1796年ドイツ(byナポレオン)その9

 承前。


IX.
 ネレスハイムの戦いから12日後の8月23日、フランスのラン=エ=モーゼル軍はドナウ河を渡り、レッヒ川へと進軍した。ドゼー将軍が左翼を構成し、レッヒ河口にあるラインの対岸に到着した。サン=シール麾下の中央はアウグスブルクに、フェリーノ麾下の右翼はランズベルクの対岸にいた。レッヒ川の渡河点防衛を命じられていたラトゥール中将は、3個歩兵大隊をインゴルシュタットに、8個歩兵大隊と20騎兵大隊からなる1個師団をラインの対岸に配備してレッヒ下流を守り、彼自身は15歩兵大隊と伴にアウグスブルク対岸のフリートベルクの丘に布陣した。コンデ公の部隊はランズベルク対岸で左翼を形成した。
 24日、フェリーノ将軍はハンシュテッテンの浅瀬を強行渡河した。サン=シールはアウグスブルク全面のレッヒ=ハウゼンの浅瀬を渡り、ドゼーはラングヴィートで渡河した。アウグスブルクの橋はすぐに補修され、そしてラトゥール将軍は勇敢な抵抗の後で、勝者の手に17門の大砲と1500人の捕虜を残してフリートベルクのよい陣地から追われた。
 レッヒ渡河の後でフランス軍はミュンヘンから3リーグの場所にあるダッヒャウへ前進し、前衛部隊はミュンヘンの城壁に迫った。中央はプファッフェンホーフェンとガイセンフェルトに、監視用の部隊がインゴルシュタットに進んだ。オーストリア軍の将軍はイゼル川沿いのランズフートに司令部を移し、そこに主力軍団を集めた。大公がアンベルクの戦い後にドナウ河を見張るため派出したナウエンドルフ将軍の師団、戦力8000人はアーベンスベルクを占拠し、ラティスボンを守った。コンデ軍団はミュンヘンを占めた。この布陣で彼は数日間、フランス軍の将軍が行う移動を見定めようとした。しかし彼[モロー]が何もしないのに気づくと、彼[ラトゥール]はモローがカール公を追撃するためドナウ左岸へ渡ったのではないかと疑った。結果、9月1日にラトゥールは全軍をいくつかの縦隊に分けてガイセンフェルトへ前進し、フランス軍の左翼を攻撃してパールまで侵入したが素早く撃退され、捕虜から軍は動いておらずドナウ右岸に完全に集結していることを知らされた。かくして彼は元の陣地へ戻った。この戦闘における双方の損害は同数だった。敵は曲射砲1門をフランス軍の手に残した。
 9月7日、モロー将軍は明確な計画を視野に入れないまま前進した。9日、左翼はアーベンスベルク対岸でドナウ河に拠りながらノイシュタットに、中央はメンブルクに、そして右翼はモスブルクに到着した。ミュンヘンとフライシングはフランス軍の勢力下に落ちた。しかし敵はイゼル川左岸に布陣していた。この移動でモローは僅かな障碍に会っただけで、500人以上の捕虜を得た。敵は彼がラティスボンへ前進するものと予想していたが、彼は8日と9日は動かず、10日に元の陣へ戻るため退却し、ドゼー将軍と1万2000人をサンブル=エ=ムーズ軍を探すために派出した。しかしその軍は既に彼から80リーグ以上も離れていた。ドゼーは10日夜にノイブルクでドナウ河を渡り、12日にアッハシュテットに到着した。14日、彼はニュレムベルク途上にあるハイデックまで押し出し、そこで随分前に起きた事件についての詳細と、サンブル=エ=ムーズ軍が既にラインへと撃退されていたことを聞いた。彼は後退し、16日にドナウ河で軍と再合流した。この間ラトゥール将軍はドゼーの動きを知らされて前進した。彼はあらゆる方角で大した重要性のない戦闘を行ったが、ドゼーの分遣隊の弱さと、ドナウ右岸における[フランス]軍の強さが彼自身より優勢であるとの情報を得て、慎重に行動した。
 大公がラインを諦めた時、彼は以下の守備隊を残していた。メンツに歩兵1万5000人と騎兵1200騎。エーレンブライトシュタインに歩兵300人。マンハイムに歩兵8800人と騎兵300騎。フィリップスブルクに歩兵2500人と騎兵300騎。ジュールダンはマルソー、ポンス、ボノー師団、戦力2万6000人をマイン河に残し、メンツとエーレンブライトシュタインを封鎖した。しかしマンハイムとフィリップスブルクに対してモローは、ランダウの守備隊から連れてきたシェルプ准将麾下の歩兵、騎兵、砲兵からなる移動縦隊2800人のみを残した。
 ラーン川へ到着した大公はすぐペトラッシュ将軍に、マンハイムとフィリップスブルクから9個大隊を引き抜き、シェルプ将軍を攻撃し、ケールとフンニンゲンの橋頭堡を奪うよう命じた。シェルプ将軍はいまだブルフザルにいた。ちょうど逃亡兵から知らせを受けた彼は9月13日に撤退し、まだ修繕が完全には終わっていないケールへと退却した。ペトラッシュは彼を追撃し、4倍の戦力で18日に彼を攻撃したが、試みは失敗し大勢の兵を失った。フランス軍はこの勝利の一部を、ストラスブールの国民衛兵が示した熱意に負っていた。モローは彼の退路をほとんど断とうとしたこの戦闘に危険を感じた。彼はライン河へ接近する必要を感じ、退却を始めた。
 ジュールダンがラインを再渡河した同じ日に彼はレッヒ川を再渡河し、20日にシュムッター背後に、21日にミンデルの背後に、22日にグンツの背後に陣を敷いた。彼は3つの縦隊で行軍した。左翼はフェリーノが、中央はサン=シールが、右翼はドゼーが指揮した(退却の方向を前方とした場合)。フレーリッヒ将軍はフェリーノを、ラトゥールはサン=シールを追跡し、ナウエンドルフ将軍はドナウ左岸に沿ってドゼーと並んで進んだ。守備隊のいなかったウルムの要塞は、幸運なことにナウエンドルフ将軍が入城する24時間前にモンリシャール麾下の分遣隊が占拠した。
 24日、フランス軍はイゼル川沿いに布陣し、フェリーのはメミンゲンに、ドゼーはウルムに拠った。25、26、27日と退却は続いた。ドゼーはドナウ左岸に沿って進み、エヒンゲンへ達した。オーストリア軍は彼の出発6時間後にウルムへ入城した。27日、軍はフェデル=ゼーに到着し、そこでペトラッシュ将軍がシュヴァルツヴァルトの隘路を占拠していることと、国境の町々が多数の暴動を起こした農民に占領されているとの情報を得た。
 28日、ラトゥール将軍はあらゆる場所で攻撃に出て、その全てで撃退された。この時までオーストリア軍の右翼を攻勢していたナウエンドルフ将軍の部隊は、そこを離れ、トゥビンゲンへ前進しロトヴァイルにいるペトラッシュと合流してその戦力でキンツィヒ川とレンヒェン川の谷間を守り、その間にカール公は1万2000人の部隊と伴にレンヒェン村に到着し、ケール近くのキンツィヒ川沿いに軽騎兵を送り出した。かくして弱められたラトゥール将軍の麾下には2万5000人しか残らなかった。彼は危険に晒されていた。彼はシュタインハウゼンに幕営して何の疑問も抱いていないように見えていたが、モローは強行突破する機会を得るために彼の部隊を取り除く必要性を感じていた。10月2日、彼はビベラッハでラトゥールを積極的に攻撃した。できる限り抵抗したにもかかわらず、オーストリア軍は数に圧倒されて完全に壊走し、勝者の手に軍旗2旒、いくつかの大砲、そして4000から5000人の捕虜を残した。
 この戦いの後でモローは退却を続けた。荷物、木材、負傷者は国境の町を経由してフンニンゲンへ送られた。モローは峠を攻撃し、10月10日にロトヴァイルとヴィリンゲンの村を確保した。軍はヴァル=ダンフェルの峠へ回れ右した。サン=シールは12日にライン峡谷のフライブルクに到着。軍は13、14、15日にこの危険な隘路を通り抜け、フライブルクを守って小さなエルツ川の背後に布陣した。この間、カール公はエタインハイムに到着し、そこで彼は10月15日にペトラッシュと、18日にナウエンドルフと、20日にラトゥールと合流した。コンデとフレーリッヒの軍団はフランス軍の後衛をヴァル=ダンヴェルの峡谷内と国境の町へと追った。かくしてフランス軍は15日以降集結し、ヴュー=ブリザッハとフンニンゲンの橋を通じてフランスとの連絡線を確立していた。兵の士気と物資は向上したが、まだ彼らは行動を起こさなかった。
 18日、敵は3万6000人を率いて彼らに行軍してきた。敵の左翼[右翼の間違いか]はライン河に拠り、ペトラッシュが率いていた。中央はヴァルテンスレーベンが、左翼はラトゥールが指揮した。執拗な紛争が続いて起こり、双方に同様の利点と損害を与えた。フレーリッヒとコンデはシュヴァルツヴァルトの谷間を経由してヴァルトキルヒに入った。指揮官は右翼を守ってフライブルクに接近するのが得策だと考えていたが、いまだにその町とヌフ=ブリザッハを守っていた。
 21日、ドゼーがヌフ=ブリザッハでライン河を渡り左岸をストラスブールへと下った。軍はフライブルクを撤収し、右翼をカウデルンに、左翼をシュリーンゲンでライン河に拠る陣地を占めた。彼らは23日に攻撃を受けたが、ドゼーの兵力を派出していたため数でかなり劣っていた。しかしよい陣地を占めていたためその地を守ることができ、10月26日に少しばかり混乱しながらフンニンゲンの橋でライン河を再渡河した。フェリーのはライン上流にとどまり、他の軍はストラスブールへ進んだ。かくしてドイツで4ヶ月に渡って戦争を行い、皇帝の陣営からバーデン辺境伯、ヴュルテンベルク公、バイエルン選帝侯を引き剥がして武装解除させ、彼らに休戦を認め、集める時間がなかった分担金を課し、いくつかの勝利を得た後で、何ら重要な敗北を蒙ることなく、フランス軍はライン河を再び渡り、右岸にはデュッセルドルフの要塞とケール及びフンニンゲンの橋頭堡以外は何も保持できなかった。

 (注:ズタボロ。1~4段落目、5~9段落目、10~12段落目はいずれも1つの段落である。文句があれば以下略)


 以下、次回。

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