1794年夏秋・イタリア6

 1794年5月におけるオーストリア=サルディニア軍の状況についての続き。今回はクネオ南方のボルゴ=サン=ダルマッツォ近辺からだ。ストゥラとジェッソの両河川はこの地からクネオまで、幅2.5キロ、長さ8キロの平野を形成しており、クネオの北方で合流している(Campagnes dans les Alpes pendant la révolution, 1794, 1795, 1796, p118)。残念ながらピエモンテ軍南方戦線の指揮を執っていたコッリには守備隊を除いて9000人から1万人の兵力しかなく、全陣地を占拠できる状況になかった。
 ド=ヴァン将軍の助言を受けたピエモンテ王は兵の大半をサルッツォとクネオ間の宿営地に集めようと考えていた。そこから両端を武装したポーの橋を使えば、敵がどこから平野部へ出撃してこようとしてもその出口に兵を向かわせられるという理屈だ。だがボルゴ=サン=ダルマッツォの飼料貯蔵庫の撤収、防衛体制が整うまでのクネオ防衛、兵の休息を必要としていたコッリからの要請、共和国軍の動きのなさ、モンドヴィ住民の要求、オーストリア軍がタナロ河畔へと兵を前進させるであろうという希望など、様々な理由から、この国王の計画実行は延期された。
 コッリは兵をボルゴ=サン=ダルマッツォ周辺に不規則に配置し、いくつかはこの村の中に駐屯させ、軽兵と民兵の哨戒線をジェッソとヴェルメナーニャ峡谷に保持した。共和国軍のガルニエ師団とマッカール師団はアルプスの稜線にとどまり、これらの動きを邪魔しなかった。この地の左翼を守るため、ダルジャントー伯の部隊がタナロ河畔から次第にぺジオ河畔へと近づいていた。
 ダルジャントーは4月末時点でアクイ連隊をモナステロロ=カゾット(チェヴァ南西)に配置し、残りをチェヴァに集めた。5月1日、彼は城と塹壕のある宿営地を守るためにそこに3000人を残し、カイロにいる700人のクロアチア兵と連絡が取れるようにした。さらに竜騎兵、ピエモンテ擲弾兵2個大隊、ギューライ義勇兵とともにモンドヴィに向かい、そこから後者の部隊をフラボサ=ソタナへと押し出してテルミニ峠から出てくる敵を監視するとともに、チェルトーザ=ディ=ペジオとカルニノ(タナロ源流域)を占拠しているクネオ守備隊の分遣隊と接触した。
 同時期にコッリはロイア峡谷から撤収を余儀なくされていたが、ダルジャントーは彼を解放すべくタナロ上流を攻撃するよりも、国王の命令に従ったこの移動を行うことで、ランゲ地域の住民の勇気を鼓舞する方を選んだ。だがフランス軍は、マセナがコラ=アルデンテへと出発した後にラアルプ将軍がオルメア、ポンテ=ディ=ナヴァ、ヴィオツェーネ周辺に兵を集めたため、ダルジャントーの正面には彼より優勢な戦力がいることとなった。
 共和国軍によるテンダ峠の奪取で、ダルジャントーはさらに右翼へと兵を動かすことを強いられた。5月8日、コッリの要請で擲弾兵2個大隊がモンドヴィからキウザ=ディ=ペジオとチェルトーザ=ディ=ペジオに向かい、またカゾットに猟兵中隊と民兵を残したアクイ連隊は、フラボサまでギューライ義勇兵の支援にやって来た。翌日、チェヴァに2263人の兵を残し、ストラソルド擲弾兵とモンドヴィ大隊、サヴォイ騎兵連隊はそこを出発すると、エレロ峡谷とぺジオ峡谷の出口に第2線を形成すべく、ヴィラノヴァ=モンドヴィに布陣した。10日、ダルジャントーはキウザに司令部を移し、3日後にはペジオ河付近に戦力を集め、フラボサとキウザに哨戒線を残したうえで、オーストリア擲弾兵をジェッソ左岸のベアタンジェロ(マドンナ=デリ=アンジェリ聖所)へと派出した。モンドヴィの砦と町には予備の2個中隊のみが残され、周辺地域の防衛はデレラ将軍が率いる民兵及び武装した民間人に委ねられた。彼らは後にマセナが指揮を執るイタリア方面軍右翼と対峙することになる。

 このイタリア方面軍右翼師団はサオルジオとテンダ峠征服のため一時的にマッカール師団とともに戦っていたが、呼び戻されることになり5月9日には移動を始めた。数日後、アメル将軍がニース伯領への連絡線が通るオネーリャ公領とドルチェアクア侯領の指揮を執り、ピジョン将軍はカルニノでヴィオツェーネとメンダティカ方面の指揮を執った。彼はエレロ峡谷とペジオ峡谷の源流域を監視し、第56半旅団がとどまって宿営しているベルトラン山などを経てマッカール師団との連絡も保持した。
 ポンテ=ディ=ナヴァとオルメアには師団司令部と5~6個大隊が予備を形成し、コルサーリャ川(モンドヴィ東方を流れる川)の水源に当たるオルメアの山地と重要なテルミニ峠を守っていた。最後にラアルプ将軍が4個大隊とともにガレッシオへ向かい、第21半旅団がサン=ベルナルド峠を占拠することでその背後をカバーした。彼らは活動範囲を、第99半旅団第3大隊が引き続きとどまっていたロアーノまで延伸し、さらにタナロの左右両岸の口を占拠した。
 命令に従ったラアルプは、5月15日にまず前哨線を右岸のブリック=デラ=ゾッタ(ソッタ山)とサン=ジュリッタ教会(不明、フォンタナ=ディ=サンタ=ジュリッタか)へ、また左岸のサン=ジャコモ峠、プラト=ロトンド峠、そしてチェルトーザ=ディ=カゾット(カゾット峡谷にある建物)へと押し出した。彼らはそのままランゲ地域にあるモンジア(プラト=ロトンドに源流がある川)、カゾット、コルサーリャの森がちな峡谷に広がり、複雑な地形での戦闘を強いられた。
 チェヴァ守備隊から引き抜かれた少数の兵に支援された民兵の分遣隊が、ヴィオラ(モンジア峡谷近く)、パンパラト(カゾット峡谷)、フラボサ(コルサーリャ左岸)やその近辺の拠点を占拠していた。彼らはいずれも18日に300人の農民に増援され、チェルトーザを攻撃することになった。翌朝、民兵1個中隊がターリャンティ(不明、カゾット峡谷左岸か)でフランス軍の奇襲を受け、コルサーリャの部隊はナヴォネラ峠(カゾットとコルサーリャの間にある、ナシオ山北方)を捨てて左岸のコラ=ディ=モラ峠まで後退。カゾット峡谷の部隊もパンパラトからロブレント南方のセラ=パンパラトの高地まで動いた。
 一方、モンドヴィ地域では総動員が行われ、その増援を日々受けていたデレラ将軍は5月20日に攻勢に出るよう命令を受けた。ただ書類上は2万7000人に達したこの総動員も、実際に武装していたのはたった7000人だった。その攻撃も上手くはいかず、フラボサで指揮を執る騎士ニコリスはナヴォネラ峠を再占領したが、バヴァ大尉はロブレントの戦力に対してパンパラトまで行軍するよう説得できなかった。
 同日と翌日、マセナはラアルプ将軍を増援し、チェルトーザ正面まで移動するよう命じた。結果、21日には共和国軍がナヴォネラ峠から敵を追い払い、後者はフラボサまで混乱して退却した。左翼でロベール山を経てテルミニ峠まで連結したラアルプは、中央ではカルディニ=ディ=ロブレントに、右翼はパンパラトに到着した。騎士バヴァはセラなどを保持していたが、翌日には攻撃を受け、23日にはロブレントまでの後退を余儀なくされた。25日までそこにとどまった彼はそれからモンタルド=ディ=モンドヴィへ後退した。22日にダルジャントーがモンドヴィに送っていた第4擲弾兵大隊の2個中隊がその村を占拠しており、同大隊の残る半分はフラボサに向かっていた。一連の失敗の結果、総動員されたこれらの地域の住民たちは家から動かず、町の住民は武装を拒否した。
 陽動を行うため、デレラ将軍はチェヴァの指揮官であるフンブルク大佐に対し、農民をムリアルド(ボルミダ河畔)、バニャスコ、ヴィオラに集めるのを手伝うよう求めた。彼らは3つの縦隊でタナロ峡谷の敵拠点を攻撃することになった。ヴィオラの部隊で構成する第1縦隊は、守備隊から派出された42人の兵い支援され、フランス軍をサン=ジャコモ峠からプラト=ロトンドの塹壕まで押し戻したが、峡谷まで下ろうとはしなかった。
 その峡谷内では第2縦隊が右岸のサン=ジュリッタを奪おうとしており、チェヴァの増援は9時間の行軍の後に午後2時にこの地の前面に到着した。彼らは民兵に続いて交戦を強いられたが、強力なこの拠点は難攻不落のようであり、塹壕を守るフランス第3軽半旅団の第3大隊からの激しい射撃によってすぐ足止めされた。さらにペルロ(バニャスコ北東か)に到着すると期待されていたムリアルドの第3縦隊(ピエモンテ4個中隊)がやってこず、ツォッタ山(サン=ジュリッタ東)のフランス軍が連合軍の側面を突いたため、彼らは大混乱で逃げ出した。冷静だった正規兵はかなりの損害を被った。
 連合軍の反撃を跳ね返すのに成功したラアルプはモンジア峡谷でも前進することを決断した。5月28日、彼はまず左側面をカバーするためにモンタルドを占拠し、コルサーリャ右岸を確保。続いてカゾット峡谷右岸にあるモナステロロ=カゾットを勝ち取った。それから右翼へ戻ると6月3日午前5時に4個縦隊でヴィオラにいるピエモンテ軍へと向けて行軍した。フランス軍は彼らを押し戻し、前哨線をバニャスコと、その北西にあるバッティフォロ、スカニェロまで押し出し、そこからチェヴァとモンドヴィ間の連絡線を脅かすに至った。
 敵の急速な前進とモンドヴィに対する攻撃を恐れたデレラ男爵は、5月29日にチェヴァの1個大隊を呼び寄せた。だが国王は彼を呼び戻し、ダルジャントー将軍に対して旅団の一部をモンドヴィに向かわせるよう命じた。国王がこの方面に慌てて部隊を回さなかったのは、ロンバルディアからなかなか動こうとしなかったオーストリア軍が、ようやくこの戦場へと接近してきたのを知っていたからだった。
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