1794年夏秋・イタリア 1

 1794年の春季戦役が終わった後の動きについて、セント=ヘレナのナポレオンは簡単な両軍の状況を解説した後でいきなり9月の戦役に話を飛ばしている(Mémoires pour servir à l'histoire de France, Tome Troisième, p70-72)。その間に起きた出来事としては、アルプス方面軍とイタリア方面軍が「コルマールで会議を開いた」件に触れている程度で、両軍はアルプスを挟んで静かに向かい合っていたかのように見える。
 そして9月の戦役に際しては、春季戦役と同様ブオナパルテ将軍が作戦の提案と軍の指揮を執ったかのような書き方をしている(p72-73)。この作戦はフランス軍の右翼がサン=ジャコモ峠(フィナーレ北方)からボルミダ峡谷を経てモンテノッテに到着し、そこから海岸へ転じてヴァドを奪取するというものであり、その途中にデゴでの戦いが行われたことから、1796年戦役のリハーサルであるかのように見られることもある。ナポレオン的には自分の手柄にしたくなるような戦役であることは確かだ。
 だがナポレオンの書簡集を見ると、彼が計画を立案したことを明確に示す証拠が見当たらない様子が窺える。ブオナパルテ将軍が5月や6月に連合軍に対する作戦計画を立案していたことは確かなのだが(Correspondance de Napoléon Ier, Tome Premier, p33, 44)、9月のデゴ遠征前に書かれた計画はそこには存在しない。戦役真っ最中にロアーノやカイロで書かれた手紙は載っている(p55)のだが、これは計画ではなく戦役そのものについての報告だ。
 もちろん証拠の不在は不在の証明にはならない。たまたまそうした史料が残されていないだけで、ブオナパルテ将軍が9月の戦役に関する作戦立案にかかわっていた可能性はある。分かりやすくそう主張しているのが、春季戦役でのブオナパルテの役目をかなり大きく評価しているColinだ。彼によると、テルミドールの反動で一時投獄されていたブオナパルテは、解放されるや否や遠征の準備に取り掛かったという(L'éducation militaire de Napoléon, p312)。
 その証拠の一例が、デュメルビオンが公安委員会に対して記した報告書の最後の方にある「成功を確保した賢明な策は、砲兵将軍(ブオナパルテ)の才能のおかげだ」(p461)という部分だろう。ただそれ以外に具体的な論拠がどのくらいあるかというとそこはやはり微妙。ボナパルトが遠征を準備した論拠として示している文章は実はサリセッティの布告(p454-455)だし、ブオナパルテが軍の移動について考えていたというローゲの主張は、実は彼の回想録からの引用だ(Mémoires militaires du lieutenant général Comte Roguet, p144)。
 春季戦役と同様、慎重な姿勢を見せているのがKrebsとMorisだ。彼らはCampagnes dans les Alpes pendant la révolution, 1794, 1795, 1796の中で9月の遠征計画について、ブオナパルテが立案者である可能性もあるとしながら、一方で「当時、地理関係の軍務に就いていたクロサードと、この地域について深い知識を持っていたマセナ、そして9月15日にゴンドロ大尉の手紙でラ=ブリガからニースへ出発したと知らされたリュスカもまた、相談を受けたに違いない」(p194n1)と記している。また9月23日付の手紙でブオナパルテ自身がこの作戦の立案者であると表明していない点も、彼らが慎重になっている理由の1つだ。
 とはいえ、KrebsとMorisもブオナパルテが作戦立案に協力したことまでは否定していない。それに興味深いことに、連合軍のフェルディナント大公が9月3日付で記した手紙の中には「最近、手錠につながれてパリへ連れていかれたブオナパルテ将軍が指揮権を持って戻ってきたのは事実だ。彼は大胆で進取の気性に富んだコルシカ人であり、間違いなく攻撃のリスクを取ろうとしている」(p194n1)との言及もある。ブオナパルテの名が敵陣にまで届いていたことを示す一例であり、なおかつこの手紙から間を置かずに実際の攻撃が行われたあたり、当時から彼が一定の役割を果たしていたとの見方があったことを窺わせる証拠でもある。
 個人的には、春季戦役よりブオナパルテの役割が大きかった可能性は高いと思う。特にデュメルビオンの報告書にある文言から判断するなら、作戦立案に際してブオナパルテが単なる協力者ではなく主導的な役割を果たしていたと想定してもよさそうに思える。KrebsとMorisが他の作戦立案関係者として名を挙げている者のうちクロサードとリュスカの名はこの報告書には出てこないし、マセナは戦場で名を挙げた将軍として言及されているだけだ。具体的証拠がないから断言はできないが、さすがにこの作戦は著者:ブオナパルテと考えても大きな間違いはないのではなかろうか。

 さらに支えとなる状況証拠の一つが、上にも紹介した5月や6月にブオナパルテが作成した作戦計画だ。この作戦はイタリア方面軍だけでなくアルプス方面軍も加わった大掛かりなもので、セント=ヘレナのナポレオンが言う「コルマール会議」も、実際に5月21日、アルプ=ド=オート=プロヴァンス県のコルマールに両軍の関係者が集まって開催された。
 実はこの2つの命令書は派遣議員名で出されたものなのだが、それでもこればブオナパルテの書いたものである点は別の史料によって裏付けられている。同年6月3日にアルプス方面軍の派遣議員からイタリア方面軍の派遣議員に宛てて書かれた手紙の中に含まれている「この行軍を、我々がコルマールで布告した計画の中にあるストゥラ右翼師団の行う行軍と比較してほしい、その計画を記したブオナパルテは云々」(Correspondance, p41)という一文が、その根拠だ。一般的に同時代史料については署名者が記したと見なすのが安全だが、このように明確な論拠があればそうでないと主張しても問題はないだろう。
 細かいことを言えば、この書簡集に含まれる注は5月の命令文がブオナパルテのものであることの裏付けにはなるが、6月20日に書かれたもの(Correspondance, p44)がブオナパルテのものだとする論拠としてはちょっと弱い気がする。論拠となる手紙はそれ以前に書かれたものであり、なおかつコルマール会議で布告した作戦とあるので、この条件と厳密に一致するのは5月21日の命令だけだ。ただ、両方の命令を見れば分かる通り、これらは同じ計画について時間を置いて書き直したものであり、だとすれば同一人物が修正に携わったと考えるのは決しておかしくはない。1794年戦役におけるブオナパルテの役割について慎重に見ているKrebsとMorisですら、6月20日の計画はブオナパルテが書き上げたとしている(p142)。
 オネーリャ攻撃やサオルジオ戦線攻略に関する計画の立案に彼が果たした役割についてはあまり過大評価しない方がいいと前に述べた。しかし5月以降には彼が細かい計画を、しかも彼自身が属するイタリア方面軍だけでなく隣接するアルプス方面軍まで巻き込んだ計画を書き上げたという証拠があるのだとしたら、遅くともその時点で彼が軍の作戦立案に中心的に関与する役割を与えられていたと考えてもそれほど変ではないだろう。そこで実績を積んだ彼が9月時点で再び計画立案に携わるのはむしろ自然なことと見ていい。
 後に数多の作戦を立案し、欧州を席巻することになるナポレオンだが、軍以上の規模の作戦を間違いなく立てたと言えるのはこの1794年だろう。その意味では彼のキャリアにとっては結構重要な年だと思うが、一般に彼の伝記などではあまり細かく取り上げられていない時期である点は以前にも指摘した。実際問題、計画の立案という裏方的な仕事より、実際に軍を率いて勝利を収めた1796年以降の方が派手なのは間違いない。伝記と言えど読み物である以上、より強いミームを取り上げがちなのだろう。
 一方で、この確認できる限りナポレオンが最初に記した命令を見れば、後の彼の作戦スタイルとどこがどう違うかを調べることもできるわけだ。確かにその中身は、Fabryが指摘したように、後の彼のやり方とはかなり違いがある。それでも5月と6月というたった2つの命令を比較するだけでも、ブオナパルテの考え方がどのように変化していったかをある程度は追うことができる。この点はなかなか興味深いと言える。
 さらに問題なのは、この5月や6月に記した命令について、セント=ヘレナのナポレオンが全く言及していないことだ。彼はテンダ峠の奪取に至るまでの経緯はそこそこ細かく書いているが、その後は上にも記した通り9月まで話をすっ飛ばしている。自分自身が記した作戦の結果も含め、途中段階をほぼ完ぺきに無視しているのだ。
 ブオナパルテが立案した計画はどんなものだったのか、そしてその結果はどうなったのか、そのあたりについてこれから述べていきたい。
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