとストゥラ源流域に、グーヴィオン将軍はケラ峡谷にいてヴァライタ、ペリチェ(ポー峡谷の北)、ジェルマナスカ(その北)峡谷への峠を脅かしていた。その左翼にはヴァレット将軍がブリアンソン正面のチェザーナとウルクスに布陣していた。
 第2師団9000人は2個旅団あり、一方はモン=スニに、もう一方は小サン=ベルナールにいた。最後にプジェ将軍の第3師団4000~5000人はスイス国境を見張っていた。攻城砲と必要な人員は次第にガップに集結しており、司令部はグルノーブルからブリアンソンへと移動した。師団長プティ=ギヨームはサン=ポール=シュール=ウバイに向かい、イタリア方面軍と協力してデモンテへ行軍することになっていた17個大隊の指揮を執った。
 多くの成功によって士気が上がっていた兵たちはピエモンテの平野へと下る命令を今か今かと待っていたが、6月4日、公安委員会が敗北を被ったばかりのライン方面軍へ15個大隊を送るよう要請してきた。そこまで多くの兵を割けないと考えたデュマ将軍は10個大隊のみを派出したが、それでもこの結果としてアルプス方面軍は連携作戦で割り当てられていただけの強さの縦隊をもはや提供できなくなった。また、作戦立案後にアルジェンテラ、及び6月5日にバリカーテが相次いでフランス軍の手に落ちていたため、計画自体の見直しも必要だった。
 前日、ガルニエ師団のモンロー将軍はプリャック峠(ル=プラ北東)経由でフェリエール(フェレーレ)峡谷に260人の兵を送った。彼らはベルゼツィオに布陣したヴォーボワ将軍の前衛部隊300人と合流し、翌日この2つの部隊は協力して敵へ向けて行軍した。アルプス方面軍の兵はサン=セバスティアン教会に大砲2門を据え付け、分遣隊をセルヴァーニョの小型砲へと押し出し、午前10時にはプリナルドの背後にあるプラティ=ディ=クーニュに展開した。
 バリカーテを指揮するエガー副大尉は強力な2つの哨兵を側面のロビエラとカパナ(どちらも場所不明)に派出し、兵25人をモンタニェッタ山に、15人をベッキロッシ山に送り出して、そこにいる民兵と農民を支援した。それでもセルヴァーニョのフランス軍はカパナまで何とか到達し、そこからバリカーテの塹壕に射撃を浴びせて守備側をロビエラの斜面まで後退させた。エガーはこの地点でさらに1時間半にわたって、小型砲1門で共和国軍がプリナルドから出撃するのを防いだ。彼はさらにベッキロッシに12人の増援を送り込んだ。
 だが午後4時には民兵が撤収したこの地点がイタリア方面軍からの分遣隊に占拠された。ピエモンテ軍は民兵にカバーされつつ、ストゥラ街道を小さな前衛部隊で確保しながら損害を出さずに後退した。同日、セリュリエ将軍はサン=ベルノルフォの前哨部隊をピアンケまで押し出したが、この村の占拠はしなかった。ピエモンテ軍の少数の正規兵は、家に帰ってしまった民兵と農民に見捨てられた格好だったが、邪魔されることなくこの地を通過できた。
 ヴォーボワ将軍はバリカーテとベッキロッシを1個大隊で占拠し、5日ごとに交代させた。5~6個の擲弾兵中隊がムレンツとポンテベルナルドの間に宿営し、ピエトラポルツィオ上流のボスコ=アンボルネットとカステロに守備兵を配置した。この新たな兵の配置はストゥラ峡谷を通る攻勢を非常にやりやすくした。この点は派遣議員ラポルトとロベスピエール弟がニースで採用した新たな作戦計画に取り入れられ、後者は了承を得るべく公安委員会にそれを提出した。

 しかし、次回説明する理由からこの作戦はすぐには実行されなかった。一方、アルプス方面軍は6月中旬に小サン=ベルナール峠を奪取。同じ時期、ストゥラ方面ではヴォーボワ将軍がモンロー旅団と連携してサンブコまで偵察を押し出していた(p135)。ロング峠を押さえていたセリュリエ将軍は再びピアンケ方面に哨戒線を押し出し、どちらもその背後の道の修繕を進めた。ピエモンテ軍ではクリスト・ド=ザンツ将軍がヴィナディオとムロ峠の間に新たな防衛線を確立していた。
 雪が溶けた6月17日、ムロ峠に24人の守備兵が配置され、月末にはアルマ峡谷(ストゥラのすぐ北)にいた部隊がデモンテ守備隊の一部に増援され、ムロ峠に宿営した。右翼にはゾナーツがマルモラ峡谷(マイラの支流)に押し出したサヴォイ連隊の100人隊がおり、左翼はネビウス山(サンブコ北東)の南北にある塹壕を掘った拠点と、チアドレッタ峠(サンブコ東)、それからサンブコの上にあるサン=ミケーレまでをカバーしていた。ピアンケの橋は破壊され、バーニとサンタナの峡谷出口はストゥラ左岸の険しい斜面に配置された分遣隊が守り、ヴィナディオには砲台が設置された。民兵はプラトルンゴ東の山地とリオフレド(サンタナ峡谷の東にある峡谷)右岸も守っていた。
 ジェッソ峡谷源流域ではガルニエ師団のデュラン将軍が、厳しい天候にもかかわらずフレマモルタ峠にどうにか守備兵を置いた。ピエモンテ軍はジェッソ=デラ=バラ河畔のピアストラと、エントラケ南方のルイネッタ宿営地にとどまっていた。ヴェルメナーニャ峡谷でも両軍の交戦はなかったが、イタリア方面軍右翼ではそうはいかなかった。
 兵1300人、大砲2門とともにモンドヴィに到着したダルジャントーはコッリ男爵から独立した指揮権を持ち、国王の指示に従って攻勢に出ることができると思っていた。だがフランス軍の状況を確認した彼は、増援を受けはしたものの、一方でモンドヴィとチェヴァの連絡線が開かれたままでいるのは敵がそうしたいからであって、もし命令を受けたようにモンドヴィ防衛を貫き通せば捕虜になる恐れもあるとすら考えるようになった。このような厳しい状況を何とか調整し、敵を少しでも圧するため、彼はフラボサ=ソプラナからサン=ミケーレ=モンドヴィまでコルサーリャ左岸にそって哨戒線を敷き、ラアルプ将軍とフランソワ将軍の偵察隊としばしば交戦させた一方、残りの兵はモンドヴィ南方に建設した砦に集めた。
 この時、ピエモンテ王はモンドヴィの総動員の失敗に学ばない者たちの主張に譲らざるを得なくなっていた。彼らは軍だけでも、あるいは正規兵と住民の連携行動でも得られない優位を奇跡的に手に入れるには、農民たちを使うしかないと信じていた。ペピノ・ロブスティという名の弁護士に訓練されたアクイ、アルバ、モンドヴィの農民たちは、それぞれロアーノ、タナロ峡谷コルサーリャ上流へと攻勢に出るのを承認された。このタイミングの悪い戦闘の結果を恐れたダルジャントー将軍は、デレラ男爵によってランゲ地方の動員集結点として示されたフラボサにモンドヴィ連隊の6個中隊を進めた。
 だが攻撃日と指定された7月1日になってもそこには60人しかおらず、7日には集まった2000人の農民がナヴォネラ峠で、増援を受け塹壕を掘って布陣した共和国軍を見て、攻撃しようとしないどころかむしろ彼らがヴィラノヴァに来るのではないかと恐れた。他の遠征も同じ状態で、7月2日から6日にかけて旗を掲げ聖歌を歌う信者の集団が先行し、宗教的な飾りを持った司祭たちに率いられた縦隊が、カゾット、ポッジョロ(場所不明)、バッティフォロの正面と、そしてタナロ峡谷に姿を見せた。彼らは最後の地点を除き、一瞬にして無血で鎮圧された。タナロ峡谷では第5擲弾兵大隊の3個中隊がクロアチア兵と短時間だが激しい戦闘を行った。
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