1794年夏秋・イタリア 5

 1794年のブオナパルテの作戦計画を紹介したので、これからは実際に戦争がどのような経緯をたどったのかを見てみよう。いつものようにKrebsとMorisのCampagnes dans les Alpes pendant la révolution, 1794, 1795, 1796を活用する。同書の第1章では以前にも書いたようにイタリア方面軍の春季戦役を紹介しており、続く第2章(p78)はアルプス方面軍による小サン=ベルナール峠モン=スニ峠の占拠を中心に触れている。
 ただしこの2地点の奪取は、ブオナパルテが計画を立てたイタリア方面軍とアルプス方面軍の合同計画の範囲からは外れており、今回は取り上げない。基本的にイタリア方面軍と、アルプス方面軍の中でもストゥラ峡谷からカステルデルフィノ峡谷に至るまでの範囲での動きを紹介しよう。これらの地域の動きは、実はあまりとりとめのない散漫な行動がしばらく散発的に続く状態になっていた。

 コッリ将軍がサオルジオ戦線の放棄を強いられ、ド=ヴァン男爵がせめてアルプスの主稜線を確保しようと考えていた5月初頭、ピエモンテ軍で彼らのすぐ右翼にあるストゥラ峡谷を守っていたのはツィマーマン将軍率いるたった1400人だった(p101)。彼はアルジェンテラに司令部を置き、さらにレ=グランジェの上流に前年に建造した4棟の大きなバラックに500人の兵を配置し、フランス国境のマダレーナ峠方面から来る敵に備えた。また4月28日にサンタナの小屋とロンバルダ峠に送られた分遣隊の代わりに400人がヴィナディオに配置され、残りはデモンテの守備隊となった。
 アルプス方面軍でストゥラ峡谷の敵と対峙していたのはヴォーボワ将軍だった。彼は20日以降、トゥルヌーからラルシュまでの車両が通れる道の修復を開始。30日にはアルペット山頂(場所は不明)に哨戒線が置かれ、5月3日には参謀副官ラコンブと工兵大尉シャンタヴォワヌが率いるオード第1大隊が敵の偵察部隊をマダレーナ峠から押し戻した。7日にはフランス軍の偵察部隊がオロナイエ山(マダレーナ峠北東)に到着。フランス軍の攻撃本格化を予想したツィマーマン将軍はアルジェンテラの守備隊を増援し、大砲8門で武装させた。だがイタリア方面軍の進撃を受け、彼は急いで退却を強いられた。
 イタリア方面軍左翼のガルニエ師団と平行するようにセリュリエ将軍はティネー峡谷とブイユの台地(ティネーの西岸)へと前進し、5月初頭には前衛部隊をヴァルドブロール(ティネーとヴェジュビーの間)経由でモリエール峡谷へ、またルビオン(ブイユの東)及びヴァレット峠(モリエール北西)を経てイゾラまで、それぞれ押し出した。ピエモンテ軍の状況を脱走兵から知らされた彼は5月10日朝、ロンバルダ峠とサンタナ峠の敵を奇襲し、士官1人と何人かの兵を捕らえ、残りを追撃した。彼らはヴィナディオから送られてきた分遣隊の周囲、チアペンティあるいはバラコーネと呼ばれる隘路で集結し、フランス軍はサンタナまで引き上げた。
 セリュリエの動きはストゥラ峡谷を側面から脅かす格好となり、上に示したような峡谷水源付近に敷いたピエモンテ軍の陣地は迂回されそうになった。加えてコッリがボルゴ=サン=ダルマッツォまで退却し、戦力の集結が必要になったため、ツィマーマンは夜の間に退却を始め、16時間後の5月11日にはデモンテに到着した。ただし民兵はバリカーテにとどまり、ヴォーボワがベルゼツィオを奪取するのを妨げた。さらにストゥラ峡谷内のヴィナディオ、プラトルンゴ高地、ポンテベルナルドにも哨兵を配置した。
 ストゥラ峡谷北方のマイラ峡谷と、さらに北にあるヴァライタ(カステルデルフィノ)峡谷の源流域にはプロヴェラ将軍が1400人を率いて布陣した。この地域は雪のため突入が困難だったが、5月8日になるとキアナーレ(カステルデルフィノ北西)の守備隊をフランス軍が北西ギユ峡谷方面から脅かした。この攻撃は失敗したが、目的はさらに北方にあるルゼルナ峡谷のミラブクに対して行われた移動を覆い隠すためのものであり、この移動自体は成功した。
 さらに北方にあるモン=スニ峠も占拠され、5月中旬にはイタリア方面軍、アルプス方面軍はピエモンテ国境にある稜線を完全に押さえた。両軍合わせて10万人の兵が連携してピエモンテの平野へと出撃する条件が整ったわけで、それを見越したイタリア方面軍の派遣議員は早くも4月28日にはパリに宛ててこの攻撃を進言していた(p109)。同時に彼らはブオナパルテが立案した作戦計画について話し合うため、コルマールで会議を行うようアルプス方面軍の同僚にも要求していた。
 コルマールの会議でこの計画が承認されたのは前にも書いた通りだ。計画は5月21日に公安委員会に送られたが、それより前の6日時点で同委員会は既にピエモンテに対する両軍の連携に同意していた。しかしブオナパルテが最初に記した(複雑な)計画を実行するのに必要な兵や装備を集めるにはいくらかの時間が必要だった。その時間を利用してフランス軍は新たな部隊の訓練を行ったが、その間にオーストリア=サルディニア軍も自分たちの再編に取り組んでいた。
 ブオナパルテが作戦を想定していたヴィゾ山(ヴァライタ峡谷とルゼルナ峡谷の間)からチェヴァまでの広大な地域について、連合軍側で防衛の責任を負っていたのはコッリ男爵だった(p115)。だがテンダ峠から退却してきたばかりの彼の下には2万人しかおらず、その兵力で彼は右翼のヴァライタ、マイラ、ストゥラ峡谷、中央のジェッソ、ヴェルメナーニャ、ぺジオ峡谷、そして左翼のランゲ地域からタナロ河畔までの広大な地域を守らねばならなかった。このうち右翼方面では、この時期に主に戦いを行っていたのは農民たちや民兵だった。
 ヴァライタとマイラの源流域を守っていたのはプロヴェラ将軍だった。彼の兵力は少しずつ増援されており、5月14日には3500人まで増えていた。防衛線はヴィゾ山からエルヴァ山(ベリーノ峡谷南方)まで延びており、キアナーレ峡谷とベリーノ峡谷の道を塞いでいた。ここには古い塹壕があったが、あまりに長かったため、いくつかの小さな堡塁に取り換えられた。サヴォイ連隊の伯爵ゾナーツ少将は「ヴィア・ヌヴァ」と呼ばれる連絡線をカバーする役を担った。この線はヴァライタとストゥラを結ぶもので、いくつかの大砲で守られているケイナ橋(場所不明だがアチェーリョより下流)とアチェーリョでマイラを渡っている。彼が使える少数の兵はいくつかの拠点に散らばり、緊急時に武器を取ることになっていたこの地域の住民を支援することになっていた。
 ストゥラ峡谷の住民たちも共和国軍による略奪の試み後には、同じような体制を取った。ヴォーボワ将軍はアルジェンテラを奪い、マイラ方面(北方)をいくつかの分遣隊でカバーし、偵察をベルゼツィオやバリカーテまで押し出した。しかしこの地に残っていた民兵は5月16日に増援を受け、フランス兵1ダースを捕虜にした。一方、13日にはロング峠(サンタナ峠西方角)からサン=ベルヌイ(サン=ベルノルフォ)に到着していたセリュリエ旅団は、そこからピアンケまで、またサンタナからヴィナディオまで下っていった。後者は農民たちの手でプラトルンゴで足止めされ、キアステラ山(プラトルンゴ南西)の東斜面で宿営した後でサンタナ小礼拝堂に強力な守備隊を残してイゾラまで戻った。もう1つの縦隊も17日にはサン=ベルヌイに、翌日にはゲルチアとロング峠の小屋を焼いた後でティネー峡谷に戻った。
 セリュリエの攻撃によって背後を突かれる恐れがあったバリカーテのピエモンテ軍は24時間にわたってその拠点を放棄した。しかしこの攻撃を知らされていなかったヴォーボワ将軍の部隊はアルジェンテラにとどまり、彼らの無為を見て大胆になった農民たちはストゥラ上流で攻撃に出る許可を求めた。デモンテ司令官の伯爵クリスト・ド=ザンツ少将は、成功を疑いながらも可能な限り彼らを支援した。彼はサンブコとムロ峠間に士官1人と兵20人を送るようバリカーテの拠点に命じた。またそこに向けて25日には分遣隊を差し向けたが、彼らは雪のためジアスでの宿営を強いられ、それから30日にアルマ(カント)峡谷の小屋まで引き下がった。彼らはそこで、攻撃に参加するよう招請されたマイラの住民と連絡を取ることを期待していた。
 5月24日夕、かなり多くのストゥラの農民たちが、騎士ボナドナ及びモンフェラート連隊の30人の志願兵、及びクリストとクルテンの分遣隊とともデモンテを出発した。翌朝、彼らがバリカーテに到着した少し後に、300人から400人のフランス兵がマスケット銃の射程内に接近してきた。兵の一部は彼らに向かって突進してバラックまで追撃し、フランス軍はその陰に隠れながら部隊を展開した。だが早々に弾薬を使い果たした農民たちはそれ以上行動しようとはしなかった。マイラからスカレッタ峠(アルジェンテラ北東)を経て到着したマイラ峡谷の住民たちの姿を見なかった右翼の民兵たちは、雪で足止めされ、ヴォーボワ旅団の擲弾兵4個中隊を前にして逃げ出した。残る共和国の兵も素早く行動し、これら即席の兵を蹴散らすとアルジェンテラを再占領した。ピエモンテ軍はバリカーテにとどまり、サンブコとヴィナディオの哨戒線を経てデモンテと連絡を取り、ボルゴ=サン=ダルマッツォ宿営地の右翼をカバーした。
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