1794年夏秋・イタリア 2

 1794年5月と6月にブオナパルテが立案した作戦とはどのようなものだったのだろうか。実際に書簡集に載っている作戦計画を読むと、どちらも大きな目的としていたのがストゥラ=ディ=デモンテ峡谷の占拠と、クネオ南西にあるデモンテの包囲にあったことが分かる。5月初頭までに既にイタリア方面軍はテンダ峠を占拠し、そこからヴェルメナーニャ峡谷を経てクネオへと下る道を進むことが可能になっていた。同じようにアルプス方面軍にもピエモンテの平野部へと至る道を確保させようとするのが、この作戦の主眼だったと思われる。
 実際、5月の命令を見ると、題名のところに「ピエモンテ戦役開始のための第2次準備作戦」(Correspondance de Napoléon Ier, Tome Premier, p33)との文言がある。第1次準備作戦がオネーリャ、サオルジオ、タナロ上流やリモーネに対する攻撃であるとも記されており、これらイタリア方面軍の作戦と同じことをアルプス方面軍でも行い、両軍が合流して戦闘できるようにする準備を進めるのが狙いだったようだ。
 ただ、合流するうえでは両軍の境界線にあるストゥラ峡谷が適切と記されている部分(p34)は、後のナポレオンの作戦を考えると想像力に欠けているようにも見える。1800年に彼がライン方面で全兵力を最右翼に集めて敵の背後に回り込む作戦を立案したことがあるのだが、そうした大胆な作戦に比べると単に2つの軍の境界線に当たるというだけの理由でストゥラ峡谷を合流点に定めるのはかなり地味だ。1794年時点のブオナパルテ准将には、クーデターで政権を握った後の1800年の第一執政ボナパルトほどの権限がなかったのが理由なんだろう。
 作戦を読むとブオナパルテは、イタリア方面軍で陽動をかけつつ、アルプス方面軍に目標を達成させるという手順を考えていたことが分かる。このうちアルプス方面軍は主攻軸を担うストゥラ峡谷の部隊を側面で支えるべく、まずはヴァライタ川が流れるカステルデルフィノ峡谷の源流にあるロンジェット峠などを4000人の兵で監視。またヴァライタ川の南方を流れるマイラ峡谷の源流であるモーラン峠(マリ峠の近く)と、その南方にあるサウトロン峠などにも4000人を配置した。これらの部隊は主攻軸を担う部隊の前進を確認たうえで、リスクを冒さない範囲での前進を認めている。
 主力が展開するストゥラ方面には3個師団が配置された。マダレーナ峠を経由してフランス領からピエモンテ領へ進むアルジェンテラ師団は4000人で、第1縦隊1000人と第2縦隊3000人に分かれる。彼らは作戦開始3日目にトゥルヌーを発してマダレーナ峠を支配し、4日目には第1縦隊を残して第2縦隊がベルゼツィオまでストゥラ峡谷を下る。バリカーテの右岸にあるルピエールの山を味方が占拠したのを確認したところで、彼らはストゥラ左岸へ渡り、セルヴァーニョを経てモンタニェッタ峠攻撃に参加する。その後はバリカーテ、ルピエール、モンタニェッタにとどまり、前進した他の部隊の連絡線を守る。
 ストゥラ右翼師団は5000人の戦力で第1と第2縦隊がそれぞれ2500人で構成される。彼らは作戦開始2日目にサン=ダルマ峠(おそらくティネー支流にあるサン=ダルマ=ル=セルヴァージュ付近)に移動し、そこにいるイタリア方面軍の1個縦隊と合流し、以後第1縦隊は彼らとともに行動する。3日目には第2縦隊がアルジェンテラへと移動してそこにいる連合軍の背後を突き、第1縦隊はその右翼に展開してルピエールとバリカーテの敵と対峙する。
 4日目、第1縦隊はサン=ベルナルド橋のある高地(場所は不明だがルピエール付近か)に異動し、アルジェンテラ師団及び第2縦隊と合流してルピエールとバリカーテを奪う(このあたりはアルジェンテラ師団への命令と矛盾している気がする)。第2縦隊は基本背後のサン=ダルマ高地にとどまり、アルジェンテラ師団がベルゼツィオに到着した後でルピエールを側面から攻撃する。5日目、第1縦隊はさらに下流のピエトラポルツィオでストゥラを渡り、ストゥラ左翼師団によるモンタニェッタ攻撃を支援する。彼らの目的はモンタニェッタとサンブコ山(サンブコ村付近の山か)との連絡線の遮断にある。第2縦隊は彼らの背後でストゥラ右岸への連絡線を守る。
 6日目と7日目には、モンタニェッタを支配したところでストゥラ左翼師団がサンブコ山を占拠するのを助ける。もし敵がストゥラの北を流れるグラナ川やマイラ川を通って退却するなら、カステルデルフィノの高地を奪う目的で行動するストゥラ左翼師団を予備として支援するため、第1縦隊は常にストゥラ左岸で活動する。敵がデモンテの北東にあるヴァロリアーテ峠に後退するなら、第1縦隊はストゥラ峡谷をアイゾネ経由で下り、デモンテを迂回して、ストゥラ左翼師団及びジェッソ師団と協力してデモンテ周辺を一掃しこの町の封鎖を図る。そしてヴァロリアーテ峠を奪い次第、ストゥラ右翼師団とイタリア方面軍の1個縦隊はデモンテを包囲する。
 ストゥラ左翼師団は8000人で構成され、第1縦隊は3000人、第2と第3縦隊は各2500人となる。モーラン峠を通った第1縦隊は作戦開始2日目にアチェーリョに到着。アルジェンテラの奪取後、4日目と5日目にムロ峠(サンブコ北方)を通り、左翼をサンブコに、正面をモンタニェッタに配置する。同じ4日目に第2縦隊はスカレッタ峠(アルジェンテラ北方にその名の峠がある)を通り、5日目にアチェーリョ経由(奇妙なことにかなりの遠回り)でモンタニェッタに向かい第1縦隊の右翼に布陣する。6日目にこの両縦隊はモンタニェッタを攻撃する。
 第3縦隊はこの間にムロ峠の東にあるグラナ峡谷源流に展開し、モンタニェッタ攻撃部隊の側面を守る。モンタニェッタ、サンブコ、ヴァロリアーテを占拠したら第3縦隊は道を引き返してサン=マルタン(場所不明)を経てベリーノ(ヴァライタ川の支流ヴァライタ=ディ=ベリーノ流域)まで北上。第2縦隊や、ロンジェット峠にいた側面部隊もこれに合流する。第1縦隊はエヴァ高地(ベリーノ南方のペルヴォ=デルヴァか)に移動する。モーラン峠に残っていた4000人のうち2000人は南方のロータレット峠まで移動したうえでベリーノ峡谷に入る。これらベリーノに集まった1万1000人はそれからカステルデルフィノ高地と、この峡谷にある敵の拠点を攻撃する。

 以上のような各部隊に関する細かい指示を記した後で、ブオナパルテはアルプス方面軍に対する指示をまとめている。基本的にはくり返しだが、まずは主力部隊でストゥラ峡谷の両岸にあるルピエールとモンタニェッタを奪い、それからストゥラ右翼師団は下流のデモンテまで、左翼師団は北方のカステルデルフィノまで移動するという内容だ。
 地図を見ながら読めば分かるのだが、ストゥラ峡谷に真正面から入るアルジェンテラ師団は、おそらく最も移動しやすい峡谷沿いの道を進むにもかかわらず、作戦の中では二次的な役割しか担っていない。主力はストゥラ右翼師団と左翼師団なのだが、彼らはどちらもいったん別の峡谷を経由してストゥラ峡谷へと山を越えて移動し、さらに左翼師団はその後で複数の山脈を乗り越えてずっと北方にあるカステルデルフィノ峡谷まで取って返すことになっている。
 縦隊を細かく分けて前進させているところも、この時代ならではの特徴に満ちている。前にも指摘した通り、こうした作戦計画は革命戦争期には珍しくなく、イタリア1794年春季戦役でも採用されていた。その意味でこの時点のブオナパルテは他の革命軍諸将とほとんど変わらない発想で作戦を立案していたものと思われる。
 もちろん、ブオナパルテの作戦を正当化することは可能だ。彼自身が後にセント=ヘレナで述べているように、山岳部での戦闘においては敵を迂回し、彼らに防衛拠点を放棄させるか、敵の側から攻撃せざるを得ないように仕掛けるのが正しいのだとすれば、ブオナパルテが立てた複雑な計画も「迂回を目的としたもの」として正当化できそうに見える。
 ただ問題は、敵の動きによって事態が変化した場合についての対処法に関する言及が限定的なこと。ストゥラ峡谷における敵の重要な防衛拠点はルピエール、モンタニェッタ、サンブコの付近であると決めつけており、それ以外の地域での抵抗は想定していないように読める。また敵の退路についてもヴァロリアーテか北方の他の峡谷の2方面と大雑把な想定にとどめている。人間に未来は予測できないのだからそういった大雑把な想定自体は仕方ないが、その割に各部隊への指示が細かすぎ、彼らが予想外の事態に遭遇した際の柔軟性を奪う命令になっている、ように見える。
 そういった問題点は、この時代についていえばブオナパルテだけに特有のものではない。革命戦争の他の将軍たちにも同じ傾向は存在したし、他国の将軍たちまで視野を広げればナポレオン戦争期に至ってもなお同じような作戦を立案し、遂行しようとしていた者は大勢いた。その意味でこの時点のブオナパルテはあくまで他の将軍と同じような、時代の常識から離れることのなかった軍人、と考えてもいいのかもしれない。まだ24歳で、ほぼ初めて軍規模の作戦を立てた人間のやることだと思えば、さして非難に値するようなものでもないのだろう。
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