1796年ドイツ(byナポレオン)その8

 承前。


VIII.
 モロー将軍はネレスハイムの戦い後、何日か戦場にとどまった。とうとう彼はドナウェルトへと行軍した。しかし彼はサンブル=エ=ムーズ軍との合流を試みるために騎兵部隊をアルトミュールへ送り出すことすらせず、ホッホシュテットへと後退した。この躊躇と誤った機動が大公を勇気づけた。彼はほぼ不可能だと絶望していた2つの軍の合流をまだ阻止できるに違いないと見た。彼はライン軍を牽制しその動きを遅延させるため30個歩兵大隊とともにラトゥール将軍をレッヒ川の背後に残し、その間に歩兵、騎兵、砲兵からなる3万人の分遣隊と伴にドナウ河を渡りニュレムベルク街道へと前進した。8月22日、彼はノイマルク前面に布陣するベルナドットを攻撃し、彼をラウフとニュレムベルクまで追撃してフォルスハイムへ後退を強いた。ヴァルテンスレーベン将軍はすぐに兵を動かしナープ川を再び渡河。サンブル=エ=ムーズ軍はアンベルクとスルツバッハへ退却した。しかしその場で正面をヴァルテンスレーベンに、側面と背後をカール公の部隊からの分遣隊に攻撃され、その将軍[ジュールダン]は本格的な戦闘のリスクを冒すのが得策だとは考えなかった。退却は非常に困難になった。彼はラウフからニュレムベルクへ至る街道を通る連絡線を失っていた。彼は車両にとってはほとんど使用不可能な道路と山地を越えて移動した。砲兵と車両は多くのダメージを受け混乱に陥った。この大急ぎの混乱した行軍は軍の規律に影響した。軍は26日にフォルスハイムに到着し、その左翼はエベルメンシュタットで28日に停止した。将軍はいくつかの攻撃作戦を企図したが、しかしカール公の素早い行軍とフランス軍の背後に向かって演じた攻勢とが、実行に移すことを許さなかった。敵は既にバンベルクへ1個師団を派出しており、それが司令部に懸念をもたらし、兵站と文官を混乱に陥れた。さらに軍がたとえ強行軍で移動しても31日にならなければ到着しないバンベルクからシュヴァインフルトへの道路が遮断され、軍は銃剣で道を切り開かなければならなかった。休息が必要だったため、兵たちはこの町で足を止めた。ヴュルツブルクはホッツェ将軍により占領された。彼は自分の師団と伴に要塞を封鎖し、その中には砲兵指揮官のベルモント将軍が800人の兵と伴に閉じ込められた。彼はシュタライ師団に支援されていた。大公と軍の残りは1日分後ろにいた。ジュールダンはこの敵の分散に乗じ、ヴュルツブルクへの道を自分で切り開くことを決断した。9月2日午前、彼は行軍を始め、翌3日にカール公を攻撃した。戦いの最中にクライとヴァルテンスレーベンが到着。彼らは歩兵4万人、騎兵1万2000騎でジュールダンに対峙した。しかしフランス軍は3万人しかなかった。彼らは会戦に敗れた。彼らはルフェーブル師団をシュヴァインフルトに残していた。ジュールダンはアルンシュタインとラーン川へ退却し、そこへ9月10日に到着した。兵たちは疲労に苦しみ、酷く落胆していた。彼はヴェッツラーに司令部を定めた。8月22日以降、彼は4万4000人で、ヴァルテンスレーベンと大公の軍、兵力計6万8000人と争わなければならなかった。ラーン川に到達したところで彼はマルソーと、オランダから到着した1万人の師団と合流した。これらの増援によって彼は敵より優勢になった。敵の機動とヴュルツブルクの戦いでの敗北だけにより、彼は15日間でドイツにおける全ての征服地を失った。しかしまだ全ては取り戻すべきだったし、戦役における運勢が変わりフランス軍にとって望ましい形で終わる可能性は大いにあった。将軍は目的にかなった計画を立てることだけはできたが、活動力と決意に欠けていた。彼は予想された通りラーン川で自滅し、ラインの此岸へ追い返された。勇敢なマルソーはアルテンキルヒェンの戦闘で死去した。クレベールとコローは不服従により軍から解任された。軍は広く散開し、一部はライン河を渡り、ルフェーブル師団はデュッセルドルフの宿営地を占めた。少し後になってジュールダンは指揮権を失った。しかし奇妙で説明不能なやり方により、総裁政府は1個大隊を機動させる能力すらほとんどないブールノンヴィルを彼の後継者として指名した。大公はサンブル=エ=ムーズ軍を見張るためにヴェルネック将軍と5万人の軍勢を残し、1万2000人を率いていまだにバイエルンにいるラン=エ=モーゼル軍に向かって前進するべくラーンの川岸を離れた。


 以下、次回。

スポンサーサイト



コメント

非公開コメント

トラックバック