農業社会の人口増減

 以前、こちらのエントリーとそのコメント欄で、欧州で農業が始まった頃に見られた人口の増加と減少(boom and bust)の理由について色々な見解を紹介した。Turchin的な永年サイクルが働いたのか、マルサスのような人口密度の上昇にともなう成長の限界か、それとも土壌の疲弊(養分の枯渇)という形で収穫逓減が発生したのかなど、色々な理由が考えられるところだが、そこに別の切り口で行われた研究が加わった。Explaining population booms and busts in Mid-Holocene Europeというプレプリントがそれだ。筆頭筆者はComplexity Science Hub, Viennaに所属しているDaniel Kondorだが、筆者たちの中にはBennett、Hoyer、Turchinといった面々も顔を並べている。
 調査対象の時期は完新世中期の紀元前7000~3000年。中石器時代後期から青銅器時代初期に至るタイミングであり、ちょうど欧州に農業が広まっていった時期に相当する。Supplementary MaterialのFigure S14にはこの時期にどのように欧州に農業が広がっていったかを示した地図が載っているが、最初アナトリアからバルカンへと広まった農業が、一方ではドイツ経由で、他方では地中海北部経由で西進し、フランス北部で合流した様子が分かる。といってもこのプレプリントの要点は農業の拡大ではなく、表題にもある通りこの時期に欧州で起きた人口の急増と急減(booms and busts)の背景を調べた点にある。気候の変動という外生的要因と、人口密度の高い地域における農民グループ間の暴力的紛争という内生的要因のうち、どちらが急増急減の要因としてより説得力があるのだろうか。

 まずプレプリントではこの時代における欧州の人口動態がどのような性格を持っていたかについて、「自己相関関数」と「変動係数」を使って示している。前者は人口動態がどのくらいの期間でサイクルを描いているかを示したものであり、後者はその際に起きる変動幅を示していると考えればいいようだ。実際の歴史上における人口動態のサイクルを調べるうえでは、欧州をいくつかのグリッドに分け、放射性炭素年代測定を活用して人口密度を推測している。
 結果はFig 1の通り。(a)のグラフは異なる地域でどのように人口が推移したかを計算したもので、人口の急増や急減を含む波があちこちに描かれている。およそ1000年前後でこうしたサイクルが生じているようすが見て取れるわけだが、それをさらに具体的に示したのが(c)のグラフだ。事例ごとに半サイクル分の期間がどのくらいの年数に当たるかを合わせて棒グラフで示したものだが、見ての通り600年が最も多く、大半は300~1000年のところに集中している。そして変動幅(d)だが、最も多いのは0.3の付近だ。
 続いてこのプレプリントではモデルを構築してこの時期の欧州の人口動態をシミュレートしている。欧州を直径9~11キロの六角形に分け、農業民がどのように広がっていくかを調べてみたわけだ。その際には2つの仮説に基づいて異なるルールで農業民が拡大するように想定した。1つは天候要因を反映した拡大で、農民たちは互いに相争うことなく、空いた土地にのみ広がっていく。天候の変動は各地の土地収容力を変化させることがあるという想定で、基本的な土地収容力については国連食糧農業機関(FAO)のデータベースであるGAEZが使われている。
 結果はFig 2のようになる。(a)を見ると、炭素年代測定を使った場合に見られた明確な急増と急減がなく、全体としてロジスティック関数のような推移を見せている。自己相関関数(c)は200年がピークとなっており、実際のサイクルに比べてかなり短い期間に集中している。変動係数(d)も0.2がピークと、実際のデータより変動幅が小さめだ。要するにこの仮説に基づくモデルだと、実際のデータと整合的なシミュレーション結果は出てこないわけだ。
 続いて暴力的紛争モデルだ。拡大を続ける農民たちが同じ土地でぶつかると双方は争いあい、勝った方は農民から侵略者となって周辺の農地を荒らしまわるように行動が変化する、というシミュレーションだ。なお侵略者は襲撃できる農地がなくなれば全滅する。この方法で調べたデータの一例がFig 3に載っている。(a)を見ると天候モデルに比べればまだ急増急減のサイクルが存在している様子が窺える。(c)を見るとピークは600年や700年あたり、(d)は0.5付近にピークが存在する。ただしこれは色々設定したパラメータの結果の1つであり、全体として見ると暴力的紛争モデルの方が実際のデータとの整合性が取れる結果を導き出した事例が多いという。
 プレプリントでは、この結果から欧州で農業が始まった頃に見られる人口の急増急減は、天候ではなく農民グループ間の暴力的紛争によってもたらされた可能性が高いと指摘している。実際、この時期の遺跡からは農作業をしていた地域の周辺に手つかずの処女地が結構残っている事例が見られるそうだが、このモデルでも一度農民が侵略者になるや、周辺地域をろくに耕しもせずに他の農民を襲うようになるため、農地の周辺が手つかずのまま残るケースが数多く発生したそうだ。要するに人口動態をもたらしたのは外生的要因ではなく内生的要因だった、ということになる。
 もちろんこれは天候が初期農民たちに何の影響も及ぼさなかったという意味ではない。最初に農業民が定住を始めるきっかけや、人口動態が動く転換点をもたらした可能性はある。でも人口動態をもたらした主要な要因はおそらく暴力的紛争だろう、というのが研究者たちの考えだ。実際、この時期には暴力が行使された考古学的な証拠もあるそうだし、このタイミングで集落間の暴力的な争いがあった可能性については、Y染色体の多様性の変化について記した論文からも導き出されていた。国家といえるものが存在する前における農業社会がとても暴力的な社会であったのはおそらく事実なんだろう。
 面白いことにこの論文では、土壌の疲弊が人口の急増急減をもたらしたという仮説についても少し言及している。Supplementary MaterialのSection 6ではA model of soil exhaustion、つまり土壌の疲弊のモデル化について言及しているのだが、それによると土壌の疲弊が起きても単に低いが安定した土地収容力が維持されるだけで、実際のデータに見られるような人口急減は起こらないのだそうだ。興味深いことにここで論拠として挙げられているのは、Turchinらが2001年に記した論文。つまりTurchinがまだ歴史分野に本格的に移る前に書いた論文であり、題材はrodent-vegetation systems(齧歯類―植生システム)だ。彼の来歴が分かる引用である。

 国家誕生前の社会がどうであったかについては、欧州における初期農耕民の人口動態以外にもこちらこちらでトリポリエ文化の大規模集落について、またこちらで父系クランの存在について言及してきた。この時代については文献史料がなく、考古学が中心となるために、時に奔放すぎて疑わしい話を書いている者もいるが、一方で定性的な文章より定量的なデータで分析しやすい時代とも言える。Turchinらが取り上げても不思議はない。
 実際、史料という文章を使う以外にも様々な歴史へのアプローチが可能になっているのが、現代という時代の面白いところだろう。例えばこちらのツイートではベイズ推定を使って言語の分岐を調べるという研究を紹介しており、バンツー族(農耕民)がどのように西アフリカから南アフリカにまで広がっていったかなどをテーマにして分析がなされている。
 あるいはこちらのツイート。古代ローマを舞台にゲノム解析を使い、ローマ内の人々がどのくらい移動していたかを調べているのだが、移住した人は多くても、それが生殖と直結していたわけではない点を指摘している。まるで現代日本の転勤族のように、色々な地域で暮らしてはいるものの、ゲノムで見ると孤立していたような人が当時から存在していたのだろう。それでも新石器時代までは距離が開くとゲノムが大きく異なるのは当然だったのが、青銅器時代以降は現代に至るまでゲノム差異が小さくなっており、ヒトが時代とともに行動範囲を広げていたこともわかる。
 要するに歴史を学ぶうえでも、新しい技術を使えばそれだけ新しい知見を得られる可能性が出てきているわけで、実に楽しい時代と言える。こういう時代に生きていられたのは実に幸運であったと運命に感謝すべきなんだろう。
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