1794年夏秋・イタリア 3

 1794年5月にブオナパルテが立案した計画の続き。前回はアルプス方面軍に対する指示を見たが、彼はこの攻撃を少しでも楽にするための策も講じていた。Correspondance de Napoléon Ier, Tome Premierでは「敵の隙を突く動き」として、アルプス方面軍が動き出す前にイタリア方面軍のジェッソ師団を行動させ、それをもってピエモンテ軍に対する陽動にしようと考えていた(p37)。
 イタリア方面軍は3万人と騎兵全部をこの作戦に投入する予定だった。この軍の両翼を守るため、まず左翼にはサン=テティエンヌ=ド=ティネーとストゥラ峡谷の間にある各峠を占拠するために4000人を配置した。右翼部隊はチェルトーザ=ディ=ペジオを占拠し、テンダ峠から平野に向かうヴェルナンテと、連合軍の拠点があるモンドヴィやカルの間の道を遮断することになっていた。さらに右翼師団は必要ならロアーノから撤収し、タナロ上流からリモーネの付近に戦力を集めることも想定していた。
 攻撃部隊は4個師団から成っていた。主力は歩兵1万4000人、騎兵2000騎のジェッソ師団で、うち歩兵1万人と騎兵2000騎が第1縦隊、歩兵4000人が第2縦隊を形成していた。名前はジェッソ師団だが、彼らはジェッソ河ではなくその東にあるヴェルメナーニャ川に沿って平野部へ進出することになっていた。作戦開始初日、第1縦隊はロビランテまで進出し、2日目にはボルゴ=サン=ダルマッツォに到着し、敵に対する陽動としてストゥラ川に架かるロッカスパルヴェラの橋を奪うことになっていた。ただし、敵の数が多ければ橋から撤収し、ボルゴ=サン=ダルマッツォに集結するよう命じられていた。第2縦隊は主要街道の右翼に展開し、第1縦隊の側面を守る。
 2つ目はフィネストレ峠師団6000人で、彼らは初日にジェッソ峡谷のヴァルディエリまで下り、哨戒線をアンドノへ押し出す。そして基本的にはジェッソ師団の指揮下に入り、もしジェッソとストゥラ間に敵がいれば両師団が協力して彼らをストゥラ対岸まで押し戻す。また危険を冒さないで済むのならルルメ橋(場所不明)も奪うことになっていた。そのまま5日目まで経過し、アルプス方面軍がヴァロリアーテを攻撃できるようになれば、フィネストレ峠師団はこの地点を右翼側から一緒に攻撃し、その後で再びボルゴ=サン=ダルマッツォに戻る。
 ヴィナディオ師団4000人は作戦開始5日目にサンタナ峠を出発し、ストゥラの支流に沿ってヴィナディオまで下る。6日目にはサンブコとデモンテの間の連絡線を遮断し、そしてアルプス方面軍がモンタニェッタ、サンブコ、ヴァロリアーテを奪ったところでジェッソ河畔のヴァルディエリへ移動し、ジェッソ師団の指揮下に入ることになっていた。最後にサン=ダルマ師団2000人は、前回も書いた通り2日目にサン=ダルマでアルプス方面軍のストゥラ右翼師団と合流し、以後は彼らとともに行動する。
 以上がイタリア方面軍に対するざっとした命令だ。ボルゴ=サン=ダルマッツォ付近に向かう最初の2個師団だけで2万人以上というかなり大規模な兵力なのだが、それらを単純に陽動のためだけに使うという、考え方によっては贅沢な、悪く言えばとても効率の悪い作戦に見える。またヴィナディオ師団は読んでも分かる通りほとんど戦闘に参加することを想定されておらず、ここに配置した4000人は作戦中を通じてほぼ遊兵と化している。
 この他にこの命令では補給、宿営用の設備、道路の開削に必要な工兵の配置、砲兵の展開といったものが記されている。いずれもなかなか興味深い文章だし、こうした細部への配慮をしているあたりにブオナパルテの有能さが表れているのだろうが、ここでのテーマからは離れるので省略する。
 結論として言うなら、Fabryがオネーリャ攻撃計画について言っていたように、この作戦も後のナポレオンらしさがあまり感じられない計画だ。イタリア方面軍とアルプス方面軍の境界線に対する妙なこだわり、やたらと細かく分断され、左右へ目まぐるしく移動させられる各縦隊、戦いやすい平野に出てきた大軍が陽動のみにとどまり、山中の小規模な部隊による攻撃が中心になっている点、そして前にも指摘した通り、状況の変化をあまり想定しているように見えない詳細な指示など、軍事の天才が書き上げたにしては違和感の多い作戦計画となっている。
 何より感じられるのは、アルプス方面軍に対する妙な気遣いだ。テンダ峠から出撃した部隊がストゥラ峡谷の出口を押さえてしまえば、峡谷内にいるピエモンテ軍はとにかくそこから逃げ出すしか手はなさそうなのに、わざわざアルプス方面軍が敵を攻撃する機会を与えているように見える。ヴィナディオ師団が5日目に至るまで全く動かないところなど、アルプス方面軍の作戦が進むまで遠慮して脇に控えているかのようだ。
 後にセント=ヘレナのナポレオンは、アルプス方面軍との会議で「意見の相違に圧倒された」と記している。もしかしたら、彼らの立場に配慮した作戦でなければ協力が得られないという経験をしたのかもしれない。またこの計画があくまで派遣議員名で出されたことも既に指摘している。である以上、作戦の内容について派遣議員たちがまったく口出ししなかったとも思えない。各軍に送られていた派遣議員間でライバル関係が存在していたことは知られており、両軍が連携する作戦を立案する際にはそういう点まで考えなければならなかったのではなかろうか。まだ大して権力のない若いブオナパルテが、調整のために振り回された結果がこの作戦なのかもしれない。

 若さゆえの未熟さか、あるいは権限のなさが理由なのか、あまり大胆さが見られないブオナパルテの5月の作戦計画は、しかし諸々の事情からなかなか実行に移せなかった。そのため改めて6月に「ピエモンテ戦役開始のための第2次準備作戦計画」が作成されることになった(Correspondance, p44)。今度の計画はまず冒頭で国内の安定確保と海岸線の防衛計画が記されており、アルプス方面軍とイタリア方面軍による合同計画はその後に記されている。
 今回の計画では合同作戦に参加するアルプス方面軍の数は1万6000人まで減らされ、師団数も2つにとどまっている。うちストゥラ師団は3つの縦隊に分かれ、第1縦隊が4500人、第2が3000人、第3が1500人となっていた。彼らの攻撃はやはりイタリア方面軍が動き出した後の作戦開始3日目からとなっていたが、実はこの時点でストゥラ峡谷は既にバリカーテまでフランス軍の手に落ちていたため、内容もかなり変化している。
 第1縦隊は3日目にまずサンブコへ、4日目にはデモンテへ向かう。5日目からはアルプス方面軍左翼が展開するカステルデルフィノや、その南方にあるマイラ峡谷の情勢によって行動が変わる。もしこれらの方面に強力な敵がいたら、第1縦隊はイタリア方面軍のパーニ=ディ=ヴィナディオ師団3000人と合流し、一方で第2縦隊の代わりとして1500人を派出する。結果、第1縦隊の戦力は6000人となる。もしカステルデルフィノ方面で特に障害がなければ、第1縦隊がデモンテ正面に到着する前に彼らには第2縦隊からの1500人が加わり、やはり6000人の戦力となる。
 その第2縦隊は3日目にグラナ峡谷を見下ろす山地に展開し、4日目にはこの方面から第1縦隊が迂回されることのないよう前進する。5日目、彼らは第1縦隊及び(必要なら)イタリア方面軍の1個師団と連携し、デモンテを包囲するためヴァロリアーテの高地を攻撃する。もしカステルデルフィノに敵がいる場合、この縦隊はそちらに向かって敵の背後を突き、第1縦隊から派出された1500人が彼らの代わりを務める。カステルデルフィノ支援の必要がない場合は、1500人を第1縦隊に送り出したうえでヴァロリアーテ攻撃とデモンテ包囲のために必要な移動を行う。
 第3縦隊は背後に残り、残る2個縦隊の予備となる。彼らは連絡線確保のためストゥラ峡谷内の拠点を占拠し、工兵の活動を守り、橋を修復し輸送隊の護衛に当たる。
 2番目の師団であるカステルデルフィノ師団は3000人の第1縦隊と4000人の第2縦隊から成る。3日目に第1縦隊はマイラ峡谷へ至る各峠を奪取。4日目にはマイラの敵がストゥラ第2縦隊やカステルデルフィノ第2縦隊を迂回しないように部隊を展開させる。5日目、もし第2縦隊が敵の抵抗に遭わず、カステルデルフィノの高地に敵がいないのなら、高地を占拠するのにふさわしい動きをする。敵がまとまっている場合にはストゥラ師団第2縦隊が応援に来るため、彼らと連携して台地を包囲し敵を撤収させる。
 第2縦隊は3日目にカステルデルフィノ台地と向かい合っている高地へ移動する。彼らは常に第1縦隊の斜め背後にいて、彼らを救援できる位置にとどまる。4日目には情報に応じてカステルデルフィノの台地を占拠すべく進み、第1縦隊がそれを支援する。ストゥラ師団の師団長は第1縦隊と、カステルデルフィノ師団の師団長は第2縦隊とともに行動する。
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