個人的な推測だが、17世紀後半から西アフリカへの火器の輸出が増えた理由は、もしかしたら欧州の「永年サイクル」のせいかもしれない。
危機の17世紀 において、英国では世紀の半ばに
三王国戦争 が、フランスでも同時期に
フロンドの乱 が、ドイツでは世紀前半に
三十年戦争 があった。
その一例が英国。Firearms and Warfare on the Gold and Slave Coastsによると、1673-1704年にかけて
英国の王立アフリカ会社 は6万6000丁近い火器と9000樽の火薬を西アフリカに輸出した(p194-195)。彼らより多くを売っていたのがオランダで、逆にブランデンブルクやデンマークの販売量はごく限られていた。17世紀後半にデンマークの船は年に2~3隻しか黄金海岸にやってこなかったし、搭載している火器はせいぜい数百丁だった。彼らよりは英国やオランダのもぐりの貿易船の方が多くの銃や火薬を運んでいた。
火器の需要は変動が激しかったようで、それに応じて積載貨物に占める火器関連のものの割合も8%から30%近くまで、かなり変化したそうだ。また同じ銃でも様々な種類の需要があり、ブランダーバス、カービンなど、いろいろな種類の銃がそれぞれ異なる値段で売られていた(p197)。1690年代に入るとマッチロックからフリントロックへの切り替わりが進み、英国やオランダが売却する銃の種類もまたそれに合わせて変化した(p198)。内陸部では短めの、沿岸部では長めの銃が好まれたほか、オランダの銃の評価が高いといった特徴もあった。
18世紀半ば以降になると今度はデンマーク製の火器が主要な輸出品となり、そちらの人気の方が高まった。この時期に売られた銃の種類はp200に載っている。19世紀前半にはさらに火器の取引が増加し、1829年には英国だけで5万丁以上の銃と200万ポンド近くもの火薬が輸出された。
18~19世紀には内陸部への銃の拡大も進んだ。18世紀半ばには黄金海岸内陸部のアシャンティが5000人のマスケット銃兵を持つ部隊を保有しており、19世紀前半にアシャンティの王はオランダに1000丁の銃を注文した。1870-72年に彼らは1万8000丁強のマスケットと3万樽近くの火薬を沿岸部から輸入しているし、奴隷海岸内陸部のダホメーも数千丁単位のマスケット部隊を運用している(p201)。彼らは自分たちよりさらに内陸への火器の伝播については制限をかけていたが、それらの地域にも少しずつ銃は伝わっていった。それでも銃が戦闘の主力となるまでには至らなかったようだ(p202)。
黄金海岸と奴隷海岸で好まれた銃の特徴はp202に記されている。強力な銃身、大きな口径などだが、引き金機構などについて特定の好みはなかったようだ。一方、売る側に見られた大きな特徴は、欠陥品を西アフリカに売りつける傾向があったこと(p203)。1719年には売りつけられた銃の中で50丁あたり4丁しか使い物にならないケースもあったという。現地の欧州人が本国に文句をつける例もあったようだ。冒頭に述べた通り、欧州からの銃の輸出が増えたのは17世紀の戦乱が収まった後だが、もしかしたらその時に戦争で使われた中古品が真っ先に処分対象としてアフリカに輸出され、以後そうした欠陥品を送り付ける流れができたのかもしれない。
火器だけでなく火薬も様々な種類や質のものが売られていたそうだ。評価が高かったのはデンマークの火薬で、以下英国、フランスと続いたのだが、面白いことにこれらの中で最も硝石の比率が低かったのはデンマーク製だと思われる。銃身を含めて欠陥品の多かった西アフリカでは、硝石比率が高く爆発力の大きい火薬はむしろ危険すぎたのだろう(p204-205)。
欠陥品が多かったため、黄金海岸と奴隷海岸の鍛冶師たちはその修繕に長けていた。フランスの商人などは彼らの修繕能力を高く評価している(p205)。彼らは引き金機構を直し、銃身を強化して銃を使えるようにした。だが修繕には慣れていた一方で、彼らが銃の製造を行ったか否かについての記録はとても少ない。19世紀末にはダホメーで火薬などが製造されていたほか、青銅製のブランダーバスが18~19世紀にいくつかの黄金海岸の国で作られていたという話がある程度のようだ(p206)。
このあたりは日本の事例を見ていると不思議に思えるところだろう。日本の場合は、
それ以前に中国製の火器が伝わっていた とはいえ、ポルトガル人による
鉄砲伝来からほとんど間を置かずに自前で製造までこぎつけていた 。それに比べ、日本より早くから欧州製の火器に接していた西アフリカで、どうしてここまで鉄砲生産が遅れ、広まらなかったのだろうか。安く大量に製品が入ってくると自前で製造する意味がないためか、それとも製造にこぎつけられるだけのサイズの国家が存在せず、負担を背負えない小規模勢力が中心だったためだろうか。
17世紀の黄金海岸では弓兵、槍兵、剣兵、銃兵の4種類が既に生まれていた(p207)。少数ながら銃兵が誕生したのは1620年代から30年代にかけて。1690年代から18世紀初頭にかけては内陸部でも銃兵が増えたが、弓兵も残った。それでも17世紀半ば時点で彼らは弓を射た後には白兵戦を行うのが普通であり、銃兵はあくまでそうした本格交戦前の散兵戦で使われる程度だったようだ。彼らは銃を撃つと味方のところへ逃げ込み、そこで弾を装填し直した。
16世紀初頭のスイス軍や、戦国時代の火縄銃の使い方 と似ている印象がある。
17世紀の黄金海岸における戦いの形式は、待ち伏せ、町や村の夜討ち朝駆け、小規模部隊の遭遇戦、そして数千人の部隊同士による本格的な交戦などがあり、銃は主に奇襲で役立っていたという(p209)。また高温多湿な地域のためか、火縄が濡れると使い物にならないマッチロックは戦場で使い物にならない例もあったようで、17世紀末に早々にフリントロックに置き換わったのもそれが一因だろう。
先に銃で武装したのは黄金海岸の沿岸部に住む勢力だが、彼らは後にアシャンティなど内陸部の勢力に敗れた。内陸部の兵が銃と弓という飛び道具に頼って戦ったのに対し、沿岸部は18世紀前半までは槍兵と銃兵を使っていたこと、またアシャンティが密集して戦ったのに比べて沿岸部は兵を散開させており、18~19世紀に増えた本格的交戦においては前者の方が有利だったのが影響したという(p210)。
西アフリカのこの地域では、早いところでは16世紀末から「政治=軍事組織」に基づく政府を作り上げる動きが広まっており、クランの長が軍事リーダーに代わられるようになっていた。軍事リーダーが政治的に重要な役割を演じるという点では欧州や日本の封建制と似た取り組みだが、彼らの肩書には「長銃の長」といったものもあり、銃の流通拡大がこうした制度の中で重要な役割を果たしていた様子が窺える(p210-211)。
奴隷海岸ではもっとはっきり、地域の統治者が戦時に指揮官となる政治体制を敷いていた。ウィダー王国もそうした仕組みだったが、彼らの戦いで前線にいた銃兵たちは黄金海岸のように散開はせず、また戦闘に際しては黄金海岸より白兵戦の役割が重要だったようだ(p212)。ただし19世紀のダホメーになると銃の役割はもっと大きく、彼らはかつてオランダのマウリッツがやったように
カウンターマーチ戦術を使って輪番射撃を行った 。19世紀後半にはシャスポー銃やエンフィールド・ライフルなど最新式の火器も使うようになっていたそうだ(p213)。
以上でFirearms and Warfare on the Gold and Slave Coastsの簡単な紹介は終わりだ。ほぼ400年にわたる西アフリカでの火器の受容史をざっくりとなぞった形だが、途中でも述べたように彼らの中で自前での火器製造がなかなか広まらなかった点が興味深い。またこの400年の間に生じた国家形成の動きと、奴隷貿易との関係も気になるところ。このあたりはまた次回に。
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