承前。
VII.
ライン軍は7月22日にネッカー河を渡河し、左翼はグムント街道を、右翼はゴッピンゲン街道を通りカール公を追跡した。この2つの街道のうち、前者はレンプ川峡谷に沿っており、後者はヴィルス川峡谷からヴュルテンベルク・アルプスと呼ばれるアルプ山地を越えていた。ライン軍の移動の遅さが、まだネッカー河の彼方で熱心に行動するようには運命づけられていないと思うようにカール公を仕向け、ヴァイセンシュタインの線に布陣させた。しかし7月23日、グムントに到着したドゼーが敵の後衛をしっかりと追撃し、アーレンで戦闘を行ってそこで500人の捕虜を得た。同日、右側の道路から進出したサン=シールがブレンツ川沿いのハイデンハイムに到達。8月5日と8日には前衛部隊が交戦し、数百人の損害で様々な成功を収めた。ザクセンの派遣部隊はオーストリア軍を見捨て、ザクセンへ帰った。
しかし、フランス軍は互いに3日の距離しか離れておらず、まさにアルトミュールで合流を達成しようとしていると考えたカール公は、それを妨げるために会戦のリスクを冒すことを決断した。彼の後衛部隊が前衛となった。その部隊はエグリンゲンまで押し出したが、そこでフランス軍に攻撃され、屈服し、300から400人の捕虜を取られた。しかし11日の夜明けには、全オーストリア軍が8個縦隊を組んで進出してきた。フランス軍は前もってネレスハイムにおり、そこで8リーグの長さの戦線を占拠していた。部隊は48個歩兵大隊と66個騎兵大隊で構成されており、合計4万5000人だった。ドナウ河から2リーグはなれたブレンツ川に拠るデュエームの6000人が右翼を構成。中央のタポニエはドゥンシュテルキンゲンの高地に9個歩兵大隊を、少し後方のディッシンゲンに3個歩兵大隊を配置した。シュヴァインドルフの前でボーピュイが左翼を形成。前衛のデルマと8000人はボップフィンゲンに布陣した。
大公左翼の3個縦隊のうち2個はディッシンゲンとディリンゲンから進出し、デュエームを正面と背後から攻撃して彼を中央部隊から分断し、1日分の行軍距離退却させた。その間、フレーリッヒ将軍麾下の3番目の縦隊はウルムでドナウ河を渡り、フランス軍の背後を取った。フランス軍司令部、兵站部門や文官などはハイデンハイムから駆逐され、アーレンへ逃亡した。かくして会戦が始まるや否やフランス軍は迂回され分断され、作戦連絡線を奪われて兵站と予備が混乱に陥った。この結果にはいくらかの重要性があった。しかしこれを引き起こした3つの縦隊は戦場から3リーグ離れた場所にあって、戦闘に参加することができなかった。右翼の2個縦隊はノルトリンゲン街道から進出し、前衛部隊と左翼の間を通ってガザン将軍が指揮する戦線の最末端を攻撃した。主要攻撃を担う中央の3個縦隊は大公個人が率いており、19個歩兵大隊と24個騎兵大隊で構成されていた。彼らはアウフハウゼンから進出し、前日夕方エグリンゲンの戦闘後に占めた陣地にいまだにいて、あまりに急だったため攻撃を予想していなかったサン=シールの哨戒線を崩壊させた。サン=シールは部隊をドゥンシュテルキンゲンの高地で再編。その後この陣地を突破しようとした大公の努力は終日実らなかった。双方の損害は6000人以上に達した。
夜になると大公は右翼をノルトリンゲンとドナウェルト[ドナルヴェルト]間の道路を通ってメルディンゲンの野営地まで、左翼をドナウ河沿いのディリンゲンまで下げた。中央は戦場で夜を過ごした。小規模なフランス軍部隊がハイデンハイムを奪回し軍の連絡線を回復したのを受け、モローは戦場にとどまって負傷者を集め、受け取る情報に応じて退却を手配するか前進するかを決めようとした。彼は勝利を得た。サンブル=エ=ムーズ軍は既にレードニッツ川を渡り、アンベルクからラティスボンへ行軍を振り向けるように見えた。彼らはカール公より数日先行しており、そのカールは11日の交戦でフランス軍を屈服して彼らをアルプ山地の隘路へ追い払うことができず、今や包囲されるのを避けるために一時も無駄にすることができなくなっていた。既に2つの軍の合流は成し遂げられたと考えた彼は夜の間に退却し、合流に抵抗するあらゆる考えを捨てた。というのも彼はフランス軍にドナウ河左岸とヴァルニッツ、そしてアルトミュールを明け渡し、ドナウとレッヒ川を再渡河したためだ。オーストリア軍は戦役に敗れたように見えた。
その間、[ライン]軍の3分の1に当たる23個歩兵大隊と17個騎兵大隊を率いるフェリーノ将軍は、シュヴァルツヴァルトの山を越えた後にコンスタンス湖畔のリンダンとブレゲンツを確保し、そこにティロルからの進出路を見張るためにラボルド将軍麾下の7個歩兵大隊と3個騎兵大隊を残し、16個歩兵大隊と14個騎兵大隊と伴にシュトックアッハ経由でメミンゲンへ前進した。13日、前衛部隊を率いるアバトゥッチ将軍はミンデルハイムの部隊を攻撃し、そのうちいくつかの連隊を叩きのめした。その後彼はライン軍に合流し、レッヒ川でその右翼を形成した。
(注:今回は2段落目から4段落目までが一つの段落。まともな表示がなされていない件で文句がある人はyahoo blogの方まで)
以下、次回。
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