西アフリカの火器 下

 これまでFirearms and Warfare on the Gold and Slave Coasts from the Sixteenth to the Nineteenth Centuriesを使って西アフリカの黄金海岸と奴隷海岸における火器の受容史をたどってきた。最初に火器を持つ欧州勢と彼らが接触したのは15世紀後半、16世紀末あたりからは少しずつ火器の普及が始まり、17世紀後半からこの地への輸出が大幅に増加。それに合わせるように地元勢力も火器を使った戦争を当たり前のように行うようになり、そうした変化は19世紀まで続いていった。
 この時期は、どうやら西アフリカにおいて国家形成の時代だったようだ。前にも紹介したこちらの地図を見ると、欧州との接触直前に黄金海岸と奴隷海岸に存在したのはChiefdom(首長制)、つまり国家形成以前の単純な社会であったと記されている。持続性のある複雑な社会と言える国家は、まだ当時の西アフリカ沿岸部には存在しなかったのだろう。
 だがこれが欧州勢力との接点を持ち、互いに時には連携し、そして最新テクノロジーである火器が少しずつだが地元に広まり始めた17世紀半ばの地図を見ると、首長制だったところがStates(諸国)となっている。この時期は前にも紹介した通り、欧州の各勢力が地元の勢力と手を組んで交易を巡る争いを繰り広げていた時期だ。おそらく欧州からは軍事技術以外にも様々なノウハウが伝わっており、それがより複雑な政治体制である国家の成立につながったのかもしれない。
 さらに銃の大量輸入が行われるようになった後、18世紀末になると、こちらの地図にあるようにアシャンティやダホメーといった大きな国家が登場して黄金海岸、奴隷海岸のそれぞれの地域をかなり広く支配するようになっている。領域国家と呼べるものが生まれ育ったわけだ。19世紀前半同後半にもこれらの国々はしっかりと残っており、沿岸部を押さえている欧州植民地に対して内陸部でそれなりの存在感を示している。
 もちろんこれらの国々は20世紀に入ると欧米列強に一気に飲み込まれてしまうわけだが、産業革命後の帝国主義諸国が力づくで植民地化する以前において、彼らはそれなりに自律的な国家形成の動きを進めていたかのように見えるのは確かだ。そしてこの、首長制から小さな国々の分立を経て領域国家が出来上がるという流れは、ある学説を思い出させる。軍事革命論だ。

 こちらのエントリーで少し紹介したDeVriesのGunpowder Weaponry and the Rise of the Early Modern Stateの中で、Geoffrey Parkerの軍事革命論に関する簡単なまとめがなされている。要するに火薬兵器の使用増加が近代国家の勃興をもたらしたという説だ。火薬兵器は高価なので、最も豊かな政治体のみが防衛や攻撃に必要な火薬兵器を揃えられる。封建諸侯や群小国家は中央集権を進めた大国に対抗できず、かくしてそうした大国のみが近代国家になっていったという理屈だ(p128)。
 高価な兵器の登場により豊かな国がより強くなり、その強さを生かしてさらに豊かになるというスパイラルが生まれた点については、日本の戦国時代における雪玉効果も同じだろう。もちろんこの軍事革命論については(DeVriesも紹介している通り)色々な異論があるし、特に欧州以外に当てはまるかどうかについては批判の声も多い(一例)。一種の欧州特殊論ではないか、との指摘もある。
 しかしこの黄金海岸と奴隷海岸の事例は、実はこの軍事革命論がかなり当てはまりそうに見える事例だ。彼らは一見したところ、火薬兵器の導入が進むにつれてより強力な国家形成へと突っ走っていった。欧州勢力が到着した後で首長制から小規模な国家が生まれ、大量の火器が流れ込んでくると大量の銃兵を備え軍事力を使って勢力を増す大きな領域国家が登場した。さすがに軍事=財政国家と言えるほど効率的な国家運営をしていたとまでは言わないが、競って火器を揃えていた国が生き延びたあたり、「高価な火薬兵器を揃えられる豊かな国」が生き残った欧州や日本の事例を彷彿とさせなくもない。
 つまり黄金海岸と奴隷海岸は、欧州以外ではあまり当てはまらないのではと指摘されることが多い軍事革命論の、欧州以外における珍しい成立例、になるかもしれないのだ。帝国主義時代になってさらに進んだ技術と圧倒的な経済力を持つ欧州列強に踏みつぶされてしまったが、少なくとも19世紀末までアシャンティとダホメーは「西アフリカにおいて成立した近代的国家」になり得たのではないか、と考えることもできそうに思える。一つ、奴隷貿易の影響という問題を除けば。

 そう、問題は奴隷貿易だ。以前こちらのエントリーで述べたが、奴隷貿易の多かった地域は社会的な一体性が弱く国家形成にとってマイナスの影響を受けている地域だ、との説がある。一連のツイートを見ても、黄金海岸(ガーナ)や奴隷海岸(トーゴ、ベナン、ナイジェリアの一部)にある国の民族多様性は比較的高い。そして多民族国家は一体性に乏しく、制度的にも機能不全を起こしやすいのだそうだ。
 加えて火器の数と奴隷貿易の活発さは相関しているという研究もある。欧州からの火薬の輸出が増えるとアフリカからの奴隷輸出も増える。ある年に火薬の輸出量が1%増えると同じ年に輸出される奴隷の数が19%増えるという関係もあり、火器の輸出(アフリカから見れば輸入)は奴隷の増加による社会分断の深刻化をもたらしているわけだ。むしろ火器はアフリカにとっては国家を形成させないよう働くメカニズムがあったと考えられる。
 Parkerの唱えた軍事革命論と、奴隷制に関するこうした議論とは、矛盾した主張をしているように見えてならない。一方は「火薬が大きく強い国家の形成を促した」と主張し、だが他方は「火薬が奴隷を生み出し社会を分断して国家形成を妨げた」と述べている。奴隷貿易というアフリカでは重要だった事情があればこその矛盾だが、いったいこの点についてはどう考えればいいのだろうか。
 先に紹介した奴隷の多かった地域と国家形成に関する研究の中には、19世紀における国家発展度合いと奴隷の輸出数との関係を記した散布図もある。これ、実はよく見るとなかなか興味深い。黄金海岸や奴隷海岸のあった地域のうち、ナイジェリア(一部のみが奴隷海岸)は近似線とほぼ同じ位置にあるが、ベナン、トーゴ、そしてガーナは実はそれより上、つまり国家の発展度合いが高いところに位置している。これらの国々は多民族性が高く社会は分断されていたのだが、それでもそれなりに国家を発展させていた、と解釈できる。
 民族的にまとまりのない人々をどうやって国家にまとめていたのか。軍事革命論が成立するなら、おそらく軍事力によって力づくで抑え込んでいたと考えられる。アシャンティやダホメーは軍事力によって対抗する諸国家を滅ぼし、彼らを自分たちの権力下に取り込み、おそらくいくらかは奴隷として輸出し、残りは引き続き強権的に従わせていた、のではなかろうか。こうした政治体制は長期的に見れば不安定かもしれないが、短期的(18世紀から19世紀末までの100年強)には持続可能だったのかもしれない。
 板垣退助が批判した会津藩のように「人民」から嫌われていた体制であっても、200年以上にわたって持ちこたえることはできた。アシャンティやダホメーが軍事力に基づく収奪的国家であったとしても、一定期間なら国家として生き残るのは難しくはない。そうした事実を教えているのが、黄金海岸や奴隷海岸における国家形成の歴史なのだろう。中長期的にはともなく、短期間(と言っても100年を超える単位)ならスコットの言う「クソ」のような国家も存在し得るのではないか。
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