科学の低迷

 成長をもたらすのはイノベーションではないか、という話を前にした。イノベーションはエリートがコントロールできるものではなく、従って成長戦略なるものを描いたとしても、他人の物真似を除いてそれを実現できる保証はない。一方、戦略の有無とは無関係にイノベーションが起きれば限界利益が急増し、成長を達成することができる。成長は民主主義にも影響を及ぼすだけに、イノベーションが起きているかどうかは今後の社会の在り様に大きな影響を及ぼす、といった見方をこれまで書いている。
 もちろんこの見方が正しいかどうかはきちんとチェックしておくべきだろう。まず何より、特に先進国で成長が鈍っている(収穫逓減が起きている)原因が、イノベーションの欠如によるのかどうかを確認しておかねばならない。都市化が一種のメルクマールになるんじゃないかという考えを前に示したことがあるが、より直接的にイノベーションの欠如を計測する方法があるのならば、それも見ておくべきだろう。そして実際にそういう研究を見つけた。

 今年の1月に出たAre ‘flow of ideas’ and ‘research productivity’ in secular decline?という論文がそれだ。産業革命が始まった1750年以降を対象に、大陸欧州、英国、米国での「アイデアの流れ」と「研究生産性」を指標化し、物理科学と生命科学の分野におけるこの指標の推移を調べたものだ。それによると、特に英国では産業革命の3つの波が明確に確認できたそうだが、一方1970年代から「アイデアの流れ」が、また1950年代から「研究生産性」が長期的に低下していることも分かったという。成長の大元となる科学的なイノベーションが、20世紀の後半からずっと低迷しているという結論である。
 似たような研究は2005年にも書かれていた。1455年から1999年までを対象にしたその研究によると、イノベーションの速度は1873年にピークを迎え、その後はずっと減速しているという結論になった。研究で使っているモデルに従うなら、テクノロジーの経済的限界のうち90%が2018年に、95%が2038年には達成されてしまうそうで、これまたイノベーションが進まないという結論を導き出した研究となっている。
 その研究がThe History of Science and Technologyという書籍を使ったのに対し、今回の研究はEncyclopaedia of Scientific Principlesと、Chronology of Science and Discoveryという2つの書籍を使っている。それぞれの書籍に掲載されている重要な科学的発見から「アイデアの流れ」などのデータを引っ張り出しているわけだが、その際にこの論文では存在しているが知られていないものを「発見」した場合と、新しいものを生み出す「発明」を重視し、既存の技術を組み合わせた「イノベーション」は対象から外している。様々な応用と通じて経済や社会に影響を及ぼした「根っこ」の部分こそが重要、という判断だろう。
 「アイデアの流れ」を計測するに際しては、個別の「発見」や「発明」の時期を選ぶのではなく、それに寄与した科学者(論文では主人公と呼んでいる)が研究に従事していた期間を、アイデアの流れが発生していた期間と見なしている。発見や発明に至るまでの事前研究や、それを実用化するための事後の研究も含めて流れを把握する方がいいという判断だろう。具体的には量子力学の事例がTable 1とFig. 1に記されている。「研究生産性」はその「アイデアの流れ」を人口で割り、100万人あたりでどのくらい「アイデアの流れ」が生まれていたかを調査している。
 ソースとして使った2つの書籍の両方に出てくる「主人公」のデータは0.5倍してダブルカウントしないように計算している。また地域については英米以外は一定数の「主人公」が存在し、また人口データを遡ることが可能なドイツ、フランス、スイス、オランダ、イタリア、スウェーデンを「大陸欧州」としてカウントしている(Table 2)。問題は、こうした研究成果が重要であると認められるのに時間がかかることだ。ノーベル賞も過去の実績に対して与えられるものが多く、逆に言えば最近の研究が過小評価される可能性が高い。論文ではその分も補正したデータを使っている。
 結果は「アイデアの流れ」がFig. 2に、「研究生産性」がFig. 3に載っている。時期は2つの元資料の両方がカバーしている1988年までだが、見ての通り補正をかけても「アイデアの流れ」は1970年代以降、「研究生産性」は1950年頃以降、長期的な低落傾向が続いている。地域別に見ると、特に英国では18世紀末、19世紀後半、そして20世紀半ばという3つの「研究生産性」のピークがあり、それぞれが第一次産業革命、第二次産業革命、そして科学技術革命に相当すると思われる。物理化学でも似たような流れが見られる(Fig. 5)。
 重要なのは20世紀末から21世紀にかけて起きたと主張されている情報技術革命(デジタル革命)の時期には、どの地域でもそうした「研究生産性」の向上が見られない点だ。これを見る限り、足元における新しい技術はかなり生産性の悪いものだと思われる。論文中ではムーアの法則について、それを達成するために必要な研究者の数は1970年代に比べると18倍に膨れ上がっていると指摘。一見派手な「倍々ゲーム」を達成しているように見えるイノベーションが、実は大量のコストをかけたものであるとの見方を示している。もしこの論文の計算が正しいのなら、そうした現象はムーアの法則以外の様々な科学分野で発生していることになる。
 この論文ではこうした結果をもとに、経済に関する「内生的な経済成長理論」よりも、発明や技術進歩といった外生的要因によって経済成長が決まるという説の方が妥当性が高いとも指摘している。Fig. 8では研究生産性が内生的に変化する場合に取り得る値と実際の推移とを比較し、内生的な原因では説明がつかないほど極端な変動をしている様子を示している。
 上記のような結果を踏まえ、では足元における「アイデアの流れ」や「研究生産性」の長期的低下が何によってもたらされているのかを考察したのが付録B。そこでは3つの説が示されている。まず1つは「科学の終わり」。科学的な手法が広まり、様々な事象を科学的に分析してきた結果、新しいアイデアが出てくるとしてもそうした既存の知識の上に追加する形でしか生まれてこなくなっている。「新たな知識のほとんどは、過激な修正を強いるものではなく、現在の現実を拡張し埋めるだけ」になっているため、研究生産性を高めるほどの発見や発明が減っている、という説だ。
 2つ目は「ゼロリスク社会」。科学と経済の発展によって人々が豊かに、かつ長命になった結果、リスクを取って新しい発見や発明を求めようとするインセンティブが減っているとの見方だ。発見や発明には資金が必要だが、金持ちほどそうしたリスクを取らなくなっているのではとの考えである。そして最後が「愚か者の黄金期」。実態経済ではなく金融化によってもたらされている繁栄を本物の繁栄と考えた人たちが、実体のある物からではなく金融技術から富を生み出せると考えているため、研究生産性が下がっているという説だ。

 論文では最後に、もっと科学分野でリスクを取った取り組みを広げなければならず、そうした価値観を涵養する必要があると主張している。日本でもよく見かける言い分だが、別に日本だけの課題ではなく、世界的にそうする必要があるという。この論文では既存技術を組み合わせるだけの「イノベーション」では成長の種が尽きてしまうと見ているようで、まだ誰も見つけていない「発見」を成し遂げ、誰も作っていない「発明」を生み出さなければ、成長は枯渇すると考えているようだ。
 もちろん、この論文にもツッコミどころはいくらでもある。まず使用されている資料が適切かどうかという問題があるし、最近の研究が評価されるまでにかかる時間の補正は十分になされているかという課題もある。取り上げている地域が英米欧の限られたエリアであり、実はそれ以外の地域で今まさに新たな「発見」や「発明」が芽吹いている可能性もある。発見や発明は無理でも、実はイノベーションには論文が想定しているよりも大きな可能性が眠っており、もしかしたらそれを使いこなすことで一段と成長を続けられるかもしれない。
 だがそうした懸念を含めてもなお、取れるデータを使った分析がこのような結果になった点には注意を払うべきだろう。この研究が孤立した主張をしているわけではないことも重要。上に紹介した2005年の論文もそうだし、実は20世紀の時点で既に足元で収穫逓減が起きているという主張をTainterが行っていた。あるいはもっと長い視点で見てもいい。Turchinによれば社会の複雑度を一気に高めるようなイノベーションは千年単位くらいで発生するものであり、だとすると足元の科学技術の発展もどこかで止まり長期の停滞に入ることが経験則から想定できる。
 科学の発展が減速し、ゼロサムあるいはそれに近い社会が到来した時に、果たして「リスクを取って発見、発明を目指せ」という掛け声だけで事態を改善できるだろうか。発見や発明が止まっている理由が「ゼロリスク社会」や「愚か者の黄金期」だけに由来するならいいが、もし「科学の終わり」が理由だとしたら、いくらリスクを取ってもそれに見合う発見や発明は得られないのではないか。前に「危機の深刻度分析」でも感じたが、我々が直面しつつあるものが人間の行動だけでは変えられない問題だとした時に、我々は何をしたらいいのだろうか。
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