1794年夏秋・イタリア 4

 ブオナパルテが1794年6月に記した2度目の作戦計画の続き。アルプス方面軍に対する細かい指示の後に、彼はより大所高所からの考え方を示している。2個師団はストゥラ峡谷と、グラナ、マイラ、ヴァライタの源流域を奪い、デモンテとカステルデルフィノに到達するのが目的である。彼らは相互にカバーしあうが常にストゥラの第1縦隊が最も前に出て、そこから順に左斜め後ろに各縦隊が展開する。
 もしストゥラ師団の前に障害が現れれば、カステルデルフィノ師団がそこに襲い掛かるふりをして障害を取り除く。もし後者の前に障害が出てきたら、彼らは防勢を取ってストゥラ師団の成功を待つ。ただし敵がストゥラ師団の側面を迂回しようとした時は攻撃に出る。デモンテ近辺を押さえればカステルデルフィノは敵にとって意味のない地点となるため、そこを無理に奪ってはいけない。以上の解説から、ブオナパルテが2個師団の有機的な連携に注意を払っていた様子が窺える(Correspondance de Napoléon Ier, Tome Premier, p47-48)。
 イタリア方面軍は3個師団が攻撃に参加する。バーニ=ディ=ヴィナディオ師団は第1縦隊2000人、第2が1000人で、作戦開始3日目にストゥラ川とコルボラント川の合流点にあるピアンケへ前進。4日目はストゥラ右岸をさらに下る。第2縦隊は後方に予備として控える。もし4日目にストゥラ師団がデモンテに到着し、カステルデルフィノに敵がいると分かれば、この師団はストゥラ師団に合流する。そうでなければこの師団は5日目にデモンテとクネオの連絡線を断つべくガイオラに進み、第2縦隊は予備にとどまる。
 フィネストル峠師団は第1縦隊が2000人、第2が4000人、第3が1000人で、うち最初の2つは3日目にヴァルディエリに進む。もしバーニ=ディ=ヴィナディオ師団がストゥラ師団と合流しているなら、4日目に第1縦隊はガイオラに向かい、第2はその右翼をカバーする。5日目には第2縦隊がストゥラ師団とともにヴァロリアーテを攻撃する。ヴァロリアーテを奪い、デモンテを包囲し、そしてカステルデルフィノを味方が成功裏に占拠すれば、この師団はジェッソ師団と合流する。
 ジェッソ師団は1万4000人の歩兵及び騎兵2000騎の第1縦隊と、4000人の第2縦隊から成る。作戦初日にこの師団はロビランテへ移動し、2日目にボルゴ=サン=ダルマッツォに到達してロッカスパルヴェラの橋を奪う。第2縦隊は右翼に展開して第1縦隊とオネーリャ師団の間を占拠し連絡線を確保する。
 イタリア方面軍の作戦についてブオナパルテは、クネオを包囲するふりをし、敵をストゥラとジェッソ間から追い払い、右翼をあらゆる攻撃から守るのが目的だとしている。そしてクネオに対する偵察を行い、デモンテ包囲をカバーし、敵軍を牽制するためあらゆる適切な配置をするよう求め、それがカステルデルフィノからタナロへと至る全戦線の支点となる部隊に必要だと書いている(p49)。
 さらにその後で、5月の命令と同様に砲兵、補給、車両、救急車両について個別に説明する形で、この命令は締めくくられている。

 以上、ここまで説明してきた2つの命令はほんの1ヶ月ほどの期間を置いて書かれたものだが、そのわずかな間にここまで違いが出てくるものかと感心させられる。5月の計画はよくある革命戦争期の作戦という印象だが、6月の計画ははるかにすっきりとしており、立案者の意図が明確で、かつ各縦隊の自主性を大幅に確保した内容となっている。要するに柔軟で実用性の高い計画になっているように見えるのだ。
 もちろん、以前と同じところもある。いくつもの縦隊に分かれて部隊が移動するところはいかにも革命戦争的だし、最も戦力の大きなジェッソ師団が結局のところ陽動にとどまっているのも同じ。5月当時に比べてストゥラ峡谷でフランス軍がかなり進撃していたため、峡谷の奪取に必要な作戦が大幅に省略できているのも、作戦を簡素にまとめられた一因だろう。また同じ計画のリライトという面もあるため、作成者も慣れたのだろう。この1ヶ月間の活動によってブオナパルテに対する両軍や派遣議員の信頼が増し、内容について彼が自由に書ける部分が増えた可能性もあるだろう。
 それでも24歳の限られた経験しかない若者が、たった1ヶ月でここまで作戦の実用性を同時代と比べても高い水準まで引き上げたのは刮目すべきだろう。印象として、1つ目の作戦は同時代の別の作戦をほぼそのままなぞったのに対し、2つ目は実際に作戦に従う側のことを考え、自分なりに必要とされる変更を様々に付け加えたように見える。
 実用性が向上したと思える理由の1つは、5月の作戦で次々と出てきた細かい地名がかなり省略されている点だ。本当に必要な場所(デモンテ、カステルデルフィノ台地など)以外については、広い範囲を指示するだけで細かい地名には触れていない。その典型例がマイラ峡谷やグラナ峡谷といった峡谷単位や、それを見下ろす山地といった範囲で行動を命じている部分だ。それぞれの地域で具体的にどの場所に連合軍が展開するかは、事前に予測するのはほぼ不可能。であれば細かい対処は個別の縦隊指揮官に任せ、計画自体は「峡谷を守れ」「山地に展開しろ」レベルにとどめた方が実用的なのは確かだろう。
 各縦隊の左右の動きをできるだけシンプルにしているのも、実際に部隊を動かす側にとってはかなり行軍が楽になる。山岳部での作戦行動であるため、左右への動きを実現するためには峡谷と山脈を何度も越えなければならない。防御拠点にいる敵を迂回するためにはそうした行動も時に必要なのだろうが、かといってやりすぎれば移動のために多大な時間がかかるうえに兵の疲労を招き、作戦にとってむしろ支障となりかねない。実際、春季戦役のフランス軍は途中で何度も攻撃を休む期間があった。複雑な作戦行動で左右に振り回された各部隊が休息と再集結をするために時間が必要だったからだ。
 複数のケースを想定する場合についても違いは明白だ。5月の命令ではその時々の様々な条件によって縦隊が右へ行ったり左へ行ったりしているが、6月の命令では注意すべきなのはカステルデルフィノ方面にいる敵の状況のみに絞り込んでいる。ここに敵の大きな障害があれば全軍は左へシフトし、いなければ右へシフトするという、シンプルな発想に基づく作戦をブオナパルテは立案した。もちろん個別の縦隊にとっては面倒な作戦を強いられる場面もあるが、面倒なのは作戦の実行過程であり、判断については分かりやすい条件のもとで下せるようになっている。
 そして、アルプス方面軍とイタリア方面軍に向けた個別命令を記した後に載せている考え方の紹介(Observation)の部分が、何より大きい。5月の命令もそうだし、あるいは他の革命戦争期の命令でもそうなのだが、細かい指示がやたらとたくさんある一方、そもそも全体として司令官が何を目指しているかについての説明が不足している。一方、この6月の命令ではどのような全体像を描きながら作戦が立案されたかについて簡潔に説明されており、個々の縦隊の果たすべき役割がそこから帰納的に導き出せる格好になっている。
 細かい命令ばかりが並んでいると、その命令が想定している状況が少しでも変化した時点で、個別の縦隊指揮官は何をしていいか分からなくなる。結果、オスコットの戦いのように、縦隊ごとにやたら積極的な部隊、言われた通りのことしかしない部隊、そもそも動かない部隊などが生まれ、相互の連携がすぐに崩れてしまうのがこの時代の特徴だった。一方、ブオナパルテの6月命令を見れば、想定外の事態が起きても基本的な考えは示されているので、その考えに基づいた行動をすれば連携が取りやすくなる。
 そうした変更を、PDCAサイクルを回すのではなく、そもそも作戦が実行されていない段階で取り入れることができている時点で、ブオナパルテはただ者ではないと言うべきだろう。さすがはデータが示す史上最高の将軍。彼がこの時代において一歩抜きんでた存在だったのはおそらく事実だ。
 若くして恐るべき才能を示したブオナパルテだが、ではその後の彼はどうなっていったのか。自身の作戦の背景にある考え方について部下に説明する作業は、おそらく最後の時期まで続いていた。例えばワーテルロー戦役中の1815年6月16日、彼はネイに対してフランス軍を「両翼と予備に分け」「状況に応じてどちらか一方の翼側に移動する」(Correspondance de Napoléon Ier, Tome XXVIII, p335)と述べている。24歳の時に記した作戦計画と同様、何を目指しているかについての知見共有を図ろうとしていたわけだ。
 ただ、1794年に出した大雑把な命令については、後の時代になるほど減っていった印象がある。革命戦争期よりも短時間で命令をやり取りするシステムを作り上げることで、現地指揮官の裁量に委ねざるを得ない部分を減らしていったのが、彼の戦い方だったからだ。その結果が、例えばバウツェンの戦いでネイに与えた命令などに表れている。状況を把握してから命令が現場に届くまでの時間を短くすることで、命令の実効性を損なうことなく細かい命令を出すのがナポレオンのやり方だった。実際には部下の自主性を損なうことで、マイナスの影響も及ぼすことになったのだが。
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