西アフリカの火器 上

 サブサハラ・アフリカの火器史について、以前こちらで16~17世紀のベニン王国について少し触れたことがある。ベニン王国は現在のベナン共和国とは歴史的に何の関係もなく、今のナイジェリアにあるベニン・シティ付近にあった国家だ。
 このベニン王国の西側にあったのが、欧州諸国から黄金海岸や奴隷海岸と呼ばれていた地域だ。黄金海岸はギニア湾に面する現在のガーナにほぼ相当する地域で、名前の通り黄金を産出する地域として知られていた。奴隷海岸はベニン湾に面するヴォルタ河(ガーナ西部)からラゴス・ラグーン(ナイジェリア西部)までの地域を指し、これまた名前の通り奴隷の輸出で知られていた。
 この両地域の火器史について大きな流れをまとめているのが、Firearms and Warfare on the Gold and Slave Coasts from the Sixteenth to the Nineteenth Centuriesだ。実際にはそれに加えてベニン王国についても多少ではあるが触れている。時期的には題名にある通り19世紀の後半まで言及しているため、その間にはこの地域の政治情勢も色々と変わっている。アフリカのこの地域がどのような政治体に支配されていたかを知るには、こちらにある一連の地図を見るのがいいだろう。
 そしてまたこの地域はアフリカの中でも歴史的に見て奴隷貿易の多かった地域だ。こちらのMAP 1やMAP 9には、アフリカのどの地域から多くの奴隷が運ばれたかが示されているが、上記の地域はアンゴラに次いで大量の奴隷輸出が行われていた。火器と奴隷は有名な大西洋三角貿易に名前が出てくるものであり、両者の関係も重要である。
 だがまずは論文に出てくる内容を把握しておこう。論文は大きく3部構成となっており、第1部は黄金海岸や奴隷海岸などでどのように火器が広まったかについて時系列で紹介している。第2部はこの地域で使われていた火器の技術的特徴、第3部はこの地域の戦争における火器の役割に言及している。

 冒頭に紹介されるのはベニン王国の例。どうやらこの国では15世紀末から16世紀初頭のエシジー王の時代に、最初にポルトガルから火器が伝わったらしい。以前に紹介した1514年に王がポルトガルに火器を要請した話も、また同年にポルトガル船から大砲を奪おうとした事例も、この王の時代の出来事だそうだ(p185-186)。ポルトガルが信仰を理由に、実際は火器の製造能力の限界から火器の提供を拒んだという話は、元はNegerkunst von Benin und deutsches Metallexportgewerbe im 15. und 16. Jahrhundertに記されているらしい。ベニン王国で火器の交易が盛んになるのは18世紀初頭になってからだそうだ。
 それに対し、黄金海岸地域では早くから欧州の火器が使用されていた。この地域には大きな王国はなく、またポルトガルはこの地域にエルミナ城などいくつかの貿易拠点を構築していたのだが、16世紀の末頃から他の欧州諸国との競争上これらの拠点を守る必要が生じたため、火器をこの地域に投入するようになった。
 実際、黄金海岸では実に様々な欧州諸国が交易に参入してきた。ポルトガルオランダ英国、フランスといった有名どころのみならず、デンマークスウェーデン、果てはブランデンブルクに至るまで、多様な勢力が入り乱れて活動していたようだ。
 各国が交易拠点をこの地域に設置したため、各国間の競争は当然ながら激化した。彼らは地元の勢力と同盟を組み、少しでも有利な立場を確保しようとした。拠点を守る兵を全て自国から送り込むのは難しかったようで、欧州諸国は地元民を傭兵として使う必要に追われたし、逆に同盟を結んでいる地元勢力を支援することも多かった。
 例えば1590年代からこの地の交易に加わったオランダは、数こそ少なかったものの当初から交易品の中に火器を含んでいた(p187-188)。また彼らはしばしば地元勢力同士の戦争に対し友好勢力を支援しており、1613年には20~25人、1618年には30人のオランダ人マスケット兵を貸し出している。1629年には60~70丁のマスケットと2門の小さな大砲を貸し出しており、これは「欧州のではなく地元の銃兵が戦争で使用された最初の事例を示しているのでは」(p189)と言われている。1633年には火薬や鉛などが、ポルトガルから供与された火器を持っている他勢力と戦う地元勢力のために供与されているし、1640年には英国の交易商人を追い払うためにやはり地元勢力に24丁のマスケットが与えられている。
 一方、1610年代から1650年代にかけ、オランダが戦争支援以外に火器を売っていたという記録はない。しかしこの時期には英国が既に火器を売りさばくようになっており、ある地元勢力は1647年には24人の、1652年には300~400人の銃兵を集めたという。英国やオランダが地元勢力の首長に火器を贈呈することも多く、その数は次第に増えていたのだろう。17世紀半ばには沿岸部だけでなく内陸諸国の中にも火器を持つようになるところが出てきた(p190)。

 黄金海岸への火器の輸出が急増したのは1660年代だ。それまでほ数十丁単位で売られていたのがこの時期から数百の単位まで増え、オランダも火器の売却を再開した。1660年には100丁のマスケットを売ったという記録があるし、1661-63年にはオランダの手で計4038丁の火器が西アフリカで売りさばかれた。この時期、黄金海岸を巡る英国とオランダの戦争に参加したデ=ロイテルは、英国の拠点を守る400~500人の地元兵がマスケットで武装しているのを、あるいは1000人の黒人がマスケットを持っているのを見たという(p191)。
 まだ兵の多くは槍や剣、斧、弓矢で武装していたが、一部の地元勢力は既にマスケットが最良の武器だと考えるようになっていた。1670年代になると欧州の貿易船が1隻で1000丁以上のマスケットを運び込むようになり、1680年代には欧州側拠点の倉庫には4000丁もの火器が蓄えらていた。
 一方、黄金海岸の隣にある奴隷海岸では、そこまで火器が普及する様子はなかった。1680年代までこの地域はアルドラ王国が大きな勢力を持っていたが、彼らに対してはポルトガルもオランダも火器を売ろうとはしなかったそうだ。とはいえ黄金海岸の地元勢力首長たちと同様、アルドラの王に対して火器を贈呈する習慣はあったようだし、またもぐりの貿易業者が彼らに火器を売る例もあった。1670年頃にこの地を訪れた欧州人は、100人単位のマスケット銃兵を王が抱えていたと記録している。
 奴隷海岸への火器の輸出は1680年代から本格化したが、その時点で運び込まれたのは1隻の船でマスケット150丁、カービン20丁、マスケトゥーン10丁(p193-194)と、黄金海岸に比べて桁1つ少ない単位の数だった。後に奴隷海岸一帯に勢力を広めるダホメーに火器が伝播したと確認できるのも1680年頃。沿岸部にあったウィダー王国が内陸との火器交易を盛んに行っていたようで、ダホメーもそうしたところから火器を手に入れたのかもしれない。いずれにせよこの地域でも火器の供給が増えるのは時間の問題だった。
 17世紀末から18世紀に入る頃には、黄金海岸と奴隷海岸には既に「飽くことを知らない火器マーケット」が生まれていた。あるオランダ人は「どうせ他国が売るか、さもなくばもぐりの貿易業者が供給するのだから、我々が売らないわけにはいかない。さもなくばシェアを失う」(p194)といった内容の発言をしていたほど。死の商人同士による激しいシェア争いが行われていたわけだ。
 長くなったので以下次回。
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